Love Story

みあ様

 世界の果てに何があるのか。それを見たい。
 高校時代、国際ジャーナリストへの夢を熱く語った時、金髪の幼なじみは微笑んで、いいな、と一言云った。
 思い返すと、あの頃は恥ずかしいほどに青臭いことを、大まじめに考えたり口に出したりしていた。尊敬するジャーナリストやカメラマンが寄稿した雑誌をサンジに見せて、物知りぶったりしたこともある。
 そんな背伸びを、サンジはちゃかしも否定もせず、静かに頷きながら聞いてくれていた。

 あの時、どうしてお前は?と問わなかったのだろうか。
 いつでも彼とは、会いたいときに会えるような気がしていた。そんなにも、そばにいるのが当たり前の存在だった。



 ゾロは首都で借りた四輪駆動車を走らせた。目指すのは西アフリカの、サバンナ地帯にある小さな村だ。電気も水道ももちろん通っていない。首都から村までの三百キロの道路は未舗装で、雨期には粘土質の泥道になり、車での通行は不可能になるような僻地。
 スペアタイヤ、ガソリンタンク、飲料水。それに食料を、山ほど積み込む。
息をするのも苦しいほど気温は高い。強い日差しが容赦なく照りつける大気の中、陽炎が揺らめく。半砂漠地帯の砂埃は微細だ。車の中にまで入り込み、タオルでマスクをして走らなければならなかった。道路にまで伸びているアカシアのトゲで、タイヤはすぐにパンクした。

 一本道を一台の車ともすれ違わないまま、何時間も走り続けた後、目的地の周辺と覚しき場所に着いた。すでに日は傾きかけた時刻で、大きな太陽が灌木の繁みを黒々したシルエットに変え始めていた。少しこの辺りは緑が濃い。インパラがサバンナの中をピョコピョコと駆けて行くのが見えた。

 早く村を見つけなければまずい。

 アフリカでは、夜道のドライブは命取りになりかねない。少し焦った気持ちで目を遣った道の先を、小さくロバと人影とが横切って行った。





 集落は案外と大きかった。ゾロが車をゆっくりと進めると、家畜の世話をしていた女達が顔をあげ、子ども達は遊びを中断して目を大きく見開いて闖入者を見つめた。村の男達が、用心深く近寄って来る。用件を告げようと窓を開けた途端、物見高く車を取り囲みだした村人達の後ろから、懐かしい声が聞こえた。

「ゾロ」

 金髪と、日に焼けたとはいえ、現地の住民の中では明らかに異質な白い肌が、視界に飛び込んだ。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。少し痩せたように見えた。

「よう」

 一言に万感を込める。
 サンジは、ゾロよりも早く日本を出て、植林活動をアフリカ各国で繰り広げるNGOの一員として働いていた。







「思ったより、緑が残っているな」
「ああ。サヘルの中でも、この辺りはまだマシだ。川も近くにあるし。だからここから始めることになったんだ」

 市も近くに立つし、近隣にいくつが村がある、とサンジは説明をした。
 現地の人びとの服装は様々だ。鮮やかな色合いの洋服を着ている者が多いが、肌を覆う直線的な布地でできた伝統衣装を着ている者も見受けられる。女達は、頭の上に何でも乗せて運んでおり、サンジの姿を見かけるとにっこりと微笑んだ。サンジも笑顔を返す。



 日が暮れきるまでのほんの一時、二人は村の外れへと歩いて行った。人気の無い大地の上で、遠く地平線まで続く空を眺める。



「あれがモデル植林区だ。徐々に面積を増やしている」

 一際大きなブッシュを指さして、サンジが云った。
 植林と云っても、ただ苗木を育てて木を植えればいいだけではない。まずは現地の人びとが、木を植えることのできる生活ができるよう、考えなければならない。

「見ていってくれ。ここの人達の生活を」
「ああ」
「迷子になるなよ?よくお前がここへ一人で辿り着けたもんだ」
「うるせェ。一本道をどうやったら迷うってんだよ」
「それでも迷子になるのが、お前だろうが」

 クスクスとサンジが喉声で笑う。
 サンジの表情にも態度にも、気負いはない。ゾロに見せる笑顔も、昔通りのものだった。それにもかかわらず、ゾロは目の奧に強い信念の光をたたえた青年を遠く感じた。自分のよく知っていたはずの幼なじみが、まったく見知らぬ男のように見える。



 空全体がバラ色に染まっていた。燃える太陽。燃える空。世界が目の前で色を変えていく。ピンク。朱色。赤。紅。紫。木々と野生動物が黒々としたシルエットになって映し出された。

 ああ。アフリカだ。

 太陽の沈む方向を真っ直ぐに見つめる横顔が、照る日に染まる。サンジは違和感なく、異国の光景の中に佇んでいた。

 空が藍に染まった頃、二人はランプに灯を灯し、押し黙ったまま村へと帰っていった。






 太陽が沈んでも、気温は下がらない。寝る前に井戸で行水を使い、冷やしたビールを飲むのだけが涼を取る手段だ。
 NGOは、村の外れに同じような小屋を四棟と、屋根だけの広々した集会所を一つ建てて活動の拠点としていた。集会所は、食堂であり会議室であり、地域の村人との交流の場でもあった。
 宿泊場所として、ゾロが提供された土壁に草屋根の小さな小屋の中は熱が籠もっており、ひどく暑い。

「ゾロ」

 サンジが中に入って来た。ビールを一本、手渡される。

「特別サービス」

 ニヤッとランプの明かりの中で、サンジが笑った。電気の通っていないこの村で、破傷風の血清はプロパン式の冷蔵庫に入れて保存している。冷蔵庫の効きは決して良くない。それでもここで血清と一緒に冷やしたビールが、日本から来たサンジ達スタッフの唯一の贅沢なのだ。

「日本の缶詰でも開けるか?」
「いや。どうせなら、それはみんなで食った方がいい」

 毎年、夏になると暑さにのぼせていた幼なじみが、こんな場所で平然と過ごしていることに、ゾロは驚きを覚えた。
 現地の人間は、早朝の涼しい時間だけしか畑仕事はしない。何しろ、午前十時には気温が四十℃を超える灼熱地帯だ。ここでサンジ達は一日中太陽の下で働く。そうしないと、何万本もある苗木の世話はできない。

「お前、暑いのが苦手じゃなかったか?」
「慣れた。人間、そんなもんだ」

 簡易ベッドに腰掛けて、薄暗い中、隣に座る金髪の男を見る。喉を鳴らしながらビールを飲んだ男が、口を拭った。サンジはアルコールに弱い。ランプの心許ない光でも、目元がうっすらと染まっているのが見て取れた。

「日本へは?」
「近いうちに、一度戻る。だけどすぐにこっちかな。お前も、忙しいんだろ」

 帰国のスケジュールが合うとは限らない。意味の無い問いだった。サンジからも、特に何かを期待する風でもない答えが返ってくる。

「ああ」

 実際、会える見込みは殆どない。今までも何年もの間、顔を見ることさえ叶わなかったのだ。
 沈黙が二人の間に落ちた。その空気を振り払うようにして、サンジが立ち上がった。



「それじゃ。寝苦しいだろうけど…」
「待てよ」

 腕を掴む。
 今日だけの滞在というわけではない。しかし会ったこの日に云っておかなければならないことがある気がした。

 ゆっくりとサンジが振り返った。



「俺は…」

 云いかけるが、ゾロの唇に触れてきたサンジの長い指は、それ以上の言葉を許さない。蒼い目は黒に近く、底に深い光を見せていた。

「会いに来てくれて嬉しかった。忘れてねェよ。だけど、今はこれでいい」

 静かに。だがきっぱりとサンジは言い切った。

「…お前を引っ掴んで帰りたい」

「ああ…」

 分かっている、と云うように、サンジは少し苦しげにゾロを見た。
 頭を両手で抱えて、ゾロは俯いた。



 このままサンジはこの地に溶け込むようにして、自分とは別の人生を生きていくのだろうか。人類の生まれた大地溝帯のあるこの大陸で。この地に魅入られて。
 どこまでも続く大地が。雄大な空が。灼熱の太陽が。サンジの魂を焦がし、抱きしめていた。
 忘れはしなくとも、自分のことはすでに過去の存在にして。
 会ったら告げるつもりだった言葉は、アフリカの空と大地に圧倒される形で力を失ってしまう。



「おやすみ。良い夢を」

 目を上げると、戸口から、闇の中へとサンジの体が吸い込まれるように消えるところが見えた。 








 ゾロは寝返りを何度も打った。疲れているはずなのに、体温より高い気温が睡眠を妨げる。
 昔のことを思い出す。

 サンジが日本を離れると聞いた時、詰るように理由を問いただしたゾロに、サンジは静かに答えたのだった。
「呼ばれた気がしたんだ」

 何年も前、一緒にアフリカの写真集を見た時から、考えていたと云う。

「何にかは分からない。だけどその呼び声に逆らうことはできなかった」

 あの時も、サンジは蒼い目の奧に、穏やかだが強い意志をたたえていた。それまで幼なじみの前で一言も口に出したことのない決意は、固く揺るぎないものだった。
 ショックを受けた。自分勝手なものだ。自分自身は、平気で好きなところへ行こうとしていたし、日本へだって帰ってくるか分からない、くらいに思っていた癖に。

 サンジが出立する前の晩、ゾロは幼い頃からの友人にキスをした。そんな風に、彼に触れたのはそれが初めてだった。
 顔を近づけてもサンジは逃げず、触れた唇に軽く応えてきた。 互いにおずおずと背中に手を回し、何度も何度も体温を確かめるようにして唇を重ねてから、やっと離れた。
 それだけだ。何を約束したわけでもない。
 友人のスタンスを崩さないまま、二人はその時だけ、なごりを惜しむ恋人同士のようなキスを交わした。



 深く黒々としたアフリカの長い夜が明けるまで、眠れぬままにゾロはサンジを想った。









 写真に撮る。
 サンジがこの地にいる意味をすべて。



 新しく掘られた井戸を。熱効率の良い改良かまどを。種から大きく育った実りをもたらす果樹の林を。広がっていく見本林を。木を植える子どもを。木陰ができて賑わいだした市場を。すくすくと苗木の育つ育苗所を。通学路に緑の並木ができた小学校を。プロジェクトにより、緑を取り戻した荒廃地区を。

 幾つかの村にまたがって作られた植生保護区は、すでに緑の濃い森となっていた。



「あの子達と、あの木は、同い年なんだぜ」

 何メートルにもなった木とその下に立つ子ども達を見て、サンジが笑った。

 サンジの笑顔にカメラを向けた。
 開けっぴろげな笑顔。大きく笑った口の端に、両切りの煙草がへにゃりと垂れ下がっている。深い海の色をした目が、屈託無く笑う。
 後ろに生えている木は、パパイヤ、テルミナリア。そしてホウオウボクは、真っ赤な花をつけている。その上には雲一つ無い高い空。





 ふいに、レンズが歪む。





 ゾロは、目を閉じた。涙が頬を伝い落ちた。
 ここがサンジの世界だ。ゾロは、すでにサンジの心の中では、異邦人となっているのだろう。
 どこへ自分が行こうと、サンジは生まれ育った懐かしい街で自分を待っているものだと、心のどこかで勝手に決めていた。日本に戻ってもサンジが居ない。ゾロにとって、サンジがいる街が自分の帰る場所だったはずなのに。

「…何、泣いてやがんだ」

 怒ったような困ったような声が、すぐそばで聞こえた。目を開けると、サンジの顔が間近にあった。サンジの指が伸びてきて、ゾロの頬を伝った涙をそっと拭う。




「愛している。だけど、俺はまだ帰らない。帰れないんだ」
「分かっている。分かっているんだ。サンジ」

 それはこの先、何年経っても同じことかも知れない。ゾロだって、自分の夢を追っている。サンジの為に、それをあきらめるかと聞かれれば、否と答えるだろう。



「まだ聞こえてるのか?」
「え?」
「お前を呼ぶ声が」
「…ああ」



 砂漠が広がるのは、自然のなせる技だけではない。古来から、増えすぎた人の営みや、間違えた自然の利用が砂漠を広げ、不毛の地を作ってきた。 
人口が増え、煮炊きをするかまどが増えれば、それまで充分に枯れ枝や下枝でまかなえていた燃料は不足して、人は木そのものを伐り始める。木を伐られた森や林は、たちまちサバンナに変わり、やがて砂漠化していく。
 家畜を殖やしすぎれば、草地は食べ尽くされ、井戸の周囲の土は固まって草の芽吹きはなくなる。
 砂漠化の原因は、生活に由来するが故に防ぐのが難しい。しかし土地が砂漠化すれば、そこにいる人びとの生活をのものが消えていってしまう。

 一度、砂漠と繋がった場所を、もとの草地に戻すには、十年から百年の歳月が必要だ。

 アフリカの呼び声に、サンジは応えた。
 人類を生みだした母なる大地は、傷つき病んでいた。そしてその傷を癒やすために、サンジは木を植え続ける。









 今夜もサンジはビールを一緒に飲んだ後、あっさりとゾロから離れて外へと出て行った。
 ゾロは草葺き屋根の小屋の中で、暗闇を見つめた。昨夜、眠れなかったというのに、今夜も暑さで眠ることができない。行水をしたばかりの体に、汗が噴き出す。



「こっちで寝ないか?」

 しばらくして、サンジが戸口から声をかけてきた。見ると日本からのスタッフ達は、外にベッドを出して寝ている。

 熱帯夜には変わらないものの、確かに小屋の中よりは屋外の方が爽やかだ。ゾロも簡易ベッドを引っ張り出した。

「今の季節は雨期の直前で特に暑いけれど、蚊が少ないから、いつも外で寝ることにしているんだ」

 何で昨夜は誘わなかった、と恨みがましく云うと、困ったような顔を返される。確かにあの会話の後では、声をかけにくかっただろう。





 他のスタッフ達とは、少し離れたところに二人は陣取った。



「日本での生活はあまりにも遠くて、夢か幻のような気がする」

 ランプの灯りに虫たちが寄ってくる。カメレオンが姿を見せたかと思うと、羽音を立てていた虫の姿は消えていた。周囲には、カエルやトカゲも来ている。

「お前が、ここで生活できるとは思わなかった」

 蛾が服に止まって、真っ赤な顔でパニックを起こしていた幼なじみを思い出し、剣突が返ってくることを覚悟しながら、ゾロは述懐する。しかしサンジからは、案に相違して柔らかい笑い声が戻って来た。




 小さなドラマを引き起こしていたランプを消すと、視界いっぱいに星空が広がった。
 銀の砂を撒いた光の世界。赤。黄色。青。特徴のある光を放つ星が、宇宙のところどころで宝石のように輝く。頭の真上では、まさに乳を流したかのような、白く光る星の川が流れている。
 星が近い。触れることさえできそうだ。



「日本の空気をふっと思い出すとき、お前がそばにいるような錯覚を起こすことがある」

 天空に向けてサンジが手を伸ばした。

「空の色とか空気の匂いとかと一緒に。…何でだろうな」

 サンジの指先を小さな光が掠める。流れ星が目の前でひょんひょんと落ちていく。





「いつか一緒に暮らそう」

 ゾロは、呟くように云った。

「プロポーズ?」

 クスリ、とサンジが笑った気配がした。

「ああ…」
「二度と会えないかもしれないぜ?」
「それでも、だ」

 約束に縛られて、行く道を変えたりはしない相手だから、云うことができる。



 先ほどとは違い、しばらく返事が返ってこない。
 とまどい。ためらい。そんなものの気配に、ゾロの肩も少し強ばる。

 だがやがて、低くサンジの笑う声が伝わって来た。

「愛しているよ。ゾロ。今までも。これからもずっと」

 手を軽く上げると、そこにサンジの手が、軽く掌を合わせるように触れてくる。
 星影の中、ニヤリと笑う顔がぼんやりと白く浮き上がった。

 それだけでいい。

 ゾロの顔にも同じ表情が浮かんだ。
 この先、また何年も会えないとしても。二度と会えないとしても。想い続けることに後悔はない。遠く離れていても、互いの存在を胸に抱いて生きていくことはできる。




「なあ、ゾロ。知ってるか?昔は、サハラにもカバが住んでいたんだってさ…。カバだけじゃない。あらゆる生き物が。すげェよな…」

 夢みたいだ、とサンジは呟く。



 澄み渡った空で、星の輝きがいや増していった。
現地の住民の歌声やさんざめきが聞こえる。ロバのいななき。赤子の泣く声。アフリカ奥地の夜は、案外と騒がしく更けて行く。

「賑やかだな」

 ふと、ゾロは笑い出したいような気持ちになった。
 世界の果てとさえ思えるこの地にも、人の生活が存在する。
 当たり前だ。人類はこの大陸にある地球の割れ目で、五百万年前にサルと分かれて人に向けての長い道のりを歩み始めている。その祖先の一部が、ほんの二十五万年ほど前に、世界各地へと散り、気候風土に合わせて分化していった。人間は、昔はみんなアフリカ人だったのだ。





 砂漠は広がる。
 南へ南へと緑を呑み込んで。
 加速のついた自然環境の崩壊を前にして、人にできることなど限られている。

 それでも。そこに一面の緑を思い描く人間がいたっていい。




 隣で、とろん、とサンジが眠りに解けて行く気配がした。








了。


夢を見よう。サンジ。それぞれが見る夢は違っても。
ずっと一緒に。この地球の上で。


アフリカの大地に立つサンジ、とても新鮮。現代の社会にいきいきと自分の夢を追う二人に胸が熱くなります。みあさんの作品を読むと、ゾロサン創作の可能性がぐぐっと広がる気がします。刺激的な作品をありがとうございました!
みあ様のサイト:『月待ち』