Spanish Blue

あみ様

 見上げれば花、花、花。目の前にも、前にも後ろにも横にも。華やかすぎてくすぐったくなる。アンダルシアでもこの辺りは壁に花を飾った家が並んでいるのが有名らしい。白い壁の間に青く広がる空、そこに色とりどりの花が鮮やかに映える。
 青いドレスを纏った美しいフラメンコ・ダンサーがひとり立ったまま煙草を吸っている。背の高い踊り子だ。壁の花がちょうど彼女の頭の位置にあって、ブロンドの髪を飾るように彩る。
 ゾロが見ているのに気付いたのか、踊り子は目線だけを流して口端で笑った。妙に色っぽい。
「──迷ってる?」
 しかし発せられた低い声にはっとした。彼女、ではない声だ。
「男か?」
「ひと目見りゃ、わかんだろ。それより迷子じゃねェの」
「そういうわけじゃねェが」
 男だとはわからなかった。いや、良く見ればわかったのかもしれない。裾が広がる長いドレスはバイラオーレ(女の踊り手)独特のもので、先入観から女だとしか思わなかった。それに、青いドレスは彼にとても似合っている。
 かなり長い時間歩きまわっているものの、ゾロは迷っているとは思っていなかった。ただ、目的地はなぜか見当たらない。
「自覚なしか。お前、さっきから7回ここを通ってるぜ」
 今度は目で笑う。ドレスのせいか化粧のせいか、やはり色気が溢れる。
「7回?」
「おう。おれの顔、7回見ただろうが」
 見たかもしれない。いや、青いドレスの踊り子は何度か見た。特徴的な金髪も背の高さも妙にくるりと巻いた眉も、確かに見た。しかしそんなにじっと見ていたわけではないし、ゾロは人の顔を覚えるのが得意な方ではない。だから、コルドバの踊り子はそういうのが多いのかと流していた。
「まァこの辺りは路地が多いからな。どこ行くんだ?」
「サン・フェルナンド」
 ゾロはアパートの名前を告げた。すると突然声を上げ腹を抱えて笑いだした。さっきまでの色気はどこへやら、子どもみたいな顔で、涙すら目に浮かべている。彼がなぜ笑っているのかわからないゾロは困惑した。
「もし、かして、お前、ロ、ロノア・ゾ、ロ…?」
 言葉が途切れるのはまだ笑っているからだ。告げられた言葉にゾロは驚いた。
「そうだ。なぜ名前を知ってる」
「待ってたよ。ルームメイトのサンジだ」


 ゾロがバルセロナを出てきたのは10月。それまでカタルーニャからほとんど出たことがなかった。コルドバまで飛行機だとすぐだが、せっかくだから列車でマドリードを経由して観光をしながら3日ほどかけて移動しようと考えた。ところが、旅は3日で終わらなかった。気持ちの良い秋風が冷たい風になり、バルセロナではほとんど見ない雪が降って、気が付いたらまた暖かくなってきている。
「10月の初めに来るって聞いてたのに11月になっても来ないからさ」
 心配になって、サンジは連絡先に電話してみた。友人だと名乗った男は、電話の向こうで大きな溜息を吐いた。『あー、あれはファンタジスタなんだ。丈夫だから心配ないよ。まァ忘れた頃に行くんじゃないかな、悪いけど待っててやってくれ』と言われて、ファンタジスタって何だと思った。
「なるほどね、迷子のファンタジスタか」
「違ェよ」
「じゃあ何で3日で来ようとしたのに半年以上かかってるわけ」
 ゾロはぐ、と唸る。ずっとカレンダーを無視していたが、サンジに今日の新聞を見せられた。もう4月に入ったらしい、すでに闘牛シーズンは始まっている。ゾロは闘牛士だ。仕事に誇りを持ってやってきたが、最近は動物愛護だとか何とか煩い。バルセロナでは9月に闘牛が終了し、以降の開催は禁止となってしまった。それでゾロは地元を出ることにしたのだ。
「うお、うっめェ」
「話題変えんな」
 別にそういうわけではないが、アパートの部屋に入った途端に腹が盛大に喚き始めて、また大笑いした後にサンジが作ってくれたトルティージャが思わず声を上げるほど美味かった。
「今まで食べたトルティージャの中で一番美味い」
 素直に感想を述べると、当たり前だとか言いながらサンジは嬉しそうににかりと笑った。金の髪に白い肌の中に、瞳の青が光って見えた。
 サンジはマルセイユの料理人で、新しいレシピをと考えてスペインに来たと言う。
 ひとくち食べるごとに美味い美味いと呟いていたら、サンジは気分良くなったらしくぺらぺらと自分のことを話した。どんな料理が得意だとかどんな料理を作りたいだとか、フランスの好きなところだとかスペインで気に入ったところだとか。今日は仲良くしているロビンというバイラオーレが風邪を抉らせてしまい、急遽代役として踊ることになったとか。
「そろそろタブラオに行く時間だ」
 着たままの青いドレスを翻して部屋を出ていこうとするサンジの手首を、ゾロは慌てて掴んだ。
「見に行ってもいいか」
「──はい?」
「お前が踊るの、今日だけなんだろ。見たい」


 タブラオは出会ったときサンジが煙草を吸っていた場所で、ゾロはその店のテーブルまでサンジに連れてこられた。終わったら一緒に帰るから勝手に出歩くなと言われた。往復で2度通った道だから問題ないが、おとなしく言うとおりにしようとゾロは思う。
 サンジが選んだシェリー酒は辛口で度数が強くてゾロの好みにぴったりだ。ただ、一緒に出されたトルティージャはジャガイモが硬くていまいちだった。さっきサンジが手早く作ったもののほうが何倍も美味い。

 空気が変わったと思うのと、サンジが出てくるのが同時だった。赤っぽい照明に青いドレスが映える。
 ギターと歌が始まると同時に、サンジは脚を振り上げた。
 音が消える、というのをゾロは初めて経験した。
 ギターは掻き鳴らされ、歌い手の男が声を張り上げ、サンジはカスタネットを鳴らすのに、その一切が聞こえない。
 波打つドレスの青と、激しく揺れる髪の金。その視覚情報だけが入ってくる。
 青、青、青、合間に金。高温の炎のような押し寄せる青に、ゾロは溺れそうな気がした。
 サンジの動きがぴたりと止まり、それに僅か遅れてドレスの波が静まる。同時に、歓声と拍手と、消えていた音が一気にゾロの中になだれ込んだ。ゾロは拍手どころかシェリー酒を持っていることも忘れて、笑顔で手を振るサンジをただ茫然と見つめた。


 *


 ゾロとサンジの共同生活は決して順調とは言えなかった。
 一緒に暮らすとどんな人間でもアラが見えるものかもしれないが、それ以前に絶妙な感じで合わないところが多すぎる。ちょっとしたことで諍いが起き、喧嘩をしない日はなかった。それでも、どちらもその部屋を出ていこうとはしなかった。本当に合わないのに、なぜか居心地がよかったのだ、とても。
 洗濯や掃除はそれぞれ自分の分を自分でしていたが、食事だけはサンジがすべて作った。作りたいと自分で言い出しただけあって、どんなに喧嘩をしてもサンジがそれを放棄することはなかった。
 そしてどんなにムカついていても、ゾロが眠る前にはいつも青いドレスを着てフラメンコを踊るサンジの姿が浮かんだ。それから普段のサンジも。楽しそうに料理をする姿、笑った顔、怒った顔、巻いた眉の下の瞳。サンジの瞳は青い。そこからまた青いドレスが連想される。ぐるぐるとサンジの色々な姿が浮かび、そのうちにゾロは眠ってしまうのだった。
 サンジが闘牛場を訪れたことが一度だけある。ゾロはそのとき青地に金糸の刺繍の入った衣装を着ていたことをはっきりと覚えている。一番気に入っている衣装だ。サンジは赤いムレータを振るゾロを食い入るように見つめていた。アパートに戻ってもサンジは何も言わなかった。サンジの性格から考えて、もしかしたら気に入らなかったのかもしれない。それはそれで仕方がない。一度でも見てもらえたならそれでいいと思い、ゾロも何も訊かなかった。


 *


 一緒に暮らしたのはたった3ヶ月だった。密度が濃かったので何年にも感じられたし、あっという間だったようにも思える。
 サンジがマルセイユに戻ると言ったのは、オリーブの実がすっかり大きくなった頃だった。コルドバの夏が、窓から乾いた熱風を運んでいた。
「一応、渡しとく」
 サンジがテーブルに置いた小さな紙切れには『Tout le bleu』の文字があった。
「お前の店か」
 訊くと、煙草を燻らしながらほんの僅か首を前に傾けた。しかし店名らしいその短い文字以外の情報は何ひとつ書かれていない。これでは、行きたいと思っても叶わない。来るなということだろうか、だったらなぜこれだけを伝えるのだ。サンジの意図がわからず、ゾロはその紙をぼんやりと眺めた。
「いつ戻るんだ」
「…今日」
 今日!ゾロが慌てて部屋を見渡してみると、そういえば確かにサンジの物がきれいに片付けられている。もともと2人とも物をあまり持たない性質だから気付かなかった。
 ゾロが我に返ったときには、サンジはすでに靴を履き鞄を手にしていた。
「おい、」
「短い間だったが、ありがとう」
「いやそれはこっちの方が、」
「ああ、そうだ」
 サンジは扉に手を掛けている。
「あれだ、闘牛は趣味には合わねェけど、お前は、」
 ゾロは僅かも動けなかった。
「──お前は格好いいよ」

 バタンと扉が閉まる音を、ゾロはどこか他人事のように聞いていた。あまりに呆気なくて、冗談みたいだと思った。
 部屋には煙草の匂いが染みついているし、冷蔵庫には昨日サンジが作ったガスパチョが入ったままのはずだ。窓の外には向かいの家の壁に飾られた花が見える。空は青い、初めて会ったときのサンジのドレスのように。
 ただのルームメイトが自分の家に戻るのを追うという選択肢はなく、心許ない気持ちを持て余してゾロは途方に暮れた。


 *


 砂浜に波が打ち寄せる。さっきまで海には船がたくさん浮かんでいたが、砂浜からは青い地中海が広がるばかりだった。陸の方に歩けばすぐにたくさんの建物が並んでいる。
「──迷ってる?」
 ゾロの頭上から声が降ってくる。見上げる前に建物の扉の前を見れば、小さな看板に『Tout le bleu』の文字。
 『マルセイユ』と店の名前だけが手掛かりだった。空は今日も青く、眩しい光の下に零れ落ちるような笑みと青い瞳。半年以上かかったバルセロナからコルドバよりも、離れているはずなのに、ずっと近かった。10月にコルドバを出てからひと月、たまたま誕生日に辿り着いたそこには、ゾロが探していたすべての青があった。





ああ、サンジくんが華麗に踊ってる~!!! あみさんの文章に導かれて、視覚も聴覚もゾロと一緒に追体験しました(うっとり)。映画を見ているかのような素敵なお話をありがとうございました!
あみ様のサイト:『Honey Leaf』