うみへ #7




人の気配がする。足音や物を上げ下げする物音やざわめき。不快なものではない。
しばらくその音を聞きながらまどろんでいたが、しだいに意識が浮上してきた。
まぶたの裏に光を感じる。自分が目覚めるのだと意識したとたん、ずきんと猛烈に頭が痛んだ。
ううっと思わずうめき声を上げ、その自分の声と頭の意識でゾロは目を覚ました

「ゾロ、気がついたか!」
自分を覗き込むつぶらな瞳が一瞬誰のものかわからない。
誰だ?と言いかけて、喉がひりついていて声が出ないことに気づいた。ゾロがあえぐように唇を動かすと、
「待ってろ」
つぶらな瞳が高い声で指示し、遠ざかったと思うや、すぐに戻ってきて、ゾロの唇の隙間に冷たいものを差し入れてきた。氷水だ。
冷たい氷が干からびた唇と熱っぽい喉を潤していく。
何度かそれを繰り返されるうちに、茫洋としていた意識が徐々に形をとり始めた。同時に、無造作に散らばっていた思考が戻ってくる。
海に広げた投網を手繰り寄せるように、ゾロは記憶と意識と思考をゆっくりと手元に呼び戻した。
「チョ…パ…」
「うん、無理してしゃべらなくてもいいぞ。ずっと点滴で、喉からは何も摂取してなかったから、まだうまく動かないだろ?」
「ここ…は、サニー号…か?」
「そうだ。安心して寝てたらいい」
「コックは?」
「まだだ」


「そうか…。だが心配無ぇ。きっとあいつはあの島にいる」




ゾロがサニー号で完全に覚醒したことで、サンジの捜索はゾロの記憶の中にある島がどこかが焦点になった。沖合から見た島の形、実際に島の中で歩いたときに感じた地形、海の色、日の出日没の太陽の位置…。
しかし問題は、それがゾロが実際に体験した記憶なのかチビサンジが出てくる白昼夢のなかの記憶なのかが曖昧なことだった。

それでもナミの海流の知識、ロビンの風土知識などを総合して割り出していくと、島はひとつに絞られてきた。しかし、その島は厄介な島だった。
島の周りに岩礁があるうえ、独特の海流が幅2キロ近く渦巻いている。島へ行くことはできても、島から戻ることは容易ではなかった。
小さめの船では簡単に渦につかまって海中に引き込まれ、海の深部で島の方向へ押し戻されてしまう。
大きな船ではどうかと言えば、そもそも島へ近づくことができない。島へ近づくと、島方向へ流れる急流につかまって、一気に岩礁に乗り上げて大破してしまうからだ。
サニー号では近づけない。ミニメリーでは動力が問題だ。岩礁に海藻がびっしり生えているため、モーターに絡んでしまう。

戻れるとしたら半年に一度、泳ぐか手漕ぎボートだと隣の島の人たちは言う。
その日の干潮時には、海流の流れがほんの少し弱くなる。とはいえ流れが複雑なのは変わらないので、操船がかなり達者であることが必要だ。
操船に不安があるなら泳ぐほうがまだいいらしいが、その場合は数時間泳ぎ続ける体力が要求される。

「半年に一度って、次はいつ?」
「先日そのタイミングが過ぎたばかりだから、次は半年後だよ、オレンジ髪のお嬢ちゃん」

そんな島に本当にサンジが居るのか?
もし居たとして、これから半年、彼を島に残して大丈夫なのか?
最後に島から戻ってきた者の記録は50年近く前のもので、今の状況は判断できない。
「島の中には木の実や果物があったぞ」
「それ、あんたが見た夢の話でしょ?」
「でもナミ、木が茂っていることはこちらからも見えるし、鳥が飛んでいくのも見えるぞ。なんとかなるんじゃねぇか、サンジなら」ウソップが双眼鏡を覗きながら言う。
「こっちから島へだどりつけるんなら食料を流せばいいじゃねぇか。俺様が渦にも耐えうるスーパーな樽を作ってやるぜ」
「誰か他の人が住んでいて、奪われたりしないかな?」
「クソコックなら取り返すだろ?」
「あんたたち!」 バンとテーブルを叩いてナミが尖った声を出す。
「食料とか、誰かがいて争いになるかもとかいうことを心配してるんじゃないのよ。サンジくんが無事なのか、負傷していないのか、ちゃんと動けるのかを心配してるのよ! 木や鳥じゃなくて、人影は見えないの?」

日ごろいいようにサンジを使いたおしているナミが、実は一番心配していることを皆わかっているから苛立ちを隠さない彼女を誰も責めはしない。
「薬も樽に入れよう」チョッパーがなだめるように言う。
「ゾロを助けた時みたいに意識不明だったら?」
ナミの震えた声にルフィが言い切った。
「大丈夫だ。ゾロが一緒に飯食ったって言ってるだろ、サンジは大丈夫だ」
「それってゾロの夢じゃない」
「夢じゃねぇよなゾロ! サンジはあそこに居る。大丈夫だ」
ルフィが胸を張って言い切ったのなら、もうそれを信じるしかない。

結局、樽の中に米や豆など日持ちがするものを厳重に包んで海に流すことにした。
チョッパーは薬を、ウソップは火おこしのための火薬星を一緒に居れた。
ルフィが『半年後の干潮時にまた来る。その時に会おう』と吹き込んだトーンダイヤルも入れた。
日付が数えられるように最新のかもめ新聞と暦も入れた。

島にいるのはサンジじゃないかもしれない。サンジは別のところに居るのかもしれない。
それでもその時にできる精一杯をした。
狼煙で連絡を取る案も上がったが、結局それはやめた。こちらの動きを海軍に悟られて、もしかしたら負傷しているかもしれないサンジを捕らえに行かれてはたまらないからだ。

樽を流して約1週間後、双眼鏡を覗いていたウソップが歓声をあげた。
島の端に今まで生えていなかった植物が大きく育っているのが見えたのだ。ロビンの提案で樽に入れたウソップの緑星の草だ。それの意図を理解して合図を寄越したのだから、島にいるのはサンジに間違いないだろう。








半年後…。
サニー号はエターナルポースでサンジがいるはずの島の海域まで戻ってきた。

「あんた、心配無いとか言っておいて、一番そわそわしてるじゃないの」
「うるせぇ。行ったら戻ってこれない島だとは思わなかったんだよ!」
「正しくは『サンジほど泳ぎが達者な人間でも半年に一度しか戻ってこれない島』ね」
「でもロビン、そのサンジくんが半年前のタイミングで戻ってこなかったのは、やっぱり…」
「そうね、やっぱり、刀があるから慎重になったんだと思うわ」
「バカじゃねぇのか? 刀のためにみすみす戻れるタイミングを逃すなんて」
「はいはいゾロ。つまり形見の白鞘の刀よりサンジくんのほうが大切ってことね」
「そういうこと言ってんじゃねぇ! アイツはバカだって言ってんだよ!!」
「はいはいはい」
「あ、見えたわよ、バナナボート!」
ゾロの刀を携えているから、サンジは泳いで渦を乗り越えようとするのはためらうだろうという女性陣の判断で、5日前にバナナボートとオールが出る緑星を樽に入れて流しておいたのだ。



そして。

サンジは無事サニー号に戻ってきた。
チョッパーがすぐに身体をチェックしたが、大きな問題はない。タンパク質摂取量が低かったくらいだ。
「イモムシは高たんぱくなんだぞ」というチョッパーの助言はこれからもあまり生かされることはないだろう。




ようやくサンジのめしが食える!と騒ぐ船長をナミやロビン、ブルックなどが押しとどめてくれたので、サンジはゆっくりと風呂に入って休むことになった。
島でも川で行水ができたらしいが、それは綺麗好きなサンジにとって不潔にならないようにするためのもので、温かいお湯に浸かるのとは意味が違う。
久しぶりに熱い風呂で長風呂をして火照った身体を冷まそうと展望台へ上ると、ゾロが追うように上がってきた。

しっとりと濡れた金髪を見つめてゾロが言う。
「おまえ、髪伸びたな」
サンジは軽口で返した。
「当たり前だろ。てめェとバラバラになったのは3月、今は11月、8か月も経ってんだぜ。髪も伸びるさ。ナイフは持っていたが、刃をできるだけ持たせたかったから、切らなくていいもんは切らなかった。髪は明日、ウソップに切ってもらうさ」
「ふーん、切っちまうのか」
「明日からまたルフィの大食いに張り合って料理するには邪魔だからな」




髪が伸びた――それは、見たまんまをただ言っているのではない。離れていた時間の長さのことをゾロは言っているのだ。サンジにはわかっていた。
島での話題はほどほどにしたいと軽口で返したが、ゾロは話題を変えるつもりはなさそうだ。
サンジが8ヶ月ぶりの煙草を味わうのを待ってから話を再開してきた。
「あれはなんだったんだろうな」

「あれって?」
「ちっこいコック。あれからまったく夢に見ない」

「てめェが俺のことを気にかけてたから夢に見ただけじゃね? 俺が現実にちゃんと生きてるってわかったからもう夢に出てこなかったんだろ」
「俺はおまえの小さい頃の顔なんて知らねェし、あれは俺の脳が作り出したもんじゃねぇ。俺が希望した姿ならば、大人のおまえだったはずだ。第一、俺が作り出したんなら眉が巻いてるはずだ」
「てめェにとっての俺の重要要素は眉かよ」

「眉は巻いていなくても、あれはおまえそのものだった。あれからまったく見てねぇが鮮明に覚えている。意地っ張りで怒りっぽくて自分勝手で、でも大胆で、菓子じゃなくて腹を満たすものを作りたいって思っていて、腹が減っているものを見過ごせなくて…。眉は巻いていなくても、おまえだった。だがなぜ大人のおまえじゃなくて、ちっこいおまえが現れたんだろうな」

それにはサンジは心当たりがあった。だがゾロに教えるつもりはない。

あの島にはゾロが白昼夢で見たとおり古い館(やかた)があり、殺戮の跡があり、館のあちこちに白骨が散乱していた。そして館の片隅に施錠された倉庫があった。
風化した鍵は簡単に壊せたが、中にはうずくまった子どもの骨があった。閉じ込められたのか、殺戮の手が伸びないようにいったん匿われたのかはわからない。だがきっと、あの閉じた空間で亡くなった子供の、ここから出たいという残存思念と島から出ようとする自分の意志、さらに子どもの境遇と自分の生い立ちが同調したのだ。
そんなことをゾロに伝える必要はない。



「まぁいい。理由はどうであれ、俺はちっこいコックに会えた」
黙りこくったサンジの髪をゾロは撫でた。明日切ってしまうという髪を。惜しむように。
いや、8ヶ月ぶりの髪の手触りを味わうように。その存在を確認するかのように。

「あのな、今度俺が刀を落としたらな、放っておいていいから。拾いに行くな」

「バカだなぁ、てめェは…。刀が無かったら、てめェはヘナチョコだぞ」
サンジは、髪を撫でるゾロの手に自分の手を重ね、その剣だこを確かめながら、うっとりとつぶやいた。



(了)


Happy Birthday、サンジ! Happy Birthday、ゾロ!
大きな出来事があるわけではないのですが、ふたりの心の機微を書きたくなって思いつきました。楽しんでいただけたなら嬉しいです(web拍手)
(2023.03〜2023.11)