主任のうわさ
「これをもう一杯…」
そう言いながらロロノア・ゾロはグラスを少し持ち上げて振ってみせた。
するとカウンターの中の男がすぐさまカクテルを作り始める。ゾロの注文に返事をするわけでもなく、会釈をするわけでもなく、もちろんにこりと笑うこともない。
しかしゾロにはそれが心地よかった。客に愛想をふりまかない男の態度が。
今日も面倒な電話が多かった。ゾロは大手百貨店の渉外主任だ。買った商品の苦情、店員の接客態度に対する苦情、配達の遅れに対する苦情、ときには店内の別の客に対する苦情まで、ゾロの部署に持ち込まれる。今日なんて、迷子がなかなか見つからなかったことまでデパート側のせいにされた。それがどんなに理不尽な苦情であっても、ゾロの部署の仕事は謝ること。
最初は若い女性社員が応じるが、たいてい「上の者を出せ」ということになる。そこで出ていくのがゾロだ。そしてゾロの仕事はここで「もっと上の者を出せ」とは言わせないこと。どうあってもゾロの上司シャンクスにまで苦情を持っていってはいけない。ゾロのところでお客様にご納得いただいてご満足いただいてお帰りいただくのが肝要だ。
最初はこの仏頂面が苦情担当に向いているとは思わなかった。だが、どうやらこの仏頂面は、謝罪の時には誠意や実直や真摯という印象を与えるらしい。しかも剣道をやっていたせいで、相手から目を離さないというところが良いらしい。
それにゾロとしては精一杯愛想を振りまいて、「気持ちのよい笑顔」とやらを向けているつもりである。仕事が終わるころには顔の筋肉も神経同様疲れている。苦情をまくしたてる声を聞いてきた耳も、謝罪の言葉を述べてきた口も、しばらく休ませたい。
ここはそうした時にもってこいの場所だった。
ふうと息を吐いたゾロの前にコトリと新しいグラスが置かれた。ゾロの前にあった空のグラスと皿がいつのまにか片付けられている。
ゆっくりとグラスを持ち上げて口をつける。
美味い。口に入れた瞬間にすっとさわやかな香りが広がり、しかし喉の奥へと落ちていくときにはまろやかなコクを感じさせる。辛口の日本酒をベースにしたカクテルらしい。そう教えてくれたのは作った本人ではなく、この店を紹介してくれたエースだ。
カウンターの中の男は金髪碧眼の『外人』で、日本語をろくに知らない。ときおりカタコトで何か言うだけだ。
「サンちゃんはさー、ホントは有名フランス料理店の日本支店に勤めるシェフなんだよ。それが日本酒に興味持っちゃって、日曜日の夜だけこの店で日本酒ベースのカクテルを考えてるんだよな〜」
「じゃあ俺は試作品を飲まされるってわけか?」
「堅いこと言うなよゾロ。まあ飲んでみろって」
それが始まりだった。カクテルなんてまったく興味が無かったが、これはいける。
今では帰る方向とは反対なのに日曜にはこの店に寄っている。
◇ ◇ ◇
「ねぇねぇ最近主任ったら、日曜日は残業しないで帰るわよね」
「そう言われてみると…。いつもはシフトが早番でも遅番の上がり時間まで残ってるくせに、日曜はさっさと帰っちゃうわね」
ゾロが勤めるデパートの昼休み。売り場に出ているものは社員食堂で昼食を取るが、管理部門は隣接する複合ビルのなかにあるので、社員食堂へ行かずに会議室でお弁当を広げる女性が多い。今日も電話番の1人かとゾロを残して、渉外と外商の女性社員合計4人が会議室へ消えていった。
会議室と言ってもフロア内をパーテーションで区切っただけなので、声は結構筒抜けだ。最初のうちはこそこそ話していても話が盛り上がると自然に声は大きくなる。
「もしかしてデートだったりして」
「ええー」「うそーー」
「だって毎週日曜じゃない。彼女はOLで〜〜日曜が休みで〜〜、だから日曜は早く帰る…って感じ?」
「わ、ありうるーー!!」
「ねぇ? 私、気になってることがあるんだけど…」
「なによ?」
「日曜ってさ、宣伝部のポーラさんも早く帰るわよね?」
「えええっ。ちょっと何それ。主任とポーラさんがなんかあるって言うの?」
「ポーラさんて、紳士服売り場のダズさんと付き合ってるんじゃないの?」
「ってことは、浮気? 主任と?」
「ええええーーーーーー!!!」
噂が回るのは早い。その日の退社時間には、男性社員までもがちらちらとゾロとポーラを盗み見るようになった。
「お先に失礼します」
退社時間になるや、さっとポーラが立ち上がった。
その声にゾロがさっと顔を上げた。本人としては『お、退社時刻か』と思っただけなのだが、先入観を持って見る若手社員たちには、ゾロとポーラがアイコンタクトしたかのように見えた。
ポーラは蜂の胴のようにくびれたウェストの下にある張り出したヒップをくいくいっと振って、ピンヒールをカツカツと音立てながら去っていく。
その5分後。
「お先に失礼します」
課長に声を掛けてでていくのはロロノア主任だ。
ゾロの姿が消えたとたん、フロアは騒然となった。
それから2週間後、噂は消えるどころか尾ひれがついて広がっている。ポーラの耳にも入ったようだが、彼女はうろたえることもなくゾロに接してくる。それどころか、ゾロが独りで乗ろうとしたエレベーターに滑り込むように乗ってきた。
「主任、私たち、噂されているのご存知です?」
「あぁ」
「それなら…」
ポーラは紅いくちびるを誘うように開いて言った。
「私たち、噂どおりの仲になりません?」
ポーラがつけている香水の香りが強くなった。
「ダズとつきあっていると聞いたが…」
「えぇ」
「ほかの男とつきあっているのに、俺とつきあおうっていうのか?」
ゾロの苦虫をつぶしたような表情に、ポーラはくすくすと明るい笑い声を立てた。
「主任は本気で私とつきあおうと意気込んでくるような男じゃない思ってました。だからこそお願いしたいんですけど、しばらくでいいので、同じ時刻に退社したり、たまには私とお昼を食べにいったりしてくれません?」
ようするに噂どおりの仲になりたいわけではなく、噂どおりだと見せかけたいってことか?
「なんだ? ダズと別れたいのか?」
「逆です。ダズがちっともプロポーズしてこないの。『ぐずぐずしてるとほかの男に盗られちゃうぞ』ってアピールしたいんですよ」
艶然と微笑む表情には悪びれたところはなく、いたずらを仕掛けるときのように楽しそうだ。
ゾロは心の中で、あんぐりと口をあけた。なんとまぁ、したたかな…。
しかし、女の色気をぞんぶんに振りまいて男たちを翻弄している彼女が、自分から『結婚しましょう』と迫らずに彼氏から言いだしてくれるのを待っているというのは、可愛らしいとも思えた。
「噂をあおるつもりはない。プライベートで食事する気にはならねェな。だが仕事の相談なら乗るぞ」
次の日曜日、例によってゾロは残業をせずにさっさと帰り支度をした。
ポーラもほぼ同時刻に席を立った。ポーラはエレベーターに向かい、ゾロは階段へ向かう。足腰を鍛えるために8階までの昇り降りに階段を使っているのだ。
トントンと軽い足取りで階段を降りる。5階と6階の中間にさしかかったところで
「おいゾロ! 待てよ!」
追いかけてきたのはエースだ。
「ゾロ、なんかおまえ、噂されてんぞ」
「知ってる」
「知ってるってあの噂、本当じゃないんだろ?」
「あぁ」
「『あぁ』っておまえなぁ…略奪愛とか、寝取ったとか、さんざんに言われてんのに、なんで否定しねェんだよ」
あきれたようにエースがため息をついた。
エースは同じフロアの外商部にいる。人好きのする笑顔と確かな商品知識はどんな取引先でも好評で、もっかのところ名前のとおり外商部の「エース」だ。自分を売り込むことが会社の売り込みにもつながるとわかっているエースは常に努力を怠らないし積極的に人と関わろうとする。そんなエースから見ると、自分を売り込みもせず、今回のように自分の評判を落とすような噂を否定もしないゾロの態度は、組織の一員としてもゾロ個人としても不利益しか生まないように思えてひやひやするのだ。
「このまえなんかポーラちゃんとランチしてただろ?」
「あれは仕事の相談だ」
「そうだとしても! 渉外部の主任が宣伝部の子から仕事の相談をされるのって不自然だとみんなは思うんだよ」
ポーラは宣伝部だから新聞社やマスコミの取材を受けることも多く、デパートの制服でなくて私服でいることが多い。そのため社員食堂でないところに食事に出ることができる。だからといって別の部署の男性社員と外で食事をするのは、確かに不自然に見えるだろう。
「とにかくそろそろ飲みの席で若い子たちが『主任とポーラさんて仲いいですよね〜』とか冷やかしを言ってくるころだから、ちゃんと否定しとけよ」
ダメ出しのようにエースが言うが…。
「めんどくせぇ」
「めんどくせぇっておまえねぇ…」
ゾロとエースしかいない階段に、またエースのため息が響いた。
エースのあきれ顔を眺めながら、ゾロは思った。
(否定したって、それだけで噂が消えるわけがねぇ…)
百歩譲ってランチは仕事の相談だったと思ってくれたとしても、多分こう聞かれる。
『日曜日は主任、ポーラさんと一緒に早く帰りますよね?』
『帰る時刻が同じなだけだ』
『えー、そうなんですか? デートじゃないんですか?』
『違う』
『じゃあ、日曜はどこへ行ってらっしゃるんですか?』
自分は嘘をつくのはうまいほうではない。買い物があるとかジムに行っていると言っても、詳しく質問されたらすぐに嘘がバレてしまうだろう。といって、正直に答えたら…。
『えー、そこ、今度俺たちも連れていってくださいよ。主任が残業切り上げてまで通う店だなんて、いい店なんだろうなぁ。行ってみたいよなぁ。ぜひ教えてくださいよ!!』
多分、きっと…いや必ずそういう展開になる。
めんどくせぇ…。いや、それ以上に。
あの店を、あの空間を、あの時間を、誰にも邪魔されたくない。
あの金髪碧眼の外人(名前は忘れた)がすすめてくれる酒を楽しみ、お互い無言なのにここちよい、あのひとときを誰にも邪魔されたくない。
ただそれだけの理由で、噂を否定しないロロノア主任だった。
(了)
アンケートの結果を見ながら突発的に思いついたリーマンゾロ。
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(2013.10)