凍てつく虹 #3



気がついたら浜に打ち上げられてました、なんて、お話の世界じゃよくあっても、実際にそんなことは少ない。
浜辺に打ち上げられてる頃には、大抵もう、どざえもんになっている。
かろうじて海中では水死体になっていなかったとしても、気を失って運ばれた先が浜辺とは限らない。
岩場だったらせっかく岸辺近くまで生還しても、頭蓋骨割ってそのままあの世行きだ。
さんご礁だったら、俺様の美しい顔が傷だらけだ。
んでもって、海中は綺麗なようで細菌がうようよしてっからよ、菌が傷口から入り込んで、顔中ぱんぱんに腫れちまう。

「おまえなァ、もうちっとマシな話をしろよっ!」
「うっせーっ、なんで俺が今、んな話をしてんのか、わかってんのか、このクソ緑っ!」
「島っぽいもんが見えてるからだろうが!」
「わかってんじゃねェか!」

…ったく、なんだってこのぐる眉コックは、俺に対しては喧嘩腰じゃねェと会話できねんだ?
まぁ、そんだけ元気がありゃ、いいけどよ…。



サンジが、おい起きろ、と言って、板につかまったまま眠りこける、ある意味器用な剣士を蹴り起こしたのは、東の空がうっすら明るくなってきた頃だ。
半覚醒のゾロに、サンジはいきなり「気がついたら浜に打ち上げられてました、なんて、お話の世界じゃよくあっても…」と話し始めたのだ。
人の眠りを妨げて何いきなり解説始めてやがると思いながら、半分眠った頭をブンと振ってゾロは気づいた。
夜のとばりで見えなかった島影が、薄明かりの中にぼんやりと現れていた。



「てめェの顔が腫れようが、そりゃどうでもいいが、つまり、このまま板ッきれに乗ってどっかに無事流れ着く可能性なんか少ねェから、あの島まで泳いだほうがいいって、てめェは言いてェのか?」
「ああ。で、てめェの意見は?」
「どれくらい距離があると思う? あの島まで」
ゾロは白んできた景色の中に浮かび上がった小さな島影を見ながら、隣で板につかまっているコックにそう尋ねた。

「5〜6kmってとこだろ」
こともなげにコックが言う。

だが、5〜6km陸地を走るのとは訳が違う。内海を遠泳するのとも違う。
外洋の海流に逆らってまっすぐ島を目指すのは容易ではない。流されれば5〜6kmがその倍以上になる。
陸地の周辺では潮の流れも変化しやすい。海面が穏やかでも、水深たった1メートルのところに渦ができていたりする。
一応浮き輪の役目を果たしてくれている板を手放してまで島を目指すほうが本当に生存確率が高いのか、それは危険な賭けだった。

『それでも、島を目指して自分の命をつかむほうに躊躇なく賭けるだろう、自分ひとりだったら』
ゾロはそう思って、となりの金髪をちら、と見遣った。

さっきの喧嘩腰の会話の元気さから判断するに、板につかまっている流されてる分にはこの体力で心配無用だとは思う。
だが、島に泳ぎ着くにはどうか?
ふたりとも確実に体力が落ちていっているのは、わかっている。
それだけではない。
サンジの黒スーツからうっすらと赤い水が流れ出ることもゾロは気づいている。
『この野郎、どっか怪我してやがんな』とゾロは思ったが、指摘してもどうせ「大したことねェ」という返事が返ってくるに決まっている。
だから、ゾロも気づかぬ振りをしてきた。
サンジのほうも、ゾロの「気づかぬ振り」に気づいている。
自分も意地を張る分相手の意地も尊重し、自分の意地を尊重してくれた男気を尊重する。
ややこしいようだが、つまり、その程度には相手を認めていた。



「てめェ、あの島まで泳ぎ切る自信あんだろうな?」
「ばーか、誰にもの言ってんだ。海のコックだぞ。てめェこそちゃんとたどり着くのかよ」

くるんと巻いた眉毛を上げてフフンと笑う表情は、空元気でも虚勢でも意地でもなかった。
過酷な遠泳を楽しむような表情だ。

ゾロの脳裏にサンジの泳ぐ姿が浮かび上がった。
ストロークは力強く、それでいて優美な「麦わら海賊団一の泳ぎ手」の姿。
そこにはゾロの懸念など微塵も寄せ付けない姿があった。
ゾロの心は決まった。











たどりついた島は、小さな島だった。
海底火山が隆起して、先端がぽつんと海面に飛び出したかのようなちっぽけな島だ。
砕けて砂になった珊瑚が浜を作り、浜の奥には木々が生い茂っている。
食料になりそうなものはあっても、人が暮らす島ではない。
実際、上陸した周辺に人が住んでいる気配はない。

人間は、ただ食って寝られればいい獣とは違う。
生き永らえるだけでは満足しない。
「生活」することを望み、「社会」を築こうとする生き物だ。
この島は、「社会」を築くには小さすぎた。

だが漂着した二人にとって重要なのは、まずは、「生き永らえる」ことができる島かどうか、だった。

上陸して早々、それを念入りに調べようとしたのはコックだ。
ゾロが無理矢理シャツを引っぺがして、ナイフで抉られた胸のキズを指摘しなかったら、キズの手当てもしないままあちこちうろつき回っていたことだろう。
ゾロは、島の探索を早々に投げ出した。
幸い、森には野生の果実がなっていた。
ライチに似た実もあり、これを食べていれば水分補給には困らない。
当面、飢えることも渇くこともないとわかっただけで充分だった。

それを、あのコックは、何を神経質なほどに確認して回ってるのか?

ゾロはろくに休みもしないで島を調べまわるサンジに苛々した。



一方そのサンジは、食べられるものを栄養素別に考えて確認していたのだ。
まずはてっとり早く食べられる果実。
これはビタミンが豊富だ。
ざっとみた限りでは南国系のフルーツが多かったので、ビタミンA類も問題ないだろう。
ただ、未熟な果実はダウナードラッグに似た効果を含むものがある。

『青い果実は食うなとあのマリモ剣士に言っとかねェと、あいつはちっとばかり青くて固くてもバリバリ食っちまう』

頬袋を膨らませて固い果実をもごもご食べてしまう剣士を思い出してサンジは笑った。

ビタミンはとりあえずOK。
サンジは、もいできた幾種類かの果実を並べて自分でうなづく。

たんぱく質については魚漁りの仕掛けを作っておこうと思う。
貝には毒を持つものが多いが、サンジは海のものだったら、どれが毒があるか殆ど把握している。だてに海の料理人をやっているわけではない。

あとは炭水化物。
これが結構海では確保しにくいのだ。
船に乗っているならいざ知らず、漂流したところで米や麦を探すのは容易ではない。
米も麦も、最初は野生の植物だったのだろうが、今となっては人為的に栽培される作物となり、野生のものは少ない。
『さしあたって、芋でもありゃ、いいんだが…』
「芋を探すこと」
忘れないようにサンジは声に出して自分の脳に刻み付けた。



幼い自分が飢餓を経験した島からしたら、この島は格段に恵まれていた。
それでも、いつ真水がついえるとも限らない。
長くこの島にとどまれば、食べ物の少なくなる冬のような季節が来るかもしれない。
嵐で根こそぎ果樹が倒されるかもしれない。

遠い日の忌まわしい記憶は、サンジに楽観視を許さない。
この島にいるのはどうせ長くないなどとはとても思えない。
85日…いやもっと、ここにいることになるかもしれない。

それに死なないだけの食料があっても、体力や筋力を維持するにはたんぱく質や炭水化物をしっかり摂る必要がある。
自分はコックだ。体力が落ちても筋力が落ちても、戦闘用の勘が鈍ってもコックであることに支障はない。
だが剣士は違う。
身近な男の夢が海に盗られるのを見るのは、もう嫌だ。
罵詈雑言と命令文でしか言葉を交わさない男だが、あの剣士が剣士でなくなるのは嫌だ。

自分でも気づかぬうちにサンジは明け方に上陸してから夕方まで、ろくに食べもせず休みもせず島を調べ続けていた。



「いい加減にしやがれっ!」

ゾロがそう叱喝したのは、茜色に染まった空に星がチラチラ瞬き始める頃だった。

「うっせー、今、食料があるからといって安心できるわけじゃねェんだよ! ちっこい島ってのはな、歩いてりゃ、村にたどりつくってことは無ェんだよ! 海を甘く見るな!」
負けずと言い返して、ゾロに詰め寄った。
「何をムキになってやがる」
落ち着いた声でそう返されてサンジは、はっと、胸倉をつかみ上げた手を離した。

「ムキになってるわけじゃねェ。でも海のコックは海と共に生きてきてるからな、海に囲まれたちっぽけな島ってのは、ちっぽけな船と同じ気がして食料管理しちまうんだよ。そのくせ、島は船と違って、自分からは動けねェ。ナミさんを信用してないわけじゃねェけど、向こうの状況だっていいとは限らねェしな」
「だからって、独りで必死になってても仕方ねェだろ。無理して動き回ってぶっ倒れたら、それこそ本末転倒だろうが」

ゾロの言う事は正しい。
確かに自分は必要以上に焦っていたと思う。
胸にじわりと自己嫌悪の苦い気持ちが広がって、いつものようにゾロの言葉に反発することもなく、そうだな、と溜息混じりに頷いた。
その殊勝なサンジの姿に驚いたのはゾロのほうだ。

「おまえ…」
ホントにコックか?、と言いかけて、ゾロは慌てて口を閉じた。
そんなことを言ったら、沸点の低いこのコックと必ず喧嘩になる。
疲労を滲ませているこの痩身に、今必要な運動ではなかった。

「あん? 何言い掛けたんだよ?」
凶悪面で下から三白眼で睨みつけるチンピラコックをいなして、ゾロは話題を変えることにした。
あれを見ろ、と言わんばかりに、森の入口のやや小高くなった場所を、くいっと指し示した。

「何だ、ありゃ? あんなもん、あったっけ?」
木々の緑の間に揺れる黄色のような砂色のようなものにサンジは首を傾げる。
すかさずゾロは自慢げに返事をした。
「俺が作った」
「は? 作ったぁ??」
サンジはザザザとそこへ走っていく。

「うぉっ!」
マジでびっくりした声を挙げたサンジにゾロは破顔した。
「なななんだよ、てめぇ、こんなもん、作れんのか! 獣のくせに人間らしく雨風をしのぐようなもん作りやがって!」
そりゃ誉めてんのか、けなしてんのか…と思ったが、どうも感心しているらしい。
子供が面白いものを見つけた時のように目をまんまるくさせているコックを見ながら、いい気分になった。

サンジの目の前にあったのは、木々の間に山型に張られたテントだった。
サンジが島の食料を確認している間、ゾロは暇つぶしに海岸線をぶらぶら歩いていた。
もしかしたら船が通りかかるんじゃないか、というような理由ではない。
海岸線なら戻る時は波打ち際を逆方向に戻ればいいから迷わねェ、というだけの理由だ。
あても目的もない散歩だったが、それが思わぬものを見つけた。
セイルがくっついたままの折れたマストと樽が二つ(うち一つは破損していたが)、浜に打ち上げられていたのだ。
難破した帆船のものが流れ着いたのだろう。もう少し歩いてみたら、フォアセイルらしい大きさの帆布も見つかった。

ゾロはそれらを持ち帰って、大きいセイルの中央を高い枝にくくりつけた。
そして、杭のように仕立てた太目の枝で、布の四隅を地面に縫い付けた。
フォアセイルは中に敷いた。
樽は綺麗に洗えば水がめになるだろう。
こうしてサンジの言うところの「人間らしく雨風をしのぐようなもん」が出来上がった。

「これ、てめェ、ひとりでやったのか?」
「他に誰がいるんだ?」
「そうだがよ…。だてに串団子振り回してねェな。こんなデカイ布引き上げるのは、相当力がいるだろうによ」
実際、それは難儀ではあったが、せっかく帆布を見つけたのだ。放っておく手はない。
「マリモもちったぁ、役に立つもんだ」と言うサンジには、もう、先ほど独りで食料を探していた切羽詰った表情はなかった。

「んじゃ、あとは、水はけ溝を作れば完璧だな」
そういうサンジにゾロは「あん?」と首を傾げた。
「なんだ、そりゃ?」
「テントの周りにぐるっと溝を掘っておくんだよ。深さ15センチくらいでいいから。で、テントの周りで一番低い位置のところにある溝から更に低い土地のほうへまっすぐ溝を掘っておく。そうすると、雨がふって地面を水が流れてきても、その水はテントの中に入らずに、溝に落ちてテントの周りをぐるりと回って低いほうへ誘導されるんだ」

今度は、ゾロがへぇ、と感心させられる番だった。
「てめェ、海上生活してたくせに、地上の野営のことなんか、なんで知ってんだ?」
「サバイバルにかけちゃ、ちょっと詳しいのさ」

なんだかわからないが、この一見ヤワそうに見える男が、かなりの修羅場をくぐっているのを知っているゾロは、それ以上追求しなかった。
腹の虫がぐううと鳴ったせいでもある。

くくく、とサンジが笑った。
「今晩は雨も降らなさそうだし、溝掘りは明日にして、なんか食おうぜ」



(to be continued)