Stand by You


それに気づいたのは、きっとあの時だ、と剣士は思う。

グランドラインに入って間もない、ある日のティータイムのことだ。
ティーカップのセットを料理人が丁寧にテーブルに並べていた。
ポットからルビーのような美しい色の紅茶が注がれる。その時―――
「サンジーーー! おやつーー! もう待てねェーーー!」
ミヨーーンとゴムの手が伸び、ルフィがラウンジに突っ込んだ。
紅茶が注がれた可憐なティーセットは、がしゃんと派手な音を立てて床に落ちて崩れた。
ちょうど5人分あったのに無事だったのは2セットのみ。それ以外は揃いのポットもカップも砕け散り、ルフィは当然、罵声と共に蹴り飛ばされた。

『こりゃあ説教が始まるな』
と思ったのは惨事を起こしたルフィだけではない。
派手な破壊音にラウンジに集まったゾロ、ナミ、ウソップの3人も、割れたティーカップを嘆いて、これから料理人が船長に説教を垂れるのだろうと予想した。
だが料理人は、くどくどと小言を言い続けたりはしなかった。
このセットを料理人が大切にしていたことは誰もが知っている。そんな態度を取られると、かえって壊した本人のほうが殊勝な気持ちになった。
「ごめん、サンジ…」
料理人の顔をうかがい見るルフィの表情に料理人は苦笑した。
「船長、しょぼくれるくれェなら、これからはもっと静かにラウンジに入ってこい」
「怒ってねェのか、サンジ?」
「怒ったぞ。だからさっき一発蹴っただろ。壊れちまったもんは仕方ねェ。この船に乗ってみんなのために最初に揃えたティーカップだから残念だけどな。これが食いもんをダメにしたってんなら許さねェぞ」
そう言うと、料理人はガラス片を綺麗に片付け、別のティーポットで再び紅茶を用意し始めた。

それを剣士は意外な気持ちで見つめた。
剣士には食器の良さや食器を揃えたがる気持ちなんてものはよくわからない。
だが料理人が、どの料理をどの食器にどう盛り付けるかに気を配っていたのは知っている。今回割れた食器が「最初に揃えた」大切なカップであったことも知っている。
だからもっと執着するかと思っていたのに。料理人にとっては、誰かが怪我をしなかったかということと、おやつが無事だったかということのほうが重要だったらしい。

その時剣士は気づいたのだ。麦わらの胃袋を預かる料理人が物に執着しないことに。
そして、その執着の無さに奇妙に不安になった。



その小さな事件を境に、剣士は料理人をこっそり観察し始めた。
食器と料理だったからきっと料理を優先させたのだ。料理にまつわらない、ほかのものなら執着するかもしれない―――
思えば観察を始めた時にすでに剣士は彼が何かに執着することを望んでいたのだろう。自分で気づかぬまま。

たとえば服はどうだろうと剣士は考えた。
剣士の腹巻を「信じらんねェ、そのセンス」と一刀両断するが、剣士に言わせりゃ「海賊船で黒服というセンスのほうが信じらんねェ」というものだ。
いやセンス云々は置いといて、とにかく料理人は女好きの性格だから身だしなみには気を遣う。服なら執着するかもしれねェ。
剣士はそう期待して彼を見た。

確かに剣士よりは服の数は多かった。そういうレベルでネクタイとかスーツにこだわってると言えばこだわっている。だが必要以上に買い求めたりはしない。
『あの魚のレストランのジィさんに服をねだるなんてことはなかったのだろうな。だから、育った環境のせいかもしれないが、物持ちはいい』
ひとつのシャツを丁寧に扱う。袖口や襟の汚れやすいところは優しく丹念に洗って大事に着る。
だがそれも執着とは違うようだ。
その証拠に戦闘で血糊がベッタリと着いたりしたら惜しがりはしない。ナミのように「これお気に入りだったのに、なんとかならないかしら」なんて惜しがるようなことは言わない。
「そのシャツ、大事にしてたんじゃねェのか?」
たまたま捨てる場に居合わせてそう聞いたら「ばーか、戦闘の血の匂いが残ったシャツで料理作れるか!」と返された。

料理人が大事にしているものは、包丁と日々記録しているレシピノート。
…それくれェか? そういや祝いの日にみんなで開けたワインの包装用リボンを、中味がなくなっちまっても大事に取っていたな。
いずれにせよ、料理人にとって大切な物はあっても執着するほどの物はないのだ。





 ◇ ◇ ◇

砂漠の国の王女を助けるために、どこまでも続く砂の上に降り立った時、料理人は言った。
「ここは何も無ェなぁ…」

砂の大地の景色は、風に揺れて姿を刻々変える点が海にそっくりだ。そのくせ海とは最もかけ離れている。
生命を育む海と生命を拒絶する砂漠。
海に生き海に育った料理人は、海とは対極にある砂漠を嫌悪するかと思われた。
だが逆だった。過酷な環境でないと生きられない必要最低のもののみで構成された砂の世界を、料理人はすんなりと受け止めた。海へ向ける愛情と同じくらい砂だけの大地を愛した。

強すぎる太陽が照りつける空は、青いというより白い。くすんだ色の砂と白い空。色合いに乏しい景色と、人の手が無くなれば瞬く間に砂に埋もれていく土地。
その砂さえも一時も同じ形を保ちはしない。何かを残すことを拒むようなその世界になかなか慣れなかったのは、むしろ剣士のほうだった。
「俺は、どこにいてもやっていけると思ったが、こういうとこに長くはいらんねェな」
「あぁ、やっぱ、植物のお仲間がいねェとな」
珍しく剣士が料理人に向かってまともなことを言ったのに、料理人が茶化したから、お決まりの小競り合いが始まる。何故だか剣士が真剣だ。

「何、マジになってやがる? 植物に植物って言ったのが、そんなに気に食わなかったか?」
「苛々すんだよ、てめェ見てっとよ!」
「そりゃ、お互い様だ、このクソ剣士!」

この料理人は弱くも儚くもない。それなのに砂漠を見ながら目を細める料理人が、このまま砂と同化してさらさらと風に乗って消えそうな気がして剣士は苛々する。
「なんでてめェはそんなっ…」
言いかけて、その先に詰まって剣士は歯軋りした。何を言おうとしているのか自分でわからない。だが、何かが心の奥からせり上がってくる。

怪訝な顔をする料理人に、剣士は言葉を絞り出す。
「もっと…執着しろ…」
「何に?」
「何にって…」
剣士は言いよどんだ。何に執着しろと言えばいいのだろう。
命、なんて言ったら、この料理人に嘲笑されるだろう。「命なんて捨ててると言った男のセリフかよ!」と返されるのは火を見るより明らかだ。

それに、どんなに料理人の闘い方が誤解を受けやすくとも、この料理人は死に急いでるわけじゃない。
人をかばうシリアスさなんて見ているこっちだけの思い上がりだ。
彼にすれば「守ろう」という気持ちからくる条件反射のようなものであって、それでうっかり倒れても、目覚めた途端にナンパにいそしんでいる。そんな料理人を何度呆れた思いで眺めたことか。
そもそも何も無い島から、生き汚く生還したのは誰だったか。生きることへの執着心が弱いわけでは決してない。
それでも何かが違うのだ。何かが自分と違う。この焦燥をどう言ったらいいのだろう。

何かにもっと執着しろ。抽象的なものじゃダメだ。そんなぼやけたものは未練にも楔にも道標にもなりはしない。もっと、もっと…、
「何かこう、はっきりしたもんに、もっと…。しがみついてでも離さないような何かにっ!…」
連続で繰り出される足技を払いながら剣士の口から出たセリフはどうしようもなく意味不明で、剣士は自分で、ダメだと思った。
自分で言ってても、ちっともわかんねェ。これじゃあ伝わるわけねェ…。

しかし一瞬呆けたような顔をした料理人は「あぁ…」と理解したように頷いた。
わかるのか? んなわけねェだろ、自分で言った俺だってわかんねェのに…剣士の眉間の皺がぐぐっと深まり、眼光が険呑な翳りを帯びる。

「てめェは、その顔だけで人殺せそうだな」
料理人はそう笑って、す、と足を下ろした。そして続ける。
「ルフィには麦わら帽がある。てめェはその刀が命と同じくらい大事だ。ナミさんにはみかんの木が残っている。ウソップにはメリー号が、チョッパーには帽子がある。だが俺にはそんなものは無ェ。いや、そういうもんはみんなこの手と足に詰まっている」

あぁ。
あぁ、そうか。
大事な人からの大事なもの。
俺たちにはそれがすべて、形ある「物」として具現化されているのに、料理人にはそれが無い。大事な「もの」はあっても、大事な「物」はない。

いつかコイツも大事な「物」が出来るのだろうか。例えば大事な恋人とか出来て、その女がくれた何かがコイツにとっての大事な「物」になるのだろうか。

そういうものが出来ればいい、と剣士は思った。あのレストランのジィさんからもらった「もの」を超えることはできなくても、たとえばそれのために戻ってこようと思うような、残していくのが未練となるような、そんな「物」がアイツに出来るといい。そう剣士は思った。



(了)




料理人をつなぎとめるものを欲っする剣豪。自分で言うのもなんですが、この話はお気に入りの話です。主導権を持ってサンジにせまるゾロも好きですが、こんなふうにかたわらでサンジを温かい目で見つめているゾロが好きです。