5日前に来て7日後に去った男 vol.2/2

恋川珠珠


学校の無い土日の朝、コテージに焼き立てのパンを届けるのはリクの仕事だ。
全部のコテージがトーレのパンを取り寄せているわけではないが、丘に点在するコテージを回ってパンを届けてくると1時間は掛かる。
6時前に家を出て7時に帰ってくると、店には人が溢れ、母親が独りで応対に追われていた。
この時間は朝食用のパンを買いに来た客で混雑するから、母親独りきりというのはおかしい。
「父さんは?」
とリクが聞くと、母親は客に釣銭を渡しながら早口で言った。
「古小屋よ」
「古小屋? なんで?」
「今朝、ハリーさんの鶏が盗まれたんだって。納屋に貯蔵していたニシンの塩油漬けも盗られたそうよ。犯人は剣を持ってたって言うから青年会のみんなで古小屋へ……ちょっとリク、どこへ行くの? 店を手伝って!!」
母親が叫ぶのにも構わずリクは走り出していた。

ゾロが泥棒をした? そんな筈は無い。昨日も俺、パンを届けたし。パンだけじゃ足りなかったんだろうか。

確かに成人の男が一日にパンを半斤では足りないだろう。
だがリクはゾロを信じたかった。
リクは同年齢の子の間では足が速いのが自慢だったが、このときはちっとも速く走っている気がしなかった。
もっと筋肉が欲しい。もっと脚力が欲しい。もっと大きな身体ならよかったのに。そう思いながらリクは小屋へ駆けた。

古小屋の周りには青年会のメンバーが集まっていた。
小屋にこもっているらしいゾロに、出てくるように説得している。
「いるんだろ? 出てこい。今ならまだ誰も傷つけられていない。出てきてきちんと謝罪したなら、剣で脅したことは不問にしてやるから、泥棒だけの罪で済む」

そこへリクの声が割り込んだ。
「ゾロ! 何もしてないよね? それなのに泥棒扱いされたから出てこないんだよね?」
「リク? おまえ、なんでここへ来た!?」
父親のトーレが慌ててリクを下がらせようとしたところをオクトが尋ねた。
「リク、おまえ、中にいる男を知ってるのか?」
「うん。最初に会ったのは10日くらい前で俺の帽子を拾ってくれた。悪い人とは思えないよ。そりゃあ勝手にここに寝泊りしたのは悪いかもしれないけど、泥棒なんてするような人じゃないよ!」
そう言いながらリクは小屋へ向かって叫んだ。
「ゾロ、出てきてよ! そんなことしてないって、みんなに話してやってよ!」
懸命に話しかけるが、誰かが出てくる様子はない。
「ゾロ、怒ってるの? みんながゾロのこと泥棒って言ったから?」
リクは小屋に少しずつ近づいていく。
「やめろ、リク!」
「だって絶対違うもん!」
そう言い張る息子に根負けして、トーレはリクを庇うようにしながら一緒に説得しだした。
「泥棒じゃないなら悪かった。とにかく出てきてくれないことには話にならん」
小屋に誰かが潜んでいるのは明白だ。人だかりから数歩踏み出して小屋に向かって話しかける親子を見ながら、青年会のメンバーは固唾をのんで行方を見守った。
すると。

「なにやってんだ?」
人垣の後ろから声を掛けた者がいる。
降り返ってみると草色の髪で目に傷のある男がいた。粗末なマントを肩から引っ掛けている。
「あんた誰だ?」
男はそれには答えず、人々の向こう側に見知った少年の姿を見つけるや、人垣を割り払うようにしてまっしぐらにリクに突進した。
リク親子はもうウッドデッキにまで到達していた。

「ゾロ、あけるよ」
リクが引き戸に手を掛けて引いたとたん、十数センチ開いた戸の隙間で何かがギラリと反射した。
「危ねぇッッ!」
人垣を抜けた草色の髪の男が大きく跳躍し、リクの身体を戸からもぎ離すように抱えて横に飛ぶ。
鋭く光った刃先は、男が着ていたマントの裾を切り裂き、小屋の中にたちまち引っ込む。
と同時に引き戸がぴしゃりと閉められた。

「ゾロ? え、ゾロ?」
リクは自分を抱えている男の顔を見、そして小屋を見、それを何度か繰り返して混乱した表情を作った。
息子が襲われかけた事で蒼白になっているトーレにリクを渡しながらゾロは言った。
「何が起こってるんだ?」

そうなってようやく皆は昨日までこの小屋にいた人物と、今、小屋にたてこもっている人物とが違う人間らしいと気づいた。
青年会の上役の中で特に弁の立つ者が事の次第を手短に説明する。
「今朝、荷馬車屋ハリーんとこの鶏小屋が襲われてな、鶏がぎゃーぎゃーと騒いで妙だと思って見に行ったら見知らぬ男が雌鶏抱えて飛び出してきたらしい。捕まえようとしたら剣を振りかざしながら逃げたって言うから、俺たちは5日くらい前からこの小屋に寝泊りしている流れ者の仕業だと思ってここへきたわけだ」

「そんな危険なところに、なんでこんなガキを連れてきたんだ?」
ゾロは険しい顔でそう言った。ガキとは当然リクのことだ。
リクは慌てて弁解した。
「俺が勝手にみんなを追いかけてきたんだ。みんなが泥棒はゾロだって言うから、そうじゃないって伝えたくて」
「リク、おまえはもう下がってなさい」
トーレはリクを抱きかかえるようにしながら人々の後方へ下がらせた。
小屋の中からリクを目がけて光るものが飛び出してきた時には心臓が止まるかと思った。自分が隣にいたって、先刻のように電撃的に襲われたら庇うことさえ出来ないことを思い知った。あんな身が凍るような思いは二度とごめんだった。

「どうやら鶏を盗んだのは別の奴のようだな」
「しかし見たろう? 刀を持っているのは確かだぜ」
「説得にも応じないとなると踏み込むしかないか…」
集まった連中が口々に、もうこれは実力行使しかないと言い始めた。
それをゾロがいさめた。
「相手は刀を持ってるんだろ? 闇雲に踏み込んだら怪我人が出るぞ。そのうえもし捕まえ損ねて街に逃げられでもしたら、女子供が危険にさらされるぞ」
「じゃあどうすればいいって言うんだ」
「そうだな…俺に任せてくれるか?」
「あんたに?」
皆はゾロを見つめた。
胸板は厚く、堂々とした身体つきなのはわかるが、短く刈り込んだ草色の髪にはチラホラと白いものが混じっている。若くはないこの男が、独りで何をすると言うのだろう。
決めかねているとゾロが言った。
「俺がやってみて、うまく行かなかったら、あんたたちで踏み込めばいい」
それでゾロに任せることに決まった。

「巻き添えをくうといけねェから、あんたらはもっとずっと後ろに下がっていてくれ。で、もし、中の男がこっちに向かってきたら、もっとずっと下がれ。決して俺を援護しようとするな」
「それで逃がしちまったらどうするんだ」
「逃がしはしねェ。俺が倒れない限り、俺にも盗人にも近づくな。わかったな」
その時初めてゾロに、常人とは違う威圧するような気配が生まれ、皆は慌ててうなづいた。
「それと…加減はしてみるが、もしかすっとあの小屋、ぶっ壊れちまうかもしれねェ。いいか?」
「あ、ああ。どうせ立て直さなくてはならない古小屋だからいいだろう。家主には言っておくよ」
「よし。じゃぁみんな、下がってくれ」

皆が遠巻きに下がっていく間、ゾロは小屋の横手にある農具納屋から頑丈な鍬(くわ)を持ってきた。
あの鍬の刃で泥棒の脳天をかち割るのだろうかという想像に皆は身震いしたが、ゾロは背負ったズタ袋から白鞘の刀を取り出すと、鍬の柄の部分と刃の部分を切り離した。
刀はそれだけで鞘に納められ、一応腰に差したものの、ゾロが武器にしようとしているのはどうやらその鍬の柄だけのようだ。

「なんで刀使わねぇんだ? あんな棒で何する気だ?」
ひそひそと大人たちが言い合う。
それに構わず、ゾロはみんなが距離を取って下がったことを確認すると、小屋の前でふっと腰を落とした。
「無刀流…」
次の瞬間、つむじ風が吹き上がり、小屋のかやぶき屋根が吹き飛んだ。ウッドデッキや羽目板の一部も吹き飛ぶ。
残った柱や壁も、今にも崩れるかというような音を立ててぎしぎしと揺れた。

後ろに下がっていた人々からどよめきが漏れた。
と同時に小屋から吃驚した様相の男が転がり出てきた。褐色の髪をした若い男だ。
その男は、小屋の前にたった一人でゾロが立ちはだかっているのを見止めたとたん、手にした剣を振りかざし、奇声を上げながら向かってきた。

盗人の動きは速かった。だがゾロが後ろへ飛び退くのはさらに速い。それを追うように振られた剣をまた一歩下がって避ける。
振り込まれる剣筋を、ゾロは身体を横に開いて避けることはしない。横にかわせば盗人に道を開けることになる。その先には見守る群衆とリクがいるのだ。
正面を見据えてはいるが後退するばかりで攻撃しないゾロを、盗人は腰抜けだと思ったらしい。ばかにするような笑いを口の端に浮かべ図に乗って剣を大きく振りかぶった。
男の脇が大きく空く。
そのとたん、ゾロは反撃に出た。
すべるように後退していた足を止め、前へと踏み込む。
突然迫ってきたゾロにぎょっとした男が剣を振り下ろそうとする。
しかしそれより早く、剣先をかいくぐって男の懐に飛び込んだゾロは、手にした鍬の柄を鋭く突き出した。ダンッと音がした。

リクにはゾロが後退を止めて踏み込んだところまでしか見えなかった。ゾロの動きに目が追い付かなかったのだ。
盗人の前でゾロの姿が突然消えたと思った瞬間、盗人の身体が弾かれるように宙に跳ねていた。気が付けば、盗人は小屋の壁にぶち当たって昏倒していた。
腰に下げた白鞘の刀は、一度も抜かれなかった。
「やったーー!!!」
見ていた男たちが歓声を上げ、盗人を捕えに小屋に走り寄っていく。
その時にはゾロは既に小屋に背を向けて立ち去ろうとしていた。

「マリさん…? あんた、マリさんじゃないのか?」
ふいにリクの父親がゾロを呼び止めた。
「30年くらい前に、この島に1年ほど住んでいただろう? コックさんと一緒にいた、あのマリさんだろう? 」
トーレの遠い記憶の中にある人物が、目の前の人物にオーバーラップする。
ゾロはしばらく首を傾げていたが、やがて思い当たったようだ。「この島、なんとかノースって島か?」
「正式名は違うけどな、みんなリトルノースって呼んでる」
「なら、いたことあるな」
「そうだろう! やっぱり、あのマリさんか! って、ちょっと待て。ここがリトルノースって気づいてなかったのか? まさかまた迷子かよ!」

当時少年だったトーレには大きな男に見えていた『マリさん』は迷子癖で有名だった。しょちゅう『コックさん』が「またいねェよ、マリモの野郎。島の中にいるんならほっときゃいいが、船に乗っちまったらマズイから、マリモが船に乗ろうとするのを見たら石でもぶつけて気絶させといてくれ」と言っていた。

「で、マリさん、今はどこへ行こうとしてるんだ?」
「ここだ」
ごそごそ取り出した紙切れには、トーレが30年間大事にしてきた『黒パンの配合』メモと同じ筆跡で、まったく違う島が書いてあった。
「この島への便が出るのは今日の午後だぞ!」







鶏を盗んだ若者は、逃げた女房を追いかけるうちに金銭尽きて、盗みや押し込みをするようになったらしい。
元々凶暴な性質で、それに愛想を尽かした女房が商人になった幼馴染の男とともに逃げたのだが、自分が嫌われたことを認めず、商人が女房を奪ったのだと復讐に燃えていたらしい。
思い込みが激しくて、過去にも傷害沙汰を起こした人間だった。

「誰もケガしなくて良かった…」
トーレはしみじみと言った。
「あの時、マリさんが居なかったら、おまえも俺も青年会の者も、下手したら村の者も、傷つけられていたかもしれない。午後の船で行ってしまったからなんのお礼もできなかったのが残念だ。せめて別れ際に渡したこの島のエターナルポースでまた来てくれればいいんだが」
「父さんがゾロを知ってたなんてびっくりだよ。ゾロって本当はマリって名前だったんだな」
「いやマリって言うのが偽名だろうよ。中立地域であるこの島では、よそ者の長期滞在は海軍や海賊の名を捨てることが条件だからな」
「ふうん。父さんがゾロに会ったときのことを聞きたいな」
「あぁそうだな…あの人がこの島に来たとき、父さんはちょうどおまえくらいの歳だったよ。最初に『マリさん』が来た。それから1ヶ月くらいして『コックさん』が来た」

トーレは目を細めて遠くを見るような表情をし、ゆっくりと記憶の糸をたぐりよせた。


(了)