修羅の贄 #12
離れはかつてない緊張感に包まれた。
女官のひとりが卒倒する。これから起こるだろう血なまぐさい事態と緊張に耐え切れなかったのだ。
残る者たちは息を殺して、サンジの淫嚢に刃を当てたまま動かないロロノアを見つめる。
緊張の中、ロロノアの額にふつふつと汗の玉が浮かんだ。
『どうするのだ、ロロノアよ』
先ほどから心の中で何度も繰り返した問いを、心がまたロロノアに問う。
サンジが抵抗しない。
上体をギンに預け、布を噛み、男の証を失う瞬間をじっと待っている。受け入れる覚悟なのだ。
どんな顔で「その瞬間」を待っているのか。
悲愴な表情をしているのか、自分を恨みがましく見ているのか。
ロロノアは見上げることができずに、ただ手元を見つめる。
左手にはサンジの淫嚢が乗っている。
その袋の内側に玉がある。うずらの卵より少し大きい。
ロロノアはその形を指先でなぞった。
これを取り出せば、名実ともに男ではなくなるのだ。
奪うか否かは文字通り、俺の手の内だ…。
この刃を立てて手前に引けば、皮が切れる…。
そして袋から玉を取り出す…。
それだけのことだ。執刀医のように淡々と行えばいい。
そう思うのに、一連の行為を頭の中でなぞると、額だけでなく、全身から汗が噴出した。
ロロノアの手のひらも例外でなない。
じわりと汗に濡れ始める。
マズイ、と思うより早く、握っていた小刀がずるっと滑った。
握り返すよりも早く、刃先がぷつりと薄い皮を突き破った。
ロロノアはとっさに小刀を引き上げた。
錐(きり)でついたような小さな傷から血が染み出す。
幸い、縛って血の流れを止めていたのが堰となり、出血は少量だ。
安堵して、ほっと息を吐き出した瞬間、ロロノアは理解した。
これが自分の本心なのだ。
斬ることを厭わずに闘ってきた自分が、たかだか1寸の傷もつけられない。
本当に憎んでいるならば、復讐を遂げたいのならば、もっと残虐になれる筈だ。
玉を取るだけでは収まらず、そのみじめな姿を市中に引き回すだろう。
「女」となったその身を嗜虐趣味の客が多い女郎屋にでも放り込んで、昼夜犯される苦界に突き落とすだろう。
これがベラミーならそうしていたかもしれぬ。
だが、この男にはそれが出来ぬ。
ロロノアは再び小刀をサンジの淫嚢に近づけた。
それがいよいよ突き立てられるのだと誰もが思った瞬間、淫嚢に回された縄がぶつりと切れた。
その感触に、サンジは背けていた顔を戻して、問うようにロロノアを見つめる。
「やめだ。何をしても、こいつ自身が変わるわけじゃねェ」
玉を取っても、去勢しても、サンジが女性や故郷のために命を賭けるのは変わらぬだろう。
たとえ男のものを取られた惨めな姿を民衆に曝してやると言ったとしても、それで玻璃が救われるのなら構わぬとこいつは言うだろう。
そんな莫迦だから、俺は守ろうとしてきたんだ。
二度との落城に翻弄され、それでも自国と海守を守ろうとし、誰をも恨むななどと言う莫迦を俺は守りたいのだ。
サンジの手足を戒めている縄を切ってやりながら、ロロノアは潔く自分の心を認めた。
女に仕立てようとしたのも、酷く扱ったのも、そうすればサンジを生かしておけると思ったからだ。
本物の女にしたいわけではない。
玉を取ると、男の欲が無くなり、身体は変化すると聞く。
淫茎は次第に小さくなる。完全になくなるわけではないが、勃起は滅多にしなくなる。
男の源を失った身体は丸みを帯びて柔らかくなり、髭や体毛は薄くなる。
そんなサンジが欲しいわけではない。
欲しい?
あぁ、そうだ。俺はこいつが欲しいのだ。
初めて会った時から、欲しかったのだ。
ロロノアは、いまだ緊張から解放されていないように布を固く噛んだままのサンジの口元をこじ開ける。
「怖がらせたな、悪かった…」
唾液で湿った布を取り去って、温度を失っている唇を吸う。
事態の展開についていけないのかサンジは硬直したままだ。
擦れて血が滲んだ口元を舐めると、しみたのだろう、ようやくサンジがぴくっと反応した。
「なんで…?」
掠れた声でサンジが問うた。
蒼い目が戸惑いに揺らめき、白い喉仏が落ち着きを失ってあえぐように上下する。
混乱しているサンジをロロノアは思わず抱きしめようとした。
が…
「ロロノア殿!」
ドタドタと騒々しい音とともに家臣らの声がした。
「そこにおられますのか? シャルリア様がこの嵐を不安がって、しきりと殿をお呼びです。火急にシャルリア様のもとへお出向きください!」
襖の向こう、控えの間から差し迫った声がする。
「うるせェ! 邪魔するな! 今すぐ去れ!」
ロロノアはこの突然の声に腹を立てて言い返した。
手の中のこの男が愛しいと、今、自分の心を認めたところなのだ。
この大事な瞬間を邪魔されたくない。
だが。
「殿、シャルリア様をないがしろにしては国の大事に関わります。失礼つかまつる!」
言葉が終わるや、さっと襖が引かれ…。
家臣らは目の前の光景に息を呑んだ。
無理も無い。
今、ロロノアは、下肢を露にしたサンジに圧し掛かっている体勢なのだ。
一瞬たじろいだ家臣らだったが、さすがに一国の重役たち、退く気配は無かった。
「殿、シャルリア様は大事な賓客ですぞ! しかもただいま少々感情的になっておられ、取り乱していらっしゃいます。あの方の気を静めることができるのは殿しかおりません」
それでも動こうとしないロロノアを促したのはサンジだった。
「てめェ、何してやがる。さっさと姫君のところへ行け!」
小声で囁くのは、城主の権威が損なわれないようにという配慮からなのか。
いつもなら蹴りが飛んできそうなのに、ロロノアの身体はサンジの手でやんわりと引きはがされた。
身体と身体の間にできたわずかな隙間を、これほど残念に思ったことは無かった。
だが名残惜しんでいる暇さえなく、ロロノアは家臣たちに取り囲まれるようにして離れを後にした。
「国主とは、かくも不自由であるものか…」
ロロノアは不機嫌を隠そうともせずそう言った。
あのあとロロノアは急き立てられるようにしてシャルリアの元へ向かわされた。
それから1週間、ロロノアの傍には3〜4人の従者が片時も離れずにいる。
昼は御殿の執務についてまわり、それが終わると半ば強引にシャルリアの座敷へ連れて行かれる。厠にまでついてくる。
ロロノアがシャルリアの座敷から逃亡して離れへ行かぬよう見張っているのだ。
今迄、ロロノアはもっと自由だった。
サンジを捕らえてからも、離れに自由に出向いてあの身体を組み敷いて啼かせることもできた。
離れにいるのはロビンだと思われていたせいもあるし、そうでなかったとしてもロロノアのやることに鷹揚だった。
それが、シャルリアが来たとたんに一変した。
「ここが霜月国の正念場ですぞ」
何度もそう言い、ロロノアの行動を規制しようとする。
ロロノアとて霜月国を豊かにしたい気持ちは大いにある。
シャルリアの好意は殿上人という大きな後ろ盾を得る絶好の機会だとわかってもいる。
だが、質素ながら堅実に小国に生きることに充足していたはずの家臣や親類縁者たちが、突然訪れた大きな好機に目が眩んでいるように思えてならない。
彼らはシャルリアにへつらい、一方でロロノアの気持ちが一向にシャルリアに傾かないのを憂慮している。
なんとかこの機会に殿上人との繋がりを深めておこうとする彼らは、時期を計ったように届いたチャルロス卿からの手紙に飛びついた。
チャルロス卿が9月の重陽の節句の茶会のため、『橘』を貸し出せと言ってきたのだ。
この茶会は豪華なことで有名だった。どれだけ素晴らしい茶器を手に入れたか、どれだけ優れた茶人を点前の亭主に招いたかを競う合うかのように、殿上人の各家が立派な茶席を設ける。
今回チャルロス卿は渡来の茶器を手に入れたらしい。ゆえに渡来品についても明るい『橘』を借りたいと言うのだ。
「これを逃す手はありません。恩を売っておくべきです」
ばかな、と思う。
殿上人がこれを恩になぞ感じるものか。
チャルロス卿から来た手紙は用意周到だ。
おおかた『鳩』の入れ知恵だろうが、こちらはなんの準備もしなくていいとある。
滞在中のお召し物も履物も往復にかかるすべてもチャルロス卿が用意するので身ひとつで安心して寄越してよいとまで書いてある。
断る理由になりうるものをことごとく押さえ込んできている。
奴らは自分の言い分を通して当然だと思っているのだ。
「そうだとしても、彼らのご機嫌を損ねては、わが国にとって得策ではありませぬ。どんな報復があるやもしれませぬぞ」
そんなことはわかっている。だが、あんな醜悪な性具をよこした男にサンジを差し出せるはずもない。
しかし、そんないきさつを知らぬ家臣たちはロロノアが拒絶する理由がわからない。
「殿が嫌がる理由はなんなのです。まさか、あの黒足に情が移ったとでも仰るわけではありませぬな?」
ついに、気になってはいても口にしてはならぬと皆が思っていたことを、家臣のひとりが口にした。
ロロノアは考えた。
そうだと答えたら、どうなる?
情が移ったというより、初めからアレが気になっていたのだと言ったら、どうなる?
俺を責めるだろうか。
サンジが女だったら事態はもっと簡単だったが女ではない。絶たねばならぬ血筋の男だ。
そんな男に懸想した国主など、国主と認めぬと言うだろうか、言うだろうな…。
国の存続のための国主である。決して絶対権力者ではない。
国主にふさわしくない言動があれば、彼らは『お国のために』ロロノアを排斥するだろう。
そうなったらサンジを生かしてきた権力も失う。
たとえ国主の座を追われなくても、国主をたぶらかしたとしてサンジが責められるのは必至だ。
どちらに転んでも、チャルロスの申し出を受けない限り、サンジの命は危うい。
「殿、ご決断を」
ギリ…とロロノアは歯を食いしばった。 苦渋の決断だった。
半年以上も自分の心を偽ってサンジに接してきた。そのせいで随分と辛い思いもさせた。
もう偽らないと決めたとたんに、手放さなければならないとは、なんと皮肉なことだろう。
ロロノアの決断は、「殿の気が変わらぬうちに」すぐさま離れに伝えられた。
「黒足殿に折り入って頼みがあって参りました」
自分を「黒足殿」と呼ぶ男をサンジは胡散臭げに見た。
この城での自分の扱いがどんなものであるか知っているだろうに…。
げんに今でさえ、サンジの衣装は女ものの小袖だ。
「黒足殿」と呼ぶのは皮肉だろうか。
「京へ行ってはくださらぬか」
「は?」
「チャルロス殿より、貴方様の点前を望む文が届いております」
「ロロノアは知っているのか」
「無論」
「それで、俺に京へ行けと?」
「はい」
「ならば、頼みでもなんでもないだろうが。ロロノアの命令を伝えにきただけだろう。それとも俺に断る自由があるというのか」
「いえ。ただ、我が殿が貴方様になかなかにご執心でありましたので…」
サンジの頬がピクッと引き攣った。
なんだそれは。
つまり、慰め役ご苦労様でしたとでも言いたいのか。
「きさま、やっぱり伝令と一緒に皮肉を言いにきたのか! それとも嘲笑いに来たのか! あぁ、おもしろかろうよ。自死を阻まれ、女ものの服を着せられて、気まぐれに弄ばれる。そのお遊びもそろそろ飽きるってもんさ。あぁ、気まぐれじゃなくて復讐だったな。成果は上々だぜ。姉上を殺した北海の人間を好きなように組み敷いて、辱めて、この上、あの胸糞悪い殿上人にくれてやるんだもんな!」
サンジは一気にまくしたてた。
ロロノアへの文句というより、どうせこの男は俺のことをそう思ってるんだろ、という怒りが口をついて出た。
それでも精一杯努力をして、蹴りを出さぬよう努めたほうだ。
だが屈辱と怒りに打ち震えたサンジを男は懐かしむように見た。
「こんな扱いを受けているというのに、ほんに、お変わりないな、黒足殿は…。我が殿の関心が離れぬのはそういうことか」
じっと自分を見つめる顔を見るうち、はたと思い当たった。
この男、見たことがある。
北海の海岸で初めてロロノアに会った時も、ロロノアが玻璃の城を尋ねてきた時も、この男がいた。
ということは、自分とロロノアの間になんの確執も無かったころを知っているということか。
『橘』と呼ばずに『黒足殿』と呼んでしまうのは、皮肉でもなんでもなく、そのせいか…。
「殿にはもはや貴方様への恨みはありますまい。だが、かえってそれが厄介なのです。黒足殿がいると、我が殿とシャルリア様の間に不要な諍いが起き…」
「いい。それ以上言うな」
サンジはさえぎった。
シャルリアとロロノアが結ばれてほしいと思うのは、霜月全土の願いだろう。
自分がそのために邪魔なのもよくわかる。
「で、出立はいつだ」
「2日後にございます」
「そんな急な!」
声を荒げたのは傍らに控えていたロビンとギンだった。
だが、サンジは冷静だった。
「そうだろうな。でなくちゃ、節句に間に合わねェ」
「それと、チャルロス卿から、茶会に誰を亭主に立てるかはできるだけ内密にしたいとのご要望がありまして…」
「つまりできるだけ少人数でこっそりと来いというわけだな」
「はい」
途中の峠で『鳩』が出迎える予定だという。霜月城の護衛がついてくるのはその峠までだ。
サンジに最後まで付き添うのは、ギンだけということになった。
出立の前の晩、ロロノアが離れを訪れた。
が、一の広間に入る襖はつっかい棒でもしてあるのか、動かない。
力任せに引き開けようとしたら「入ってくるな」と制される。
「おまえに言いたいことがある。ここを開けろ」
「俺には無ェ。茶会の話なら聞いた」
「…すまねェ」
「何を謝ってんだ。謝る必要なんか無ェだろ。俺はてめェの『憎き仇』だ。煮るなり焼くなり『貸し出す』なり、どう扱おうとてめェの自由だ」
「自由なんかじゃ無ェ。仇討ちというもっともらしい理由を作らねェとおまえを生かすこともできねェし、『貸し出し』たく無ェのにおまえを行かせなければなんねェ」
「ろくでもねェこと言ってんじゃねェよ」
トンと襖が揺れた。
サンジが襖に寄りかかった気配がする。
「てめェは正直すぎるよ…。褒めてねェぞ、この乱世に正直だなんて、愚かと同義語だ。ましてやてめェは国主だろう。もっとしたたかに、もっと非情になれ。殺さなくちゃなんねェ男を生かしてんじゃねェ。生かして嬲るつもりなら、もっと徹底的に嬲れ。殿上人が欲しがるなら、ここぞとばかりに恩着せがましく献上してやれ」
「俺はおまえをあんな偏執的な野郎にやりたくねェ」
「だから、正直に言うなって言ってるだろ。誰が聞いてるとも知れねェのに」
部屋の内側でふぅと呆れたように息を吐きながら、襖に寄りかかったままずるずると腰を降ろす気配がする。
ロロノアも襖の外側で腰を降ろし、寄りかかった。
襖を挟んだ背中越しに相手の息遣いが聞こえないかと、ロロノアは耳をそばだてた。
しばらくの沈黙のあと、内側から声がした。
「なぁ、そっから月は見えるか」
「あぁ。少し雲がかかっているが、悪くねェ景色だ。出てこいよ」
「いいんだ。月に背いて月を見る…」
「なんだそれ」
「とらわれ過ぎていては見えないこともあるってことだ」
「俺へのあてつけか」
「そうじゃねェ。俺は玻璃から離れて、俺にとってどれだけ玻璃の存在が大きいか、あらためて気づいた。俺が殿上人のもとに行くのが、この国のため、引いては玻璃の安泰に繋がるのなら、俺は迷わず行くさ」
あぁ、そうさ。
あの海とあの国を壊さぬためなら、どんなおべんちゃらもどんな嘘もついてみせる。
必要ならば女にでも道具にでもなる。
「だからてめェもきちんと切り捨てろ。この霜月国と自分のことだけを考えろ。てめェとてめェの国が安泰なら、玻璃も安泰だ。だからゾロ、約束しろよ。俺の命よりも俺の面目よりも、なにより霜月国の安泰を優先させると」
ロロノアは月を見上げた。
月に背いて月を見る…。
おまえが大切なら、おまえでなくこの国を見ろと言うのか。
「なぁ、約束してくれ。てめェが俺のためを思ってくれるなら…」
「わかった、約束する。おまえのために、俺はこの霜月を優先しよう。それでいいんだな」
そう言いながら、ロロノアの心は晴れなかった。
権力にも広大な領土にも、いままで大した興味は無かったが、今はそれが欲しい。
地位が欲しい。
国力が欲しい。
自分と自分の国の非力さを、これほど悔やんだことはなかった。
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