初午(はつうま) #2
サンジが言ったとおり小豆飯はその後まもなく売り切れた。ゾロが持ってきた酒も、その後まもなく売り切れて、3人はうっかりと自分たちの昼飯分まで売ってしまったことに気づいた。
もっともゾロとジョニーは売り物の酒を時々煽っていたので、腹は膨れておらずとも文句はない。むしろほろ酔いでいい気分だ。その酔いがゾロの口を流暢にさせた。気になっていたことを、ぽろっと聞いてしまったのだ。
「おい、さっきの傾奇者(かぶきもの)は誰だ?」
「かぶきもの?」
「奇天烈な格好のヒゲのおっさんだ。久しぶり、とか言ってたじゃねーか」
「あぁミホのおっさんか。あの人は…俺の『書』の師匠だ」
サンジは恥ずかしそうに言った。
「書? 習字? あのおっさんが?」
意外ないらえが返ってきてゾロは目を見開いた。
「書ってェことは寺子屋の先生だろ? あんな変わったおっさんが寺子屋の先生かよ…俺の田舎では考えらんねェな。ん、待てよ、寺子屋は初午の日が入所日(始業式)だろうが。こんなとこをブラついていいのかよ?」
ゾロは町々で見た、文机を担いだ子供の姿を思い出して言った。
「いやミホのおっさんは寺子屋の師匠じゃねェ」
「おめぇ寺子屋とは別に書だけ習いに行ってたのか?」
「薔薇亭の親方は教育熱心だったんすねェ」
ジョニーも話に加わって感心した声をあげた。
「違ェよ!」
サンジは慌てて否定した。
「俺、寺子屋に行ったんだけどよ、三日で止めちまったんだ。そのことでジジィと喧嘩してたら、あの人が書なら教えてやるって言ってくれてよ。指南代は要らねェから代わりに昼飯を作れって言うから一年間くれェかな、三日に一度ほどおっさんの家に通ってたんだ」
「たった一年習っただけで読み書きが出来るようになるたぁ、板前の兄貴、賢いんですねェ」
寺子屋は6歳前後から奉公に出る12歳前後まで通う者が多い。読み書きと算盤(そろばん)、日本地理、行事風習、礼儀作法などは全員が習い、5〜6年生になると百姓になるものは農学を、商家に奉公に出るものは経済を、職人になるものは技巧を習った。
どの分野であっても今の小学校と同じように段階的に覚えていくものなので、イロハの読み書きから漢字漢文までを1年間で終えたとは尋常でないとジョニーは驚いたのだ。
だがサンジは、感心しているジョニーをぎゃはははと笑い飛ばした。
「そうじゃねェよ、読み書きはジジィんとこに世話になるまえからいちおう出来たんだ。だが、あんまりにも字がヘッタクソだったからジジィに習字習ってこいって言われてよ…」
なるほど、そういうことか…。だからあの男が品書きを書いたのは誰かと尋ねた時、コイツは恥ずかしそうにしてたってわけだ。
その時のサンジの、初心な乙女のような反応を思い出してゾロの下腹部がもぞりと反応した。
「おいジョニー、悪ィがちっと先に帰ってくれねェか?」
ゾロはこっそりジョニーに耳打ちした。
「どうしたんですかい?」
「ちっと、股引ん中の筆で習字をしようかと…」
その晩のこと、風車に戻ってきたサンジの声がしゃがれていることにおナミは気付いた。
「サンジ君、呼び込みがんばってくれたのね」
そんなねぎらいのことばにサンジはあいまいな笑いを返すしかできなかった。まさか出合茶屋に連れ込まれてたっぷり啼かされたせいだとは言えるわけがない。
◇ ◇ ◇
初午後日談。薔薇亭にて。
「この前の初午の日、王子稲荷でサンジに遭ったぞ」
「王子稲荷? 何遊んでんだチビナスは。店ほおって参詣か」
「いや小豆飯を売っていた。なかなか美味かったぞ」
「ふん。小豆飯くれェ誰でも炊けるわ」
「品書きの字も、クセはあるが良い字を書いておった」
「てめェに習ったにしては上等だ」
「あれからもう十年以上経つとはな」
そう言われてゼフは、サンジが寺子屋にはもう行かないと言った日のことを思い出した。
「ガキどもに混じって仮名書なんてやってられっか!」
「ばか言え。品書きも書けないようじゃ料理屋なんて出来ねェぞ」
「書けてるだろ!」
「そんなへたくそな字じゃ、美味い料理も不味く見えらあ!」
「ジジィだって、へたくそじゃねェか」
「ヘタじゃねェ。俺のは味があるって言うんだ」
「何言ってんだクソジジィ、そんなら俺の字だって味があらあ!」
「てめェのは味がなくなったスルメみてェな字だってんだ!」
店内にまでその喧嘩は漏れ聞こえた。本人たちは真剣だが、ばかばかしいやり取りに忍び笑いが起こる。
「漢文だって読めるし算盤(そろばん)だって出来んのに、なんで今さら寺子屋に行かなきゃなんねェんだよ!」
「だからてめェの字は判読できねェくれェ下手クソだからって言ってんだろうが!」
「書くらいウチで練習する!」
「ウチに居たらてめェは筆なんか持たずに包丁ばっか握ってるじゃねーか」
「包丁人になるんだから、それで何が悪い!」
「一流の包丁人は品書きくらいさらさらっと書けるもんだ」
「ジジィはさらさらっとなんて書いてねェだろうが」
堂々巡りである。
ついに「ジジィのわからず屋!」と叫ぶなり、小さな身体が外へ飛び出していった。
「なんとも騒々しいことよ」
と言ったのはたびたび薔薇亭に訪れていたミホークだ。
「ヘボイモすんませんねェ。親方もサンジも頑固だからね二人の喧嘩はもうウチの売り物みてェなもんだ」
「あぁもう慣れたが…。字が下手とか言っていたな。読み書きも算盤も出来るのに何故習字だけ心得が無いのだ?」
「サンジは北の生まれで、ちっと前の飢饉に見舞われてんだ」
パティが口にした藩はミホークにも飢饉に見舞われた地として覚えがあった。だがその藩主は代々領民を大事にしており、飢饉の際も備蓄米を配給したり藩の金で他国米を買うなどして積極的に領民救済を行ったため、奇跡的に餓死者が一人も出なかった藩ではなかったか?
「そう。だからほかの藩よりは運が良かった」
「だが寺子屋に通う余裕など無いだろう?」
「サンジの話では、腹が減らないようにじっとしている子供たちに字を教えてくれたもんがいたらしい。もちろん紙なんて無ェよ。飢饉の時は紙なんて真っ先に食っちまうからな。地面に石で字を書いて覚えたらしい」
「算盤も石か」
「そういうこった。だからウチに来て本物の算盤さわった時と言ったら忘れらんねェぜ。あのクソ生意気なガキの顔がぱあっと輝いてよ」
「ふむ」
ミホークはうなづきながらゼフの顔をちらりと見た。
ゼフはそんなこと忘れたというように知らんぷりをしたが、実際はパティと同じようにあの時のサンジの表情が脳裏に焼き付いていた。だからこそ、石でなくて筆で字を書かせてやりたかったのだ。
地面に石で字を書かせれば、サンジは結構うまく字を書いた。ところが筆を持たせて紙に書かせてみると墨は飛び散らすし筆先は安定しないし、何を書いているのかわからぬ始末だ。
惜しいことだ、とゼフだけでなくパティもカルネも思った。それで寺子屋に書を習いに行かせようとしたのだ。
だがサンジは、四つも五つも年下の子らよりも習字が下手だということが情けなくてたまらなかったらしい。
けれど習字は添削してくれる者がいないとうまくはならない。
「なるほどな…」
事情を知ったミホークはパティに言った。「では俺が教えてしんぜようか?」
「書の手ほどきをやったことがあるのか?」
「無い」
「無ェのかよ!」
「無いがおぬしらよりは上手く書けるぞ」
実際書かせてみたら流麗な字を書く。
「指南代は要らん。その代わり稽古の日は、俺の昼飯を作ってもらいたい」
「あのガキ、まだ皮むきくれェしか出来ねェぞ」
話を聞いていたゼフが思わずそう口をはさむと。
「構わん。手習い代が自分の作る昼飯だと知ったら必死に覚えるだろう」
とミホークは答えた。
(本当にそれでいいのか? なんか企んでねェか?)
サンジを色眼鏡で見る輩が多いのに気付いていたゼフは思わずそんな心配をして、こっそりミホークの家までついていったりもしたのだが、その心配は杞憂に終わった。
「それはそうと、王子稲荷には緑髪の男もついてきていたのだが…」
とミホークが言い出したのでゼフの回想は途絶えて現実の時間に戻ってきた。
「アレは誰だ? 剣術に心得のありそうな男だったが…」
ミホークが思い出し笑いをこらえるような表情をしている。
(緑髪の男と言えば、あのけしからん破戒坊主か…)
ゼフの眉間に皺が寄った。
それを見て今度こそミホークが笑った。
「アレはサンジに懸想してると見たぞ。そうかおぬしも気づいているのか、そりゃあおぬし、気が休まらんなぁ」
(了)
(2013.02)
律儀に並ぶミホ様をかきたかったのです
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