5日前に来て7日後に去った男 vol.1/2

恋川珠珠


※TEXTコーナーでも同じSSを掲載しています


風が強い日だった。森の木々はざわざわ揺れ、色付き始めた葉がきりもむように舞う。
丘に点在する幾つかのコテージの屋根では、風見鶏が勢いよく回転している。
外壁に立てかけられて出しっぱなしの竹ぼうきがガタンと音を立てて倒れ、地面を覆う草は一様に風下に向かって身体を傾けている。
なだらかな丘を下った先には海岸線に沿って街並みが広がっていた。
風は街の中をも騒がせ、パン屋や靴屋の看板を揺らしながら吹き抜ける。
海には白波が立っていた。

隣の春島からの貨物船が波に揺られながら入ってきた。
冬島のこの島と隣の春島では野菜や果物の収穫期がずれる。それを利用して二つの島は収穫物を交換し合ってきた。
港で船倉をからっぽにした船は、冬島で収穫期を迎えた作物や毛皮やニット製品を積んで、春島へ帰っていく。

貨物船が桟橋につくと、港が瞬く間に市場の様相を表した。
売り買いの呼び込みや値下げ交渉をする声など、どれもが陽気で活気に満ち、市を楽しむことに夢中だった。
売るでもなく買うでもない見知らぬ男がいることに皆が気づかなかったのはそのせいだ。2~3人、気づいた者があったが彼らも大した注意を払わなかった。
男はフードのついた薄いマントのような布をすっぽりと被り、足元には渡りの者であるとわかる頑丈な靴を履いていた。
縦長のズタ袋をひとつ担いで男は丘のほうへ続く道を歩いていく。

すれ違った者たちは、立ち止まったり振り向いたりして男の行く先を見つめたが、とりたてて警戒するわけでもなかった。
海軍からも海賊からも中立を保つこの島では昔から、よそ者が長逗留することが珍しくない。湿気が少ない夏は避暑地として人気があり、冬であっても海に近い丘ではマイナス10℃程度だから、山深くに入りこまなければ大したことはない。
裕福な人々だけでなく、身体や心を休ませたい人や冬島特有の四季折々を楽しみたい人など、それぞれの理由で様々な人々がこの島に逗留していた。丘のコテージはそうした人々に貸し出されている。

島にやってくるよそ者は滞在客だけではない。滞在客をあてにした物売りやコテージの修理人、ことに冬支度が始まった今は、暖炉や煙突を修理する者が多くやってきた。
彼らは丈の長いブラシを持っている。フードを被った男が担いでいた縦長のズタ袋は、まさに長いブラシが入っているような格好だった。
それゆえ男は、誰かに見とがめられることもすれ違った人々の記憶に残ることもなく、この島に上陸した。



丘への坂道がやや狭くなったところで男と出会ったリクも、よそ者が来たなと思っただけで格別気にせずすれ違った。
リクは道を譲るように脇へ避けた。坂を上る者に下る者が道を譲る…それはリクのような十歳の子供でも知っている島のルールだ。
すれ違いざまに男が会釈をした。それで、関心の無かった男の顔をリクは反射的に見た。
フードの奥の目は見えなかったが、すっきりと通った鼻筋と口元が見える。頬には傷の痕がある。
その傷の古さと口元のしわで大よその年齢が知れた。おそらくリクの父親より年上で、祖父よりは若い。
リクは会釈を返すとさっさと坂を下り始めた。背中のかごの中にあるグミの実は傷みが早い。早く家に届けたかった。

男とすれ違って数メートル下ったところで坂下から風が吹き上げた。
風はリクの右頬を撫で上げ、ベージュ色の鳥打帽をふわりと浮かせた。
とっさに手を伸ばしたが、その手をすり抜けて帽子が舞い上がる。
まずい、今年兄ちゃんから譲ってもらったばかりの帽子なのに…。
追いかけようとしたリクの視界に突然男が割って入った。
男は軽々と跳躍し、すばやくリクの帽子を掴んだ。
その動きにリクは目を見張った。自分の父親より年寄りだと思ったのは間違いだったのだろうか。
それほど男の跳躍は力強くしなやかだった。
着地の瞬間フードがはずれた。現れた草色の髪はやはり男がよそ者であることを物語る。
男はリクに帽子を手渡すと何事も無かったようにまた坂を上っていった。



リクが男のことを思い出したのは、それから5日ほどたった日曜日の午前中のことだ。
「リク、デニスの店にいつものパンを届けてくれ」
父親のトーレに頼まれて、リクは籐かごに白パンと黒パンを詰めた。
リクの家はパン屋だ。父親のトーレは鍛冶屋の息子だったのに、どういうわけかパン職人になり、鍛冶屋はトーレの弟が継いでいる。
パンの焼ける香ばしい薫りは大好きだが、時々、どうして父さんは鍛冶屋にならなかったのだろうとリクは思う。祖父の仕事場に行って祖父と叔父とが鋼を叩いている様子を見ると、パン屋より鍛冶屋のほうがずっと勇ましくて格好よく見えるからだ。

「おい、白パン4斤に黒パン8斤だぞ。間違えてるぞ」
父親に言われてはっとした。ぼんやりして白パンを多く詰めている。
慌てて詰め替えていると「トーレ、居るか?」という声と同時にドアが開いた。
よく通る声を一層張り上げて入ってきたのはトーレの親友で牧場主のオクトだ。毎日牛を追って声を出しているからか、人と話すときも声が大きい。
「突然だが今晩、青年会の寄合だそうだ。公会堂に7時だとさ」
「何かあったのか?」
急な呼び出しにトーレは表情を硬くしてたずねた。
青年会というのは島の自治団に所属する20歳~45歳までの者たちで構成される会だ。祝祭時の力仕事が一番の腕の見せ所だが、防災や警備も交替で行っている。むやみに海軍に頼ると、この島の中立性が脅かされるからだ。
祭りでもないのに急に寄合が開かれるとなると良い予感はしない。

「森に入ってすぐのところにあるコテージに、どうやら侵入者がいるらしい」
「傷みがひどくて貸し出さないことにした小屋か?」
「そうだ」
「だからってなんで寄合を? 使用するなら手続き踏んでくれって言えばいいことだろう?」
「俺も話に聞いただけだからはっきり知らんのだが、どうも剣を持った流れ者らしくてな…。が、そういうことなら小屋の主人だけに任せるのは危険だろ? 多分今夜の寄合で、青年会の連中皆で小屋に行ったらどうかって提案がされるんだと思う」

流れ者?
会話を聞いていたリクの脳裏にふと、丘へ続く坂道で出会った男の姿が浮かんだ。
森の入口にある小屋は貸しコテージの中ではかなり古い小屋のひとつだ。夏の嵐の時に屋根板の一部が壊れて雨漏りがするようになった。それで家主は今年は貸し出しを諦めて暖炉の掃除もしていない。
あの小屋で寝起きするんじゃ寒いだろうなとリクはデニスの店へ行く道すがら思った。食べ物はどうしているんだろうか――。

「ねぇおじさん、それ捨てちゃうの?」
デニスの店に、昨日届けたパンが余っているのを見てリクは聞いた。夜は酒場となるデニスの店は昼のランチのための仕込みに入っていた。
「いや捨てないよ。クルトンにすればスープやサラダに使えるからな」
「黒パンの残りも?」
「黒パンはクヴァス(発酵発泡酒)にするさ」
「ふーん」
そこでデニスはリクががっかりしているのに気付いた。
「どうした? 腹減ってんのか? 黒パンの残りで良かったら食えよ。パン屋の息子にパンの残り物をやるってのも変な話だけどな」

わはははと大口で笑うデニスにお礼を言ってリクは昨日の黒パンをもらって駆け出した。行く先は森の入り口にある小屋だ。
風に飛ばされたリクの帽子を取ってくれたあの男は、大人が心配しているような危険人物には思えなかった。
大人たちが話している人物がリクが出会った男かどうかはわからないのに、リクの心の中では古小屋にいるのはあの男ということで確定していた。

男とすれ違った坂をのぼり、丘の中腹へ上がると貸しコテージが点々と現れてくる。
『貸し』コテージと言っても島のコテージはいずれも3週間以上の滞在でなければ借りられないから、自分の家のように大事に使う人が多い。
耐寒性のあるゼラニウムと豪華なリースで窓辺や扉を飾っているコテージを右手に、丘の下の街を左手に見下ろすような具合でリクは坂を上っていった。
気持ちが逸って自然と急ぎ足になる。

白樺がぽつぽつと見え始めて森の入口にやってきた。
木陰になった道はところどころ今朝の霜が残っていてザクザクと音を立てる。
木漏れ日を抜けたところに古小屋が立っていた。人の気配は感じられない。
この小屋じゃなかったのかなと思いながらリクはブリキの郵便ポストの前を通って小屋に近づいた。
ウッドデッキの戸がわずかに開いているのを見つけてそっと中を覗いてみる。
出窓から差し込む光で中の様子がおぼろげに見えた。誰もいない。

膨れていた高揚感が一瞬でしぼんだ。なんだ、いないのか…。
肩を落として振り向いた瞬間、リクは手から黒パンを取り落し、尻もちをついた。
目の前に、男がいた。背後に近づかれていたなんて全く気付かなかった。

「大丈夫か?」
男の差し出した手にすがりながら、リクはどうにか立ち上がった。
それからきょろきょろと足元を見まわした。
「どうした?」
と男が聞く。
「パンが無い…」
「あぁ転がったな」
男は笑って、デッキの端まで転がった黒パン半斤を拾い、リクに差し出した。
リクは真っ赤になった。この男にあげようと思って持ってきたのに、取り落として、それを当の本人に拾われるとは。しかもそのパンは砂と土で汚れてしまった。
恥ずかしさと気まずさとやりきれなさとでリクはうつむいた。

「そのパン、弁当だったのか?」
と突然男が聞いた。
「え?」
男が言った意味がわからなかった。返事に窮していると。
「この前、グミの実が入ったかごを背負ってたろ? だから今日もまた木の実でも集めに来たのかと思ってよ。そんでパンを弁当に持ってきたんじゃねェのか?」
「違う。これはその…おじさんにあげようかと思って…」
リクがそう言うと男は目をまん丸く開いた。
「俺に?」
「うん。でも…土がいっぱい付いちゃったから要らないよね」
「そんなことねェ。パンに付いた土なんて払えば取れるじゃねェか。俺は昔、土だらけの握り飯食ったことあるぞ」
男はリクに向かって手を差し出した。大きくて分厚くてごつごつとした手だった。
こういう手をリクは知っている。毎日斧を握っている木こりのケビンの手がこういう手だった。



学校が終わって家へ帰ってきたリクは、学校のカバンを放り出していつものベ―ジュの鳥打帽をかぶった。
そして布カバンに売れ残りの黒パンをすばやく入れて家を出ようとした。
「どこ行くの?」
という母親の声にリクは跳ね上がった。
「ティムと遊んでくる」
とっさにそう言って家を飛び出した。
丘の坂を目指して走りながらリクの心臓はドキドキと飛び跳ねていた。
胸の鼓動が平常に戻ってくるとリクはカバンの上からパンを抑えながら思った。
『今日はゾロ、いるかな?』

古小屋に男を訪ねたのは日曜日。今日は金曜だが、日曜以降、学校から帰ると毎日古小屋に行っている。
男は小屋にいたりいなかったりした。
リクが古小屋へ初めていった翌日の月曜日、子供たちが学校に行っている間に青年会のメンバーは揃って古小屋を訪れたらしい。
だが小屋には誰もいなかったと父親が母親に言っているのをリクは聞いた。
「小屋の菜園の隅に焚火の跡があったが、誰もいなかったし荒らした様子も無かった。もう発ったのかもしれん」
それでリクは慌てて小屋に行ったところ、父親の言うとおり小屋には誰もいなかった。
リクは売れ残りの黒パンをデッキに置いて帰った。

翌火曜日にも行ってみたがやはり誰もいなかった。前日に置いていった黒パンはデッキにそのまま残っていた。
ここへ来た証拠を残すかのように持ってきた黒パンを置いた。
二つ並んだ黒パンに背をむけながら、父親の言うとおり、あのおじさんはもうどこかへ行ってしまったのだなと思いながら家路についた。

その晩は雨が降った。
あの小屋は雨漏りするし、これは益々あの小屋にいる可能性は無いなぁと思うのに諦めきれずに翌水曜日もリクの足は小屋へ向いた。
すると予想を裏切って、男がいた。
「パン、ありがとな! 助かったぜ」
リクに気づいた瞬間、男は真っ白い歯を見せて笑った。
「え? 雨に濡れてなかったか?」
「濡れてたけど問題無ェ」
「濡れたパン食ったのかよ!」
「食ったぞ。食い物粗末にしたらコックにどやされるからな」
「コック?」
「おう」

リクはその日、男がゾロという名前で海賊船に乗っていたことを知った。
「なんで船を降りちゃったの?」
「降りたわけじゃねェ。そのうち合流する」
そうか、この島はゾロの目的地じゃないんだ。ゾロはもうすぐ島から出てっちゃうんだ。
そう思うとリクは一時(いっとき)も惜しい気がして翌木曜日もゾロをたずね、今日もまたゾロの元へ急いでいる。

最初は男への、子供なりの好奇心だった。
島の大人とも、滞在客とも、商人やコテージの修理人とも違う空気を男はまとっていた。それに興味を持っただけだった。
それが水曜日にゾロの話を聞き、棒きれで素振りをするゾロの姿を見たことで興味は羨望へと変わった。
顔を見る限り父親より年寄りであるのに、筋肉は引き締まり、動作は迅速でなめらかだ。
そしてなによりも驚くほど身体が強靭だ。夜には氷点下に下がるこの季節に、暖炉の壊れたこの小屋で寝泊りできるというそれだけでもリクには驚きだった。

「ゾロ!!」
リクが転がるように走ってくるのを、ゾロは椎の実を割りながら笑って出迎えた。



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