それでは、また明日

またたび史瀧 様

 ――21歳の秋に、ゾロは思い立って初めての海外旅行に出かけることにした。
 大学3回生の秋。見た目によらず真面目なゾロは、必要な単位をそれなりに揃えていた。大学を休んで2週間ほど旅に出てみようと思ったのは、ただ純粋に、大学生のうちに世界を見てみたかったからだ。ゾロにとっては、自分が今いる世界が全てで、その外側にもっと大きな世界が広がっていることが分かっていても、実感することはできなかった。大学生になってから、バイトでコツコツと貯めたお金を全てはたいてでも、行く必要があると思った。
 どうせ行くなら近場じゃだめだ。簡単には行けないくらい遠い場所、自分とは違う人種の住んでいる場所が良い。そう思って世界地図を開いてみたゾロは、ヨーロッパに行くことに決めた。理由は、比較的狭い中に、多くの国があったからだ。2週間の間にできるだけ多くの国を見てみたいと思っていたので丁度良かった。
 ゾロがひとりで海外に旅に出ると聞いて、友人たちは口をそろえて反対した。『お前絶対そのまま帰って来れなくなるって!』。失礼な。地図とガイドブックとパスポートと金さえあれば何とかなる。ゾロは主張した。彼が致命的な方向音痴であることは周知の事実だったので、それでも友人たちは納得していなかったが、ゾロが一旦決めたら絶対に譲らないくらいに頑固であることも知っていたので、半ば諦めたように言った。『困ったら、とりあえずタクシーを使え、行き先さえちゃんと言えば目的地まで連れてってくれるから!』と。
 そんなロロノア・ゾロ21歳は、無事にフランスはシャルル・ド・ゴール空港に降り立った。時刻は現地時間で朝の8時過ぎ。外はゾロの国よりもずっと肌寒かった。


 フランスにおける目的地はパリ市内だ。やや出費は痛かったが、とりあえず最初の国なのと、空港からパリ市内へはタクシーも便利だ、と、去年の夏にパリに旅行に行った友人が言っていたので、ゾロは空港からタクシーに乗ることにした。タクシー乗り場までは、人の波に乗っていたら何とかたどり着いた。インターネットで予約したホテルについて書いてある紙を見せると、陽気なタクシー運転手は鼻歌まじりに出発した。
 建物、街並み、人。タクシーの窓から見える全てが、ゾロの居る国とは違っていた。それに小さな感動を覚えているうちに、タクシーはホテルに着いた。金を払い、スーツケースを出してもらい、いざ宿へ。正直、英語もあまり話せないし、聞き取れない。しかしまあ何とかなるだろう、とゾロはホテルのフロントへ向かった。
 ――ところが、である。
 片言の英語で名前を告げたゾロと、パソコンの画面を見て、フロント係は困惑した顔をしている。そしてペラペラペラとゾロに向かって何か言った。よく分からないが、『ノー』『リザーベーション』と言うような言葉が混じっていたような気がする。嫌な予感がして、ゾロはホテルの予約完了のメールをプリントアウトした紙をフロント係に見せた。それを見たフロント係はますます困惑した顔になる。ペラペラペラ。また何かゾロに言ったが、今度はさっぱりお手上げだった。
 「――予約がうまく取れてなかったみたいだ、インターネット予約だったからブッキングした可能性がある、だってよ」
 背後から声がした。ゾロの後ろでチェックインのために並んでいた青年だった。金髪に青い目、片方だけ覗いている眉毛はなぜか先がクルクルと巻いていた。ホテルに泊まる客というよりは、元々この国の人間ではないかと思うような風貌だった。しかしゾロの国の言葉で彼は話した。
「何だと!?」
さすがのゾロも焦った。今から探すのか、宿を。海外にも安いユースホステルや、最悪ドミトリーという安宿があることは知っていたが、そこを新たに探すには高い言葉の壁がそびえ立っている。しかもどこをどうやって探せばいいのかも分からなかった。
 ペラペラペラ。金髪の青年が、フロント係に何か話しかける。英語――じゃない。音の感じから、フランス語だ、と思った。フロント係は青年の言葉に首を振り、何かフランス語で返していた。んー、と青年が苦い顔をする。そしてゾロを見た。
「フランス、初めてか?」
「フランスどころか海外旅行自体初めてだ、ちなみに英語も苦手だ」
堂々とゾロは答えた。
「よくそれでひとりで…」
青年は呆れたように言うと、フロント係に向き直り、またフランス語で何か話しかける。フロント係はパソコンで何かを確認すると、『ウィ』と言った。これはゾロにでも分かる、『イエス』だ。青年が更にペラペラと何か話すと、フロント係は少し驚いたような顔をして、ペラペラと何かを答えた。青年がまたペラペラと何かを話す。全くゾロは付いていけなかったが、とにかくこの金髪青年に自分の命運が懸かっていると直感で判断し、やりとりを見守った。
「メルシー、ボクゥ」
青年がフロント係に言うと、フロント係は小さく首を振ってペラペラと何か答える。その中に『メルシー』という言葉が混じっているのが聞こえた。何だろう、と思っていると、青年がゾロを振り返った。
「おれの部屋、ツインが割り当てられてるみてェなんだが、一緒に泊まっても良いってよ。――お前が見知らぬ人間と同じ部屋は嫌だっつうんなら話は別だが」
金髪青年はそう言ったが、ゾロに『嫌』という選択肢は無かった。いや、あったのだが、それは見知らぬ人間と一つ部屋に泊まるよりも厳しい選択だった。
「おれは嫌じゃねェが――お前はいいのかよ」
ゾロが訊くと、青年は、
「おれは別にいいけど。旅は道連れ世は情け、ってな」
と悪戯っぽく笑った。何だかんだ言いつつも自分は心細かったのだろうか、その笑顔にゾロはとても安心した。


 ――金髪青年の名はサンジといった。何とゾロと同い年だったが、彼はもう働いているのだという。どんな仕事をしているのかと訊いたら、彼は少し照れ臭そうに、料理人だと言った。
「フランスにはよく来るのか?」
ゾロは訊いた。
「何で?」
「さっきフランス語ペラペラだったじゃねェか」
「あー…元々こっちの生まれだから。3年ほど前に国を出てから、帰ってくるのは初めてだ」
「ふーん…」
こっちの生まれならば、家族や親戚の類は居ないのだろうか。帰省のはずなのにわざわざホテルに泊まるのは不自然な気がした。しかしそれは、初対面のゾロが訊いてはいけない範疇のことに思われた。
 ホテルの部屋にはベッドが二つ並んでおり、ゾロが窓側になった。荷物を解きながら、ゾロは問うた。
「お前、誰に対してもそうなのか?」
「何が」
「おれが言うのも何だが…その、初対面の奴と一緒の部屋に泊まってもいい、とか」
「まさか」
サンジは即答した。
「おれもちゃんと相手見て言ってる」
それは、自分だから別に良いと思った、と言うことだろうか。深い意味もなくサンジは言ったに違いないが、ゾロは少しドキッとした。しかし、サンジはさらに続けた。
「少なくとも、他の国から来たやつだったら声はかけなかったな。まあ、その色のパスポート持ってるやつが全員信用できるか、っつったら別の話だが。お前、旅慣れしてなさそうだったしな」
その言葉に、ゾロは自分がガッカリしたのを否めなかった。国籍で判断されただけだったのか、と。自分はサンジと初対面なのだからそれは当たり前の話なのだが、何となく自分を気に入ってくれたのだろうか、などという期待が、少なからず心の隅にあったことを自覚して、ゾロは内心恥ずかしくなった。
 「お前パリでどこに行きたいとかあるのか?」
色々考えていたら不意にそう訊かれて、ゾロは我に返った。ガイドブックをパラパラと捲り、とりあえず行ってみようと思った箇所のページを開く。
「ルーブルと、ノートルダムと、ヴェルサイユか、いっぺんに行くのは無理だろうな」
パリは有名な観光名所の近くには必ずメトロの駅があるから、降りる駅さえ間違えなければ簡単に着くよ、とサンジは言った。
 まずはルーブル美術館に行くつもりだ、と言ったゾロに、サンジも行きたい場所があるらしく、途中まで一緒に行こうか、という話になった。
「――で、お前はどこに行こうとしてるんだ?」
ホテルの玄関を出て通りを歩きだすなり、ゾロはサンジに呼び止められた。
「どこって…ルーブル」
「そりゃ分かってるが」
ルーブル美術館は地図でホテルの右側にあったから、右に向かって行けば着くだろう、とゾロが言うと、サンジは盛大にため息をついて空を仰いだ。
「お前、よくそれでひとりで…」
本日2度目のセリフである。そして小学生に諭すようにサンジは言った。
「お前、自分が立ってる向きとか、通りの向きとか、考えてるか?」
「……?」
ゾロが首を傾げると、サンジはまたも盛大にため息をついて、今度は首を横に振った。
「……いいよ、一緒に行ってやるよ」
「行きたいとこがあるんじゃねェのか」
ゾロとしてはサンジの申し出は非常に有難かったが、じゃあ、と安易に受け入れるのも申し訳ない気がして、一応そう言ってみた。
「…まあ、別に今日でなくてもいいし」
それは、ゾロの勝手な思い込みかも知れないが、ゾロに気を遣っての言葉と言うよりは、その『行きたい場所』に行くのを先延ばしにしたいため、であるかのように見えた。


 悉くサンジの行く方と違う方向へ行きかけてはサンジに引きとめられ、ゾロは無事にルーブル美術館に着くことができた。映画で見たことのある、ガラス張りの三角ピラミッドにおお、と内心感動する。
 モナリザが実は結構小さな絵だったことに驚いたり、最後の晩餐はルーブルには無いことを知って落胆したり。成り行きで一緒に来てくれたサンジも、『久々に来たけどやっぱりいいモンだなあ』なんて呟いていたのでホッとする。
 美術品に夢中になっているうちにあっという間に時間が過ぎており、腹の虫が鳴いたことで昼をとうに回っていたことに気が付いた。
「見たいもの全部見終わったなら、何か食べに行くか?」
ゾロの腹の虫に気が付いたサンジがそう言った。ゾロは二つ返事で頷いた。
 小洒落たカフェに向かい合って座る。メニューはフランス語でしか書かれておらず、サンジが一つ一つについてゾロに教えてくれた。運ばれてきたコーヒーを、伏し目がちに飲むその姿をゾロはこっそり盗み見る。当たり前だが、サンジは周りの風景に完全に溶け込んでいる。白い肌に青い目、金色の髪がキラキラしていて、睫毛まで金色だ。先ほどの美術館の余韻からまだ抜けきっていなかったゾロは、そんなサンジの姿を、きれいな造形だ、と思った。
 ボーッとサンジを眺めていると、不意にサンジの視線が上がり、目が合う。見つめていたのに気付かれたか、とゾロは内心焦ったが、料理が運ばれてきたので顔を上げただけだったようだ。目の前に置かれた皿には、美味しそうな料理が載っている。ゾロの国では考えられないくらい、結構な量だ。しかし周囲のテーブルでは、若い女性ですらその皿を平然と空にしているのに驚いた。
「――いただきます」
ゾロは手を合わせると、料理にフォークとナイフを伸ばした。美味い。さすがは美食の国フランスだ。世界三大美食は伊達じゃなかった。
 ゾロがハムスターのように頬袋を膨らませて食事をしている向かい側で、サンジも自分の料理を食べている。フォークとナイフの使い方が恐ろしくきれいだった。そして目が真剣だ。カフェでランチを楽しみに来た客の目ではなく、明らかに料理の味を分析していた。そう言えば料理人だと言っていた。その様子にゾロは声を掛けられずに、ひたすら食べた。
 「――ご馳走様でした」
空になった皿を前に手を合わせる。その様子を見ていたサンジがおもむろに言った。
「――知ってっか?『いただきます』とか『ごちそうさま』とかって、他の国には無い言葉なんだってさ」
「そうなのか?」
「そう。例えばクリスチャンは食事の前に十字を切ったりするし、フランスだと『召し上がれ』みたいな言葉はあるんだけど、『いただきます』や『ごちそうさま』に対応する言葉は、世界中どこの国にもない。近隣のアジアの国にすらない、おれたちの国にしかない概念なんだって」
「へェ…」
 思えば、『いただきます』や『ごちそうさま』は、作ってくれた人や食材となった命に向ける感謝の言葉だ。そういう独特の概念が、自分の国にはある。
「何かいいな、そういうの」
ゾロが言うと、サンジはそうだな、と笑った。
「ずっと内側に居ると見えなくて、外に出て初めて分かることってあるよな」
サンジはそう言って、カフェから見える通りに目をやった。
「例えば他にもさ、電車の中で居眠りができるのも、世界中探してもおれたちの国くらいのモンだって知ってた?他の国ではありえないんだってさ、危なくて。それくらいおれたちの国は安全ってことなのかも知れないけど、その代わりに、優先座席でも年寄りとか体の不自由な人に席を譲ったりする姿もあまり見ない。お前もさっきメトロ乗ってて気づいてたろ」
 それはゾロも気付いていた。初めて乗ったパリのメトロ。若者から中年、タトゥーが入っていそうな強面の男性ですら、それがまるで当たり前のことであるかのように、ごく自然に老人に席を譲っていた。荷物とベビーカーと赤ん坊を抱えて、乗り込むのにもたついていた女性を数人の男性がサッと手伝う姿もあった。恩着せがましくもなければ、周囲もそれほど気にしていない。それほどに『当たり前』の光景なのだろう。ゾロの国では、そういう姿はあまり見ない。
「外から見ると、自分がそれまでいた場所の、良い所にも悪い所にも気が付いて、嬉しくなったり寂しくなったりするよ。――多分国だけじゃなくて、家族とかもそうなんだろうな」
 通りを見たままでそう言ったサンジの横顔は、どこか少し寂しそうに見えた。


 結局翌日もその翌日も、サンジはゾロの観光に付き合ってくれた。当初予定に入れていなかったエッフェル塔も凱旋門もシャンゼリゼ通りもオルセー美術館もモンマルトルも、サンジの道案内のお陰で時間が余ったから行けた場所だ。エッフェル塔や凱旋門なんかは、まるでお上りさんみたいで行くのを敬遠していたのだが、実際行ってみると、見ておいて良かったと思った。
パリは3泊の予定で、4日目にはベルギーに旅立つ予定だったゾロは、フランス最終日の昼にサンジに訊いた。
「そう言えば、お前行きたいとこあるっつってなかったか。ずっとおれに付き合ってくれてるが、いいのか?」
ゾロが最初に感じていた通り、ずるずると先延ばしにしていたのであろう、サンジは言葉に詰まった。行きたいのに、行きづらい場所――なのだろうか。サンジは暫く沈黙したが、やがて目を伏せて言った。
「良くはねェんだが――…緊張する、というか、何つうか…」
そして、ゾロをゆっくりと見上げる。
「今夜、付き合ってもらえると助かるんだが…」
言われるまでもなかった。元より、この3日間世話になったので、何かサンジに礼がしたいと思っていたのだ。何となく、サンジの行きたい場所は分かっていた。故郷のはずなのにわざわざホテルに泊まったり、帰りたいのに帰りづらい場所だったり、それから、最初の日にカフェで話した内容だったり。そんな場所は、ひとつしかない。
 ――『RESTAURANT・BARATIE』と書かれた看板の前で、立ち尽くすこと30分。ゾロは急かすでもなく、サンジ自ら中に入ろうとするのを待っていた。ここが――サンジの家なのだろう。
「おし!」
と気合を入れたサンジは、ようやく扉を引いた。ボンジュール、と言いながら振り返った店員は、サンジを見て目を丸くした。サンジ、と呼びかけて何かをペラペラと喋っていたが、ゾロにはさっぱり分からなかった。
 二人用の席に案内され、向かい合わせに座る。ゾロは訊いた。
「ここ――…お前の家なのか?」
「まあ…そんな感じだ」
サンジはバツが悪そうに答えた。しばらくして、アミューズが運ばれてくる。
「うまっ!」
一口頬張ったゾロは、思わず声を上げてしまった。パリでの食事はどれも美味しかったが、この店は桁違いだ。ドレスコードも何もないのに、ビストロとは違う、本格フレンチの味。
「だろ?」
ゾロの反応に、サンジは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。自分が作ったわけでもない料理を褒められてこんな顔をするくせに、それほどに自分の家が好きなのに、それでも帰るのに躊躇する。ゾロにはよく分からない。
 アミューズの皿が下げられしばらくすると、テーブルに影ができた。見上げると、スープが入った皿を両手に持った、長いコック帽の男が立っていた。長い口髭は三つ編みにされ、片足は義足だった。物凄く大柄というわけではないのに、凄い威圧感だ。サンジの表情が固くなる。
「一人前になるまでは絶対に帰って来ないんじゃなかったのか」
男の言葉に、サンジは唇を固く結んで、顔は俯かず、けれども視線だけは下を向いた。
「――…と、言いてェところだが。友達と旅行に来ただけ、っつうんなら話は別だ」
スープを置きながら、男が言う。サンジは少し目を見開いて、男を見上げた。男はそんなサンジには何も言わず、ゾロの方を見て言った。
「美味ェだろ、ここのメシは」
ゾロは頷く。男は薄く笑った。
「まあ、楽しんで行ってくれ」
交互に違う足音を立てて、男は去っていく。ゾロはサンジを見た。サンジはスープをジッと見つめていた。
「さっきの、お前の――親?」
「血のつながりは無ェけどな」
サンジはポツポツと話し始めた。自分には血のつながった家族が居ないこと。或いは居るのかも知れないが、それがどこの誰かは分からないこと。9歳のときに縁あってここに引き取られたこと。3年前、一人前のコックになるためにここを出て行ったこと。それが半ば喧嘩別れのような形であったこと。最近仕事に行き詰まっていて、追い詰められてどんどん効率も悪くなり、休暇をとったのだということ。そして――目の前にあるこのスープが、サンジが9歳のとき、初めてここに来たときに飲んだものと同じであること。
 サンジはゆっくりとひと口、スープを飲んで、小さく舌打ちした。
「ちくしょう、やっぱり、めちゃくちゃ美味ェ」
そう言って微笑んだ顔は、笑っているのに泣いているように見えた。


 結局、意地っ張りな親子はその後も会話を交わすことのないまま、料理を食べ終えたゾロはサンジと共に店を出た。しかし、店を出たサンジの表情は、店に入ったときと打って変わって晴れやかだった。
 メトロをホテルのすぐ傍の駅ではなく途中で降りて、セーヌ川沿いを並んで歩く。夏から秋にかけては日没が遅いヨーロッパでも、夜の10時ともなればさすがに暗くなっていた。セーヌ川にはたくさんの橋が架かっている。橋の真ん中から、オルセー美術館の大きな時計が見える。昼間に見たときと違って、ライトアップされて幻想的だ。橋の欄干には、たくさんの南京錠が付いていた。
「気になってたんだが、セーヌ川の橋には何でこんなにいっぱい鍵が付いてんだ?」
ゾロが言うと、サンジは、鍵の中の一つにそっと手を触れた。
「恋のおまじないだよ。錠前に好きな人の名前を書いて、欄干に取り付ける。で、鍵の方はセーヌ川に投げるんだ。そうすれば恋が叶う、って話だ」
「ふーん…」
普段のゾロは、恋のまじないなどどちらかと言うとバカにしてしまうタイプだが、不思議とそんな気持ちにならないのは異国マジックというやつだろうか。
 欄干に両腕を載せて、サンジはセーヌ川を眺めながら言った。
「明日出発だったよな、次どこに行くんだっけ」
「タリスで、ベルギーまで行く」
「ベルギーか…チョコが美味いとこだ、あとビール」
「チョコにはあまり興味は無ェが…ビールは楽しみだな。あとは、ルーベンスの絵を見に行く」
「フランダースの犬の?」
「ああ」
いいなあ、とサンジは心底うらやましそうに言った。一緒に来るか、と思わずゾロは言いそうになった。サンジとの3日間は楽しく、もっと一緒に旅を続けたいと思ったが、サンジにも予定がある。それはさすがに無理だろう、と我慢した。そんなことを考えていたら、サンジがふと思い出したように言った。
「あ、あとベルギーに行くんなら小便小僧見に行った方がいいぜ」
「あ?有名なのか、それ」
「有名有名。見に行ったら超ガッカリするらしい、世界三大ガッカリのひとつとまで言われてるくらいガッカリなんだそうだ」
「何だそりゃ」
「まあ、それも経験ってことだな」
サンジは悪戯っぽく笑う。最初にホテルで見た笑顔と同じだ。この3日間でサンジの色んな笑顔を見てきたが、この笑顔が割と好きだ。
「けど、お前が無事にベルギーまでたどり着けるかどうかの方が、おれは心配だよ。迷子にならなきゃいいけどな」
そう言って笑ったサンジを見て、ゾロの胸がひときわ大きく鳴った。何だこれ、とゾロは思う。ちょっとドキッとした、というレベルではない。心臓のサイズが5倍くらいになったのではないかと思うくらいに、ドッコンドッコンと鳴っている。
 ――あ。何やってんだおれは。
 思わずサンジの頭を自分の肩に引き寄せてしまったゾロは、我に返ってそう思った。
「わ、何だ何だ、心細くても付いて行ってやらねェぞ」
サンジはゾロの肩に顔をうずめたままでそんなことを言っている。付いてきてほしい。けれど、それは迷子になりそうで心細いからではない。
「…分かってるよ」
ゾロはサンジから離れた。サンジの顔が赤く見えたのが、オレンジ色のライトアップのせいだったのか、そうでなかったのかは、分からなかった。


 翌日、サンジはゾロがタリスに乗る駅まで見送りに来てくれた。
「降りる駅、アントウェルペン中央駅だぞ、アントワープって言わないぞ、間違えんなよ」
と、10回くらい言われた。どこまで信用されてないんだ、と思ったが、まず駅の中でタリス乗り場に行くのにまで迷いそうになっていたのを見たサンジが不安に思うのも無理はない。
「おれは明後日には帰国するけど、まあ、ど―――しても困ったら電話しろ、教えた携帯番号、国際電話もいけるから」
まるで親みたいにゾロの周りをウロウロするサンジに、ゾロは最初呆れていたが、だんだんおかしくなってきて、思わず笑ってしまった。
 タリスの赤い車体がホームに入ってくる。アムステルダム行き。この列車だ。
「じゃあ。世話になったな」
名残惜しいが、ゾロはそう言うと、切符を打刻機に通してホームへ向かおうとした。
「あ、それから!」
サンジがゾロの服の裾を掴む。何だまだあるのか、大丈夫だっつうの。そう思いながら振り返ると、サンジは顔を赤くして俯いていた。
「か、帰ったら、ルーベンスの絵がどんなだったか、教えろよな」
「……ああ」
要するに、『帰ったら連絡しろ、また会おう』と、そういうことか。素直じゃないな。まあ、言われなくてもそのつもりだったけれど。


 ゆっくりと、タリスが発車する。景色が流れる。サンジと会った、パリの街を後にして。
 ベルギーの次は、またタリスに乗って、アムステルダムに。そこから飛行機で、ウィーンに行って、最後にフランクフルトとミュンヘンに行って、帰国する予定だ。ルーベンスの絵だけではなく、オランダでもオーストリアでもドイツでも、見たもの知ったこと、色んな話をサンジに聞いてもらいたい。そして次の機会には、一緒に行けたらいい。そう思った。
 ――そんなゾロは、サンジのお陰で無事アントワープで下車できたものの、広すぎる駅から出られずに早々にサンジに電話するハメになったのだが、それもまた、笑い話ということで。

END

心の機微が丁寧に描かれていて、とても癒されました。異邦人というのは、なにも土地のことだけではない、たとえば社会でもサークルでも自分が居て違和感がある場所なら異邦人なんですよね。心に沁みる作品をありがとうございました!
またたび史瀧様のサイト:『Puberty』