「愛とは理解の別名なり」
そう言ったのはインドの詩人だったか?
この言葉に従えば、剣士からコックに向けては、愛は欠片も存在しない。コックの側はどうだか知らないが、少なくとも剣士にとってコックは、不可解と言っていい生き物だったからだ。
魚と海と満腹日和
「またひとりで犠牲になるつもりか?」
忌々しそうにゾロが言う。
サンジは銜えていた煙草から、ほぅと紫煙を長く吐き出して、ふ、と笑った。
「犠牲かぁ、カッコ良さげに聞こえるな」
「ふざけんなっ!」
思わずゾロがサンジの胸倉を掴む。
それをサンジは、まぁまぁとなだめるように押し留めて言った。
「犠牲とか、んな高尚なことじゃねェんだがなぁ」
「だったら、なんだ? なんで食わねェ」
「それが俺の仕事だから」
「はあ?」
「てめェらに食わせるのが俺の職務だからさ」
「だからって、なんで作ったてめェが食わねェ?」
「例えばゾロ、てめェがある客船の船長だったとする。腹巻マリモに客船てのは似合わねェが、まあ、そこは問題じゃねェ。で、大きな氷山にぶつかって船は大破。救援信号を打てども、周辺海域にはまったく船は無ェ。したら、てめェはどうする?」
「女と子供を救命ボートに乗せて避難させる」
「野郎が乗れるだけボートが余っていたら?」
「男の客を乗せる」
「それでもまだボートが余っていたら?」
「乗組員を乗せる」
「それでもまだボートに余裕があったら?」
「そしたら、俺が乗る」
「んじゃ、ひとり乗り損ねた奴がいたら?」
「そしたら、そいつを乗せて、俺は船に残るだろ」
「だろ? それは自己犠牲か? そうじゃねェだろ。自分の職務と責任をまっとうしただけだ」
「うーん…」
なんだかうまいこと言いくるめられたような気がする。
が、船長と聞いて、思い当たったことがある。
「……だから…アイツは…」
「あん?」
「だから、ルフィはてめェが食わなくても何も言わねェのか?」
「そういうこったな。ルフィはアホだけど船長だからよ、わかってんだろ。ま、てめェがわかんねェのも無理はねェ」
「なんだそりゃ。ルフィはてめェのことがわかってるが、俺はてめェがわかってねェって言いてェのか?」
確かに日頃からコックの考えることはちっともわかんねェと思っている。
今の問答でもコックの言い分を理解したとは言いがたいのだが。
『ルフィはわかっていて、ゾロはわかっていない』というのは癇に障る。
知らずに眉間に縦皺が寄っているのだが、本人は気付いちゃいない。ただただ不愉快だ。
一方サンジは。
不機嫌になったゾロに驚くとともに、笑いがこみ上げてくるのを必死の思いで押し殺す。
『参ったなー、コイツ、なんとも可愛いこと言ってくれるじゃねェの。ルフィに嫉妬と焦りを感じちゃったかよ、マリモくん』
知らずにぽややんと頬の筋肉がゆるんでいるのだが、本人は気付いちゃいない。上機嫌だ。
それでもサンジのほうは、ここは茶化すところではないとわかっていた。
上機嫌を悟られないよう、きゅ、と口元を引き締めて、真面目な顔で話に戻る。
「そうじゃねェよ。てめェはさ、独りで生きているだろ」
「でも今は仲間がいるだろうが」
「そういうことじゃねェ。ルフィは仲間になろうって誘うだろ。つまりルフィは俺たちに依存してくるんだ。だからこそ、俺たちに対する自分の責もわかっている。てめェは自分から、仲間になろうって誘うか? 誘わねェだろ? この船には誘われたから乗ってるが、自分から誘わねェだろ? つまり、てめェは、仲間を助ける気持ちや仲間への情はあっても、責任は感じてねェのさ」
言われて見ると、そのとおりだった。目の前にいるコックに対しても、それは同じだった。
危機に面していたら助けたいと思うし、情もある。だが、責任はない。相手は女ではないのだ。自分の力で立って、夢を追い、行動できる男だ。
自分との関係だって、なし崩し的に始まったとか、手篭めにしたとかではない。コックが自分の意思でゾロの気持ちを受け入れ、自分の意思で関係を受け止めたのだ。
そう思っていたら、ゾロの心の内を見透かしたようにサンジが言った。
「てめェが責任を感じるとしたらルフィだろ。もう負けねぇという誓いを破らないために」
「サンジーーーーッ!! 美味そうなのが来たぞーーーっ!!!」
甲板から、年少組の声が上がって、サンジはバタンとラウンジから飛び出した。
「引き網にかかったか?」
「違ェ! あっちだ!」
右舷前方に黒い塊が複数ある。海王類か?
塊の一つが跳躍した。空中で反転して、いるかのように海中にダイブする。
水煙が盛大に上がって、大きな波が立つ。数十メートルは離れているだろうが、横波を食らったメリーが大きく傾いた。振り落とされそうになりながら、コックとルフィは興奮まっただ中だ。
「よっしゃ、あいつを捕まえんぞ!」
「肉だー!!!」
黒光りする流線型のボディが海面に浮上してくる。大きな魚雷のようだ。
磨かれて光沢を放つ「なめし皮」のような体皮の表面を海水が滑るように流れ落ちていく。
体長はメリー号の全長の半分くらいか?
尾に近い部分に屏風を広げたような大きな背びれがある。
「テイオウビョウブじゃねぇか! こいつぁ、引き網じゃ無理だ! ウソップ、一番しなって強い竿持って来い!!!」
大型魚の中でも、おとなしい性格のものは、船の後方に網を引いてそれに引っ掛けて取ることができる。
だが、この魚は、太い糸つむぎのような体型なのに動きは俊敏だ。泳ぎの速さは海中生物でトップクラス。性格も荒い。この大きな体躯で激しく動かれたら、引き網では船のほうが転覆しかねない。投げ釣りで捕らえるしかない魚だった。(というのはあとでコックに聞いた)。
それからの司令塔はサンジだ。船長よりも航海士よりも剣士よりも、海で獲物を捕らえるにおいてはサンジに敵うものはいない。
親指人差し指中指の先がオープンになった釣り手袋をはめ、ウソップから竿を受け取ったサンジは、ルアーをつけてシュッと竿を振った。同時にリールにかけていた指を離し、リールを開放する。
遠心力の力を借りて、釣り糸がひゅんっと音を立てて数十メートルの距離を飛んでいく。
テイオウビョウブの群れに向けてそれを繰り返す。
やがて一匹が掛かった。
とたんに竿がしなり、リールがチチチチと忙しない音を立て、糸が勢いよく引き出されていく。
顎に引っ掛かった鉤を外そうと、魚が暴れ回る。
右へ左へ引っ張られた竿は大きく湾曲し、そのたび空気がビンッと音を立てて震える。
尋常でない引きに、竿を掴む痩身が甲板からふわりと浮き上がった。
「コック!!!!」
ゾロが慌てて抱きとめる。
サンジの腰にぶらさがるようにして重心をぐいと下に落とす。
「竿、放すなよ!」
「てめェこそ、俺を放すんじゃねェぞ!」
たりめェだ。コックも魚も手放してたまるかってんだ。
ルフィはゴムゴムの手を伸ばして大魚に拳固を当てようとしているが、魚のほうが素早い。掠めるだけで当たらない。ウソップのパチンコは何個か命中したが、かえって魚を暴れさせた。
「ナミさん、取り舵ッ!」
顎に鉤を食い込ませたまま、力任せに魚が抗い、船から遠ざかろうとする。それを船ごと追う。
糸が更に繰り出されてヒィーーーンと高い音を出す。
深く潜った魚が、空中へ躍り出た。黒と銀の身体が陽を受けて空中できらめく。
そして巨大な水柱と轟音を上げて水中に没する。
それは、なぜかサンジを思わせた。黒くてキラキラ輝き、しなやかに踊り、だが破壊力は半端でない。
大魚はそれからも何度も跳躍した。跳ね上がっては身体ごとぶつけるように水中に没する。
そのたび、糸が海中に引き込まれて竿が弓を絞ったように湾曲し、竿尻が跳ね上がって、サンジの腹を叩く。その衝撃は後ろからサンジを支えているゾロにも響くほどだ。
「腹、大丈夫か?」
何回目かに腹を突き上げられて、思わず聞いたら。
「ジジィの蹴りより甘ェな」
忘れていた。
こいつぁ、赫足に育てられたんだった…。
右へ左へ胴体を振って暴れていた魚が体力もスピードも出し切って、ふっと力を緩めたところで、サンジは慎重かつ力強く糸を巻く。
引っ張られる気配を感じて魚がまた抵抗する。
それをねじ伏せるのでなく、抵抗が緩むのを待って、すばやく引き寄せる。
「レディがお怒りのうちは、何をしても逆効果だからな」
「ありゃ、メスか?」
「違ェよ。レディの扱いも魚の扱いも同じってこった。レディが不満を言い出したら、途中で遮らずに全部出し切るまで聞いてやる。勢いが収まったところで寄り添ってやる」
さすがエロコック…。
言うとおり、持てる力の全てを出して暴れた魚の抵抗は、力が緩む時が徐々に多くなってきている。
勢いよく送り出されていった糸は、今やじわりじわりと巻き取られて、魚とメリーの距離が狭まってきた。
もう少し…
誰もがそう思った時、最後の抵抗とばかりに魚がぐいっと潜水した。
船の真下に潜り込まれたら厄介だ。サンジは必死で糸を巻き取ろうとする。
だが力が拮抗して、びくともしない。それどころか身体ごと引きずられそうだ。
「くっ…」
咽喉声が聞こえて、サンジの腰を抱えていたゾロは、思わず視線を糸の先からサンジへ移した。
背後から見えるのは首筋や顎だ。
もともと顎の小さい奴だったが、なおさらシャープになっている。
そこを玉の汗が滑り落ちていく。
この魚を逃したら。
コイツはまた何も食わねェのか…
「おい、エロコック、あと一歩近づけねェでいる女には、どうすりゃいい?」
「そういう時には、積極的に腰を引寄せてやるのも男の甲斐性」
「違いねェ!」
ゾロの右手が前方に伸ばされて、サンジのリールを握る手に重ねられる。
「引くぞ!」
サンジの手に被せるようにしてゾロが手に力を込める。
ギ…と音でも立てそうな重さで僅かにリールが動いた。
呼吸を合わせてもう一度。
リールが動く。
糸が巻かれる。
もう一度…。
はっ…
サンジの背中からゾロがぴったり身体を合わせるような態勢になって、サンジの息遣いが嫌でも聞こえる。もちろん汗ばむサンジの身体の香りも。
潮の香りとサンジの香りと。
波が跳ねる音とサンジの呼吸音と。
それ以外、何も無くなったようにゾロは感じた。
ほかのクルーが騒ぐ声なんて何も聞こえない。
この魚を逃したら。
コイツはまた何も食わなくて…
俺もまたコイツを食いそこねる…
この魚をなんとしても捕まえて。
たらふく食って…
コックを食おう…
ゾロとサンジと魚と海と空だけになった世界で、サンジがピクっと身体を震わせた。
同時に首筋がさっと色付いた。
「てめェーーーーっ!」
「どうした?」
「どうしたじゃねェ! 当たってんだよ、てめェの!!!」
あ…。
そりゃ面目無ェ…。
確かに気付けば股間の暴れん坊がそそり立っている。
「コック」
「あ?」
「逃がさねェぞ!」
それが魚のことなのか、サンジのことなのか。
頬を紅潮させたサンジがヤケクソ気味にリールを巻く手に力を込めた。
竿は弓なりにたわんだままだが、確実に魚の力が落ちてきている。
ついに、ザバーッと盛大な水しぶきを上げながら、大魚が水面に躍り出た。
とどめは船長の一発。のびたところをサンジが長包丁で活け締める。
長い一日だった。
ここ数日殆ど食事を取ってないはずのコックは、魚と格闘し、解体し、料理をし、後片付けをし。
働きっぱなしだ。
ゾロははたと考えた。
あいつ、食ったんだろうか?
魚と格闘し、解体し、料理をし、後片付けをし…。
食ったところを見てねェ…
「おい、食ったのか?」
「俺は『おい』じゃねェ。サンジ様だ」
「食ったのか?」
「食ったよ、ちゃんと」
「たらふく食ったか? 満腹になるほど食ったか? ちょろっと味見しただけで、食ったとか言ってんじゃねェだろうな?」
「疑り深い野郎だな。浮気を疑う亭主かっての。嫁さんに嫌われるぜー。ま、嫁がもらえたらの話だけどな」
「ちっと黙れ。てめェのコックとしての矜持に関わるというのなら、これからは口を出さねェ。だがな、てめェだけ飢えてるのを、コックの仕事だからしょうがねぇと気にしないでいられるほど、俺たちは図太くねェ。それは忘れるな」
わかってるさ、この船のみんなが俺のことを見守っていることくらい。
特にてめェが心配しちゃってくれてたってことも。てめェの名誉のために言わねェけど。
サンジは、料理人の顔で言った。
「俺を飢えさせたくないと思うならな、食うことだ。俺が差し出したもんを残さず食え。からっぽになった皿を見て、満腹になるのがコックなんだぜ」
「で、剣豪様はどうなんだよ? 満腹になったのかよ?」
にやんと笑うサンジの顔は、明らかに淫を含んでいて。
ゾロがそれを見逃すはずはなかった。
「てめェが差し出すもんは残さず食うべきなんだろ?」
「わかってんじゃねェか」
これも理解と言うならば、どうやら愛はあるらしい。
(了)
サンジ、誕生日おめでとうーー!!!
バースデーケーキもプレゼントもない話ですが、一応サン誕小説ということでDLFにしておきます。
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