アザラシ倶楽部


「…という訳で俺たちの倶楽部に入るってよ」
「おいおい大丈夫か? 毎年やってる俺たちだって11月から少しずつ慣れるようにしてるのに」
髪を切ってもらいながらトーレの父親レオンは心配そうに床屋の親方に言った。
「レオンはこの前来なかったからそう言うんだ。そいつ散歩中だったようだが俺たちを見るなり『面白そうなことやってんな』ってイキナリ入ってきたんだぜ。俺たちのほうが慌てたよ。でもそいつは平然としてるし、そいつの連れも呆れたような顔をしてたが慌てる様子も止める様子も無かった。ってわけで今度の倶楽部のあと歓迎会だ。場所はそいつん家だ」
「へー、どこだ?」
「『風見羊』のコテージだ」
「仮市民かよ!?」
「そう。名前は…マリとか言ってたな。女みてェな名前だが男が見ても惚れ惚れするような身体してんだ」
マリ…どこかで聞いたなとレオンは思った。
妻のレーナや義妹のマリーナの手を時々煩わせたのが、確かそんな名前だったような気がする。



 ◇ ◇ ◇

リトルノースの長い冬の中でもっとも寒い時期が1月の下旬だ。
モミの木祭りが終わると気温が零下10度を下回る日が続く。
そんな1月の最終日曜日、アザラシ倶楽部のメンバーは意気揚々と丘を上がっていく。
男たちだけではない。女性や子供も混じっている。

彼らは途中で『風見羊』のコテージに声を掛け、緑髪の男を誘った。
金髪は今日はついてこないらしい。
「終わったらココで、この筋肉マリモの歓迎会すんだろ? 俺は準備があるから残るよ」
「ルリさん、この前言ったように場所だけ貸してくれればいいんだぜ。酒は俺たちで用意してきたからな」
「そうよ、歓迎会のことは気にしないで。ルリさんも一緒にいかが?」
「あぁレディ! そんなお誘いはぜひ他の男どもがいない時に!」
突然身体をくねくねしだしたサンジにアザラシ倶楽部のメンバーが目を丸くする。
こういう時、女性のほうが柔軟だ。
「あら、じゃあまたお誘いするわね」などと軽くサンジをかわしている。

「あの女好きを連れていっても女の世話を焼くだけだ。ほっとけほっとけ」とゾロ。
なんだとコノ!とつい突っかかりそうになったサンジだが、ゾロに「ついてくんのか?」と小声で言われて、はっと口を噤み、
「まぁやっぱり俺はココに残って、つまみでも用意しておくよ」
と慌てて言った。
「んじゃ大根でも頼むよ」
リトルノースでは、大根をうすく花びらのように切って粒こしょうを振ったつまみがよく出される。シンプルだが結構美味い。
サンジが料理人だと知らない彼らは、簡単にできるそのつまみをリクエストして、笑い合った。
サンジを残して森のほうへ向かっていくアザラシ倶楽部を見送りながらサンジはつぶやいた。
「レディのお誘いでも、こればっかりはなぁ…」



「さて、取り掛かるか」
サンジは踵を返すなり腕まくりをした。
場所を提供してくれればいいと言われても、集って酒を飲もうというならば、料理を作らないという選択肢はサンジには無い。
むしろ、船を降りて以来、大人数の食事を作る機会は無かったから、久しぶりの大仕事にわくわくする。
昨晩の内にビーツを茹でてボルシチを仕込んだ。
「都会風ポテトサラダ」は正月に限らずパーティ時には定番なので、これも用意済み。
(タラとキノコのオムレツは連中が来てから作るとして、チキンパイはそろそろ焼き始めたほうがいいな)
そう思ったサンジは冷蔵庫から寝かしたパイ生地を取り出してテーブルに広げ。
(あれ、この包み?)
ゾロの風呂敷に気づいた。
「あのバカ! 忘れていきやがった!」

パイを再び冷蔵庫に放り込んで、サンジは風呂敷を掴んで飛び出した。
「おい、忘れてんぞ!」
と叫んだが、もう彼らの姿は見えない。
サンジは苦々しい顔をしてチッと舌打ちすると、玄関脇の納戸から幅の狭いスキー板を取り出した。
雪道を走っていくよりもスキーで追いかけたほうがいい。
リトルノースでは冬にクロスカントリースキーをするのは日常的なことで、どのコテージにもスキー板が常備してある。
サンジは厚手のセーターとピーコートで防寒し、ゾロの風呂敷を投げ込んだリュックを背負い、スキー用具を持って外へ出た。
「さみっ!!」

サンジは慌てて家に戻って帽子を被った。帽子無しでスキーをしたら頭が冷えてガンガン頭痛がしてくるだろう。
ふと思いついてもうひとつニット帽を手に取った。
ゾロは帽子を被っていかなかったような気がする。
(あのバカ、髪がバリバリに凍っちまうぞ)
実際、スキー靴を履いているそばから、鼻の奥がツーンとしてくる。
鼻の粘膜の水分が凍るのだ。鼻毛もパリパリとしてくる。
サンジはくすりと笑った。
(この感じ、俺は嫌いじゃねェんだよな)
寒がりではあるが、この冷え冷えとした空気は嫌いじゃない。
自分の中のノースの血がそう思うのか、幼いころのノースの記憶が懐かしがるのかわからない。
が、冷えた空気にはすべてのものを透明にしていくような清らかさがある。
「んじゃ、サンジ号、出航!」
スキー板が軽やかに滑り出した。



「あー結局、湖まで来ちまった…」
「あ、ルリさん、やる気になったのかね?」
サンジを見つけたアザラシ倶楽部のメンバーが声を掛ける。
「まさか。俺はクソマリモの忘れもんを届けにきただけだ」
そう言いながらサンジは氷が張った湖を見た。氷は、アザラシ倶楽部のメンバーが皆乗っても割れないほど厚い。
その氷面が横幅約5メートル、縦幅約20メートルに切り取られている。
氷の縁には水中へ梯子(はしご)のようなものが掛けられている。プールの様相だ。
そしてその様相を裏切らず、これは確かにプールなのだ。寒中水泳用の。

アザラシ倶楽部のメンバーがテントの中で次々に衣服を脱いで水着姿になった。
そしてプールサイドに並べられた木箱にバスタオルを置いて、プール梯子から順番に水の中へ入っていく。
水中に入ったとたん「やー」とも「おー」とも聞こえる気合を一瞬発するが、すぐに気持ちよさそうに泳ぎ始める。
女性や子供も入っていく。皆楽しそうで、見ている限りではとても冷水のプールとは思えない。
一番最後にゾロがプール梯子のところへ来ると、プールの中のメンバーが口々に声を上げた。
「みんな見ろ! 新メンバー、マリさんの初泳ぎだ!」
「初じゃねェんだろ? この前、入ってきちまったそうじゃねェか」
「いやこの前は素っ裸で入ってきちまって慌てて追い出したんだ。風呂屋じゃねェぞって」
「あんときは驚いたよなぁ。突然服を脱いでザブンだもんな」
「だから『水泳』は初だ」
「そんならみんな、マリさんの初泳ぎを見守ろうじゃないか!」
ゾロは冷水のプールに入るや、豪快に泳ぎだした。

「キミは入らないのかね?」
水泳中のレディに鼻の下を伸ばしていたサンジに話しかけてきたのは中年の男だった。
がっしりとして大きい体躯とは反対に表情は柔和で誠実そうだ。
ドラムのドルトンが年を取ったらこんな感じになるのではないかとサンジは思った。
「そういうアンタは?」
ムートンの毛皮のコートをしっかりと着こんだ男にサンジがそう聞き返すと男は、俺は監視役だからねと笑った。
「寒中水泳の倶楽部はリトルノースだけで20以上ある。各町各村にあると言ってもいい。どの倶楽部も医者の心得がある者が監視役として付き添うから安心して参加すればいい」
「アンタ自身が寒中水泳したことは無いのか?」
「いやあるよ。若い頃は毎年やっていた。冷たい水に入ると身体を温めようと毛細血管が広がるんだ。身体の中で発熱が起こる。冷たい水の中にいるのに身体が火照ってくるんだ」
「あぁわかるな。冷たい水で食器を洗っていると身体が発火したように熱くなってくる」
「そう、それと同じだよ」
寒中水泳愛好者はその時の、恍惚にも似た不思議な感覚にやみつきになるのだ。
「と言っても、やはり長く入っていてはいかん」
そう言うと監視役の男は懐中時計で時刻を確かめるや、声を張り上げた。
「さぁ時間だ。アザラシたちよ、陸(おか)へ上がれ!」

「うー寒いっ!」
水から上がってきた子供が悲鳴を上げた。
真水の凝固温度は零度。ゆえに淡水湖の水中は零度以下にはならない。
反対に気温は零下10℃だ。水中のほうが温かい。
監視役が必要なのはこのためだ。
水中のほうが温かいから、放っておくと水から上がってきたがらない。
だがいくら身体が発熱すると言っても、零度近い水の中に30分以上いるのは危険だ。
それで監視役が5分ごとに声を掛け、15分したら全員を水から上げさせるのだ。

「おいクソコック、タオル!」
「忘れてったくせに何をエラそうに言ってやがる」
そう言いながらもサンジはバスタオルを投げた。
水から上がったらできるだけ早く身体の水分を取らねば、身体につららが出来る。

アザラシ倶楽部には会則がある。その中でも必ず守らなくてはいけない会則が4つある。
水着を着用すること、監視員に従うこと、暖かい飲み物を持参すること、バスタオルを2枚以上持参すること。
サンジが忘れ物を届けなければ、この厳守項目の後半2つを早々に破ることになっただろう。
ちなみに水着は腹巻に入れてあったので忘れずにすんだ。

「ほら髪も拭け! 拭いたらこれを被れ!」
つい子供の世話を焼くようにゾロの髪をもうひとつのバスタオルでガシガシと拭いて、持ってきたニット帽を無理やり被せてやったら笑い声が上がった。
「さながらでっけェ子供だな!」
「ウチのおっかあよりも気が付くじゃねェか」
まさか新しく島へ来た男二人が仲間以上の関係であるとは思ってもいない島民たちは、そう言って無邪気に笑った。
だがサンジはカーッと頬を染め、自分の世話焼き体質にムカついてゾロに八つ当たりした。
「クソ、てめェが忘れ物なんかすっからだ!」
口と一緒に足も出るのがサンジだ。
バスタオルを身体に巻きつけたゾロが勢いよく吹っ飛んで、冷水プールにボチャンと落ちた。



 ◇ ◇ ◇

「諸君!」
アザラシ倶楽部の会長が全員にグラスが行き渡ったのを見て声を上げた。
「マリさんの入会に乾杯!」
「乾杯!!」
声とともに会員たちがおちょこくらいの小さなショットグラスをパッとあおった。
ひと口で飲み干して、グラスを木のテーブルに叩きつけるようにタンッと置く。
空になったショットグラスに再びウオッカが注がれるや、すぐに副会長が声を上げた。
「マリさんの豪快な泳ぎっぷりに乾杯!」
「乾杯!!」
また全員が小さなグラスをあおり、テーブルにタンッと置く。
今度は監視役の男が声を上げた。
「マリさんとアザラシ倶楽部会員の健康に乾杯!」
またグラスが飲み干され、テーブルが音を立てる。
会計役のレオンが続いた。
「蹴り飛ばされたマリさんに乾杯!」
一同がどっと笑いながら杯をあおる。
グラスと木がぶつかるタンッという音が響き、レオンの隣にいた床屋の親方が言った。
「たくさんのご馳走を用意してくれたルリさんに乾杯!」
その後も乾杯が繰り返されそうになって、サンジはキッチンから叫んだ。
「俺のために乾杯してくれる気持ちがあるんなら、冷めねェうちに食ってくれ」

ルビーのように美しい色のボルシチにサワークリームを落とす。
ニンニクとウイキョウの香りがビーツの土臭さや肉の生臭さを消して上品な香りになるこの具沢山のスープは、サワークリームを入れるとぐっと濃厚になる。
ポテトサラダも好評だ。
タラとキノコのオムレツはあっという間に無くなって、今サンジは追加を作っている。
美味い美味いと言う声があちこちから上がってサンジは微笑んだ。
グラスが重ねられる音が響き、女性からも料理の賛美をもらい、子供たちは麦わらの船長のようにがっついている。
船上での戦争のような食事風景がちょっぴり懐かしくなった。
「ルリさんもこっち来いよ! 一緒に食おう!」
誰かが叫んだ。
「おう、すぐ行く!」
忘れ物を届けたせいで焼くのが遅れたチキンパイが出来上がるのももうすぐだ。
ボルシチ
↑ボルシチ…サワークリームを入れる前



(了)


気に入ってくださったらポチっとお願いします→(web拍手)
(2013.01)