etranger
想像していたよりもずっと荒野は広大だった。
近づいてみれば見上げるほどであろう大岩も、広々とした荒野の中ではちょこなんとした石にしか思えない。強風のせいで斜めにねじれた巨木も、丸く刈られた植え込みのようにこじんまりと見える。荒野を貫くハイウェイなど、棒切れで引いた筋だろう。
8月後半のうだるような陽射しの中、俺はアマンダの車で、その荒野に引かれた『筋』を東進していた。
炎天下の荒野では鳥も獣もどこかへ避難しているらしい。一羽の鳥も一匹の動物も見当たらない。
対向車でさえ1時間に3台出会えば良いほうで、しかも大抵猛スピードで駆け抜けて、あっという間に視界から消えている。
俺は風景に早々に飽きて、助手席で手持ち無沙汰にシガーを吹かしていた。
3本目のシガーに火を点けようとした時、地平線付近で何かがギラリと光った。
それが対向車でなくて停車中の車だと気付くのが遅れたのは、運転手のアマンダのせいじゃない。
対向車さえまばらな道なのだ。前方に車のケツを見ることなんてほとんどない。
アマンダは、光の元が車体だと気付いたとたん強引にハンドルを切った。
かなりスピードを出していたからブレーキじゃ間に合わない。
もっともブレーキなんかかけるような女でもない。そんな女だったら俺に乗って腰振るようなことはしないだろう。
タイヤが悲鳴のような軋んだ音を立てたがアマンダはためらいなくクリーム色の車の脇を高速で通過した。
その瞬間、助手席に身体を埋めるようにして座っていた俺はガバッと起き上がった。
開けかけていた真鍮のライターの蓋を、叩くようにパチッと閉じながら首を後方へ回す。
クリーム色の車の路肩側に人が立っていた。
サングラスを掛けたその人物は、緋色のシャツを着て首にカーキ色のカーボーイハットを引っ掛け、肩まである栗色の髪を炎天下に曝していた。
後方へ小さくなっていくその姿を、俺は窓から身を乗り出して見た。
突然車が急ブレーキをかけて止まった。反動でドアに頭をしこたまぶつける。
アマンダはドアを開けて俺を蹴り飛ばした。
「ここでお別れよ、ゾロシア。あの女に拾ってもらうといいわ!」
冷たく言い放ったアマンダはアクセルペダルを勢いよく踏み込んだ。
車は土砂を跳ね上げて飛び出し、あっという間に遠ざかっていく。
俺は炎天下の土埃が舞う路上に取り残された。
アマンダは俺が他の女とベッドにいても嫉妬などしない。言い寄ってくる女を俺が追い払わないだけだと知っているからだ。自分自身が追い払われない女たちのうちの一人であることも、わかっている。
アマンダが怒ったのはそんなふうに自分からはアプローチしない俺が、車の脇に立っていた人物に身を乗り出すほど興味を示したからだ。
だいたいアマンダは『あの女に拾ってもらえ』と言ったが、ここで大きな問題がある。
見たところ、あのクリーム色の車はエンコしている。ガス欠なら俺たちを引き留めるだろうし、休憩中なら停車中の表示板を出してのんびりしているだろう。
あの車が動かなかったらどうする。干物になるのはごめんだぜ。
俺は忌々しいほど雲のない蒼天を見上げた。炎天にあぶられた道路からは熱気が上がってくる。俺はシガーを噛み切りながら思った。
女ならともかく、男は警戒されてヒッチハイクもできやしねェ。あの車のエンジンがかかるかどうかやってみるしかあるまい。
スラックスの砂を払って立ち上がり、停車中の車にゆっくりと近づく。
キャデラックのコンバーチブル。テールフィンのない上品なスタイルだが、デカくて平らな、まるでキングサイズのベッドのようなボンネットから年代物だと知れる。
おおかたレンタカーだろうと思いながら車をざっと検分する。が、レンタカーなら貼ってあるはずの、管理用バーコードステッカーが無い。
もしかして自前か? なるほど、そういうことか…。
俺は納得した。
レンタカーなら整備もメンテも完璧だろうが、自前となるとそうそう毎日メンテなんてしてらんねェ。エンコしても仕方が無ェ。
とはいえ普通はメンテ不十分のクラシックカーで大陸を横断しようだなんて思わねェだろ。よっぽど豪胆なのかバカなのか。ま、十中八九、後者だな。
しかし俺はそんな気持ちをおくびにも出さず米語で話しかけた。
「困ッテイルヨウダナ、手ヲ貸ソウ」
男は振り向いた。
そう。アマンダは勘違いしていたが車の傍らにいたのは男だ。胸元をはだけた緋色のシャツの下にはシルバーのドッグタグネックレスが揺れている。
男は琥珀色のレンズがはまった角縁サングラス越しに俺を眺め、低く言い返してきた。
「茶番ダナ…」
どうやら車から放り出された一部始終を見ていたらしい。この車に乗せてもらおうという俺の魂胆など見え見えだってことだ。
おまけにその時の俺の格好と言ったら、黒髪に黒サングラス、太いストライプの入ったシャツに麻のズボン。
自分で言うのもなんだが、同乗を断られても仕方が無ェ。だが、こんな車で大陸横断するようなバカなら気にしないだろう。
俺の目に狂いは無かった。
しばらく俺を眺めてから、男は運転席にひらりと飛び乗って低い声で鷹揚に言った。
「マァ良イ。手ガ欲シカッタトコロダ。押シテクレ」
聞いたことのない声だった。
男がハンドルを握り、俺が車を後ろから押し続けて30分、ようやくエンジンがかかった。
加速していく車に俺は慌てて飛び乗った。
「置イテクツモリカ、コノ薄情者!」
「減速シタラ、マタ、エンジン止マッチマウ」
しれっとした顔で淡々と言う男が憎たらしい。
「コンナ年代車デ大陸横断シヨウトスンナ、阿呆!」
俺は車を押しながら何度も言ったセリフをまた口にした。
「嫌ナラ降リロ。ソノ阿呆ガイナカッタラ、テメェハ今頃マダ荒野ニ突ッ立ッテルダロウガ」
それは違う。この男がいなかったら俺はアマンダの車から放り出されることはなかった。
だがその事は言わなかった。変に意識されても困るしな。
男は意外と大胆な運転をした。違反スピードでがんがん飛ばす。
風に飛ばぬように顎紐の留め具をきつめに絞って深く被ったハットの下から、サングラスと鼻先だけを覗かせて濃い栗色の髪をたなびかせるさまは、俺が飼っている栃栗毛の暴れ馬を思い出させた。あの馬も俺が乗ると猛スピードで駆ける。
俺はひそかに運転席の男を『ディアブロ』と呼ぶことにした。俺の暴れ馬の名前だ。
ディアブロは運転中殆どしゃべらなかった。
だが不機嫌というわけでもなくどちらかと言えば面白がっているようだ。ハットとサングラスで表情は半分しか見えないが、それくらいはわかる。
エンコするリスクをのぞけば車は快適だった。それはこのバカデカイ車の乗り心地が良いというだけではない。
「喉ガ乾イタ」と俺が言えば、ディアブロは後部座席にあるクーラーボックスをくいっと指し示す。中には冷えた炭酸水とチーズとトマトとコールドチキン。クーラーボックスの横の紙袋にはクラッカーとバゲットとオレンジが入っていた。
この国は座席にアルコールを積んでいるだけでも取り締まられることがあるからビールが無いのが残念だ。
オレンジを齧り、炭酸水をラッパ飲みしながら、ディアブロの横顔を遠慮なく眺める。
俺に見つめられてディアブロはうっとうしそうな顔をしたが、かまうものか。穴のあくほど眺めてやった。
通った鼻筋に少しめくれた上唇。風を受けて乾燥するのか、時々舌をひらりと覗かせて唇を舐める仕草が絶景だ。
会話が無いのがかえっていい。車から放り出してくれたアマンダに感謝だなと思った。
あれだけ飛ばしたのに、エンコのロスタイムは大きくて、ビッグシティに着く前に日が暮れた。
都市についたら俺を放り出すつもりだったらしいディアブロはなんとしても都市まで行きたがったが、ハイウェイには基本的に道路灯は無い。灯火があるのは街中だけだ。
真っ暗な道をヘッドライトだけを頼りに走るのは、クラシックカーで大陸横断するより何倍もバカだ。ディアブロもついには諦めて、俺たちは宿を探し始めた。
しかし見えてくるモーテルはどこも「NO VACANCY(空室無し)」。
たまに見つかっても駐車場の出口に監視員が常駐してなくて、キャデラックなんぞ止めたら速攻盗難されそうなところばかり。
ようやく条件に合うモーテルが見つかったが、部屋はダブルしか空いていなかった。
「冗談ジャネェ…」
とディアブロは額に手を当てて低く嘆いた。
「ソレハ、コッチノ台詞ダ」
と俺。
しかしモーテル探しはもうたくさんだ。相部屋を渋るディアブロを無視して俺は偽名のIDとクレジットカードを提示してチェックインし、部屋のキーを受け取った。
インテリアは少し古いがベージュとターコイズブルーで統一された室内は明るくて清潔だ。部屋の中央には落ち着いたブラウンのベッドカバーがかかったキングベッドが鎮座していた。
熱いシャワーを浴びるとだるさが取れていく。快適な旅だとは言ってもさすがに長時間車に乗っているのは疲れる。砂の入り込んだ髪を洗うと一層生き返った心地がした。
洗面所の鏡を覗く。この黒髪も、この夏の強い紫外線のせいでだいぶ色が褪せてきた。そろそろ染め直さなくてはいけない。
髪を撫でつけ、バスローブの紐をきゅっと結んでバスルームから出ると、ディアブロが入れ替わりにバスルームへ入っていく。
窓際にある丸テーブルの中央にはコールドチキンとトマトをはさんだバゲットサンドが乗った皿があった。俺がシャワーを浴びている間に部屋に備え付けの簡易キッチンで作ったのだろう。ご丁寧にコーヒーまでサーバーに掛かっている。
シンクの中に使用済みの小皿が一つとカップが一つ置いてあり、テーブルにサンドイッチが乗った皿が一つとカップが一つ用意されてる。
ってことは、これは俺の分ってことだよな?
俺は立ったままバゲットサンドにかぶりついた。うん、うめェ。
今朝アマンダと一緒に食ったハムサンドとは雲泥の差だ。あのハムサンドは紙を食ってるようだった。
バゲットサンドを食い、コーヒーを3杯飲んだら、気持ちがゆったりとしてきた。立ち食いをやめて椅子に座りシガーをくゆらす。
これで酒があれば良かったのに買わずにチェックインしたのは失敗だったな。モーテルのバーは落ち着かなくて好きじゃねェ。
車を出して買いに行きたいがキーはディアブロが持っている。奴はまだバスルームから出てこない。女より長風呂だ。
ようやくディアブロがバスルームから出てきた時、俺はベッドに寝転がってケーブルテレビを見ていた。
「ドケヨ、俺ノ寝台ダ」とディアブロが歯を磨きながら言う。
「ナンデ、テメェノダ?」と俺。
「俺ガテメェヲ拾ッテヤッタンダ」
「コノ部屋ヲ手続キシタノハ俺ダ」
そのあとディアブロが何か言ったが、米語なうえに歯ブラシを銜えて話されちゃ、何を言ったのか全然聞き取れねェ。口説き文句じゃなかったことは確かだ。
結局俺たちはたっぷり睨み合った後、お互いふんと鼻を鳴らしてベッドの端と端に寝た。二人ともベッドを譲る気はさらさら無かったからだ。
ディアブロは寝相が悪かった。
端と端に寝たはずなのに、いつのまにか奴が俺のほうに転がってくる。
ベッドの真ん中を陣取るディアブロを端に押しやろうとしたらすいっと足が上がった。
蹴られると思ってとっさにその足を掴んで封じようとするうち、腹の奥からざわざわした肉欲が湧いてくる。
女の足のように肉付きが良いわけではない。脂肪のない、筋肉質の固い足だ。おまけにすね毛まで生えている。だが、小俣が切れ上がってまっすぐなその足は、女の足の、媚を含んだような柔らかさよりも好ましい。俺は男もイケる口だ。もっとも女と違って男は選ぶけどな。
いたずら心が湧いて、その足の指をべろりと舐めてやったら、ひくんと身体が反応する。面白くなってもっと舐めてやった。
んふ…と言いながら、ディアブロが目覚めた。
「何シテルンダ、テメェ」
「舐メテル」
「溜マッテンノカ?」
「ソンナ筈ハ無ェンダガ…。今朝モ女ト一緒ダッタンダシ」
「ナラ離セヨ」
「モウ少シ触ラセロ」
「ヤダネ。安眠妨害ダ」
そう言いながら俺を振り払うでもなく、あくびをしてまたころんと寝てしまった。
なんと無防備な。
襲われるとは考えないのだろうか。今のご時世、女だけが暴行の対象では無いことくらい知っているだろうに。
試しにがばっと覆いかぶさってみたら、間髪入れずに腹に衝撃が来た。俺の身体は簡単に吹っ飛んでがつんと壁にぶち当たる。
いい蹴りだ。俺が惹かれた脚だけのことはある。
蹴られたというのに俺は気分を良くして、こらえきれずにわはははと笑い出した。
その笑い声に、眠りに落ちようとしていたディアブロが身体を起こした。
「ドウシタ、打チドコロ悪カッタカ?」
「違ェ、俺ハ自分ヲ誉メテェ気分ナンダ」
なんだそれはわけ分かんねェと言うように首を傾げる仕草がかわいい。
あぁまた俺、かわいいとか思っちまってるよ。こんな野郎に。わははは。
壁に寄り掛かったまま笑っていたら、ディアブロが起きてきた。
「本当ニ大丈夫カ?」
差し伸べてきた長い手をぐいっとひっぱって、倒れこんできたところを抱え込んだ。
反射的に逃げようとする身体を両足で挟み込む。
「捕マエタ」
「テメッ!」
怒鳴りかけた口を、己の唇で塞ぐ。同時に後頭部を抱えて逃れられないようにし、舌を差し入れて口内をたっぷりと愛撫した。
角度を変えて再度口内を味わおうといったん唇を離したら、ディアブロが呆れたように言った。
「コウイウノガ、オメーノ手カ?」
「何?」
「心配シテ寄ッテキタ女の子ヲ捕マエテ唇ヲ奪ウ。姑息ナ手ダ」
「ソンナ小技使ワネーヨ。女ガ勝手ニベッドニ入ッテクルカラナ」
「ハン、車カラ捨テラレタクセニ」
ディアブロは俺の腕の中から抜け出して、あーと伸びをした。
「明ケ方マデニハマダ時間ガアルッテノニ目ガ覚メチマッタ。散歩デモシテクラァ。テメェ、ベッド使ッテモイイゾ」
ディアブロはスラックスを履き、緋色のシャツをひっかけて外へ出ていった。
散歩だなんて言ってたがホントは抜きにいったんじゃねーか?と疑わしく思いながら窓から外を見ていると、キャデラックの脇から出てきた。
なんだホントに散歩か。
俺はベッドにぽてんと寝転がったが、どうも自分も寝れそうにない。抜かなきゃならねェのは俺のほうだ。
広くなったベッドで股間に手を伸ばそうとしたら、ぱしゃんと水の音がした。
俺は飛び起きた。
「まさか、あの野郎…!」
シャツを引っかけてディアブロのあとを追いかけた。
→next