Eternal blue sky ~永遠の青い空~ vol.1/3

夢音優月様

霧深い夕暮れ。レンガ造りの古い病院の裏庭で小さな子供が一人膝を抱えて泣いていた。その声は10歳に満たない幼い子供の無邪気な泣き声ではなく、押し殺したようなすすり泣きだった。

その声に導かれたように黒いマントに身を包んだ男がその子供の目の前に音もなく現れた。

子供は人の気配にハッとして顔を上げた。そこにはフードを目深に被った男の姿。男の瞳は金色で、フードの影から覗く鋭い光が夜行性の動物のように見えた。

子供は涙の痕を頬に付けたまま、しばらく悲しみを忘れたかのように男を見つめた。子供は金髪に青い瞳だった。重苦しい雲が立ち込めたその国で、その子供の持つ瞳の青は、短い夏の真昼に見る青い空のようだった。

「どうして泣いている?」
男の声はぶっきらぼうだった。
「誰かおまえの大切な者が死んだのか?」
男はそう尋ねながら子供の頬の涙をそっと親指で拭き取った。

子供はしばらく動かなかった。

男は「ああ、やはり、こんな無垢な子供は、自分の忌まわしさを敏感に感じ取るのだ」と思った。
子供の肌は透けるように白く、着古したシャツの襟元からのぞいた首元には青い血管が浮いている。

紳士、淑女の国と言われているこの国は、実際には厳しい階級制度が横たわっている。もし、この幼子が親を失いでもすれば、こんな容姿を持って生まれた子供はきっと苦労するに違いない。それならいっそ、ここで…。

そう思った男の耳に勝気な声が返って来た。

「誰も死んでねェ!」
男は手を引っ込め、小さく笑った。
「そうか」
「…けど、じじいが」
「じじい?」
子供の青い瞳が再び涙に覆われた。力を込めた瞳が一度瞬きすると瞳を覆っていた涙が再びその子供の頬を濡らす。

「じじいが…、おれを庇って足を失くした」
「足を」
「じじいは、喧嘩が強ェんだ。コックだけど、悪い奴らは容赦しねェ。金のねェか弱いレディも、給金を貰った日に来てくれる爺さんも…、いつもじじいが守ってやってんだ…。…なのに…、おれなんかの為に…」
子供は悔しさに地面を睨みつけた。
「よく状況は知らねェが、お前の爺さんがお前を庇って足を失くしちまった。それで、てめェは自分を責めてんだな」
「じじいっつっても、おれは、じじいの本当の子供でも、孫でもねェ…。なのに…おれを拾って育ててくれてんだ。おれなんかが店を手伝わねェでも、じじいは何も困んねェのに…。それどころか、おれみてェなお荷物いなくなった方がいいのに…」
「おい!坊主」
突然男が大声を出した。子供がびくりと肩をすくめた。
「ホントにそのじいさんに悪ィと思ってんなら、二度とそんな言葉を口にすんじゃねェ。お前はガキだが、バカじゃなさそうだな。分かるだろ?お前がそのじいさんだったら、助けた相手にどうあって欲しい?てめェが体の一部を犠牲にしてまで助けた体だぞ?」
子供が目を見開いた。男が吸い込まれそうな程大きな瞳だった。

男が子供に目線を合わせてしゃがみ込む。

「いいな?てめェ自身を大切にしろ」
男が子供の頭に手を置いてゆっくりと撫でる。子供の瞳に涙の代わりにみるみる光が宿った。

「おれはコックになる!じじいよりも美味い料理を作るコックになる。そして、じじいの店をもっとでかくして、金を儲けて、じじいをこの国で一番偉い医者にみせて足を治して貰うんだ!」

男は返事の代わりに子供の頭をポンっと優しく叩いた。

「じゃあな。坊主」
立ち上がり、去ってゆく黒いマントの後ろ姿に子供の声が追いかける。

「なあ、あんた名前は?おれはサンジ!あんた、この町のバラティエっていう店知ってるか?おれ、そこで働いてんだ。来年、おれの料理が店で出されるようになってっから、あんた食べに来いよ!!」
子供は利発だったが、10やそこらの子供の作った料理が店に出される訳がない。それでも男は片手を上げてそれに応える。
「おれの名はロロノア・ゾロ。坊主、立派なコックになれよ」
「ああ!約束する!」

男は裏庭の茂った木々の間にまるで煙のように消えて行った。子供はそれをただ霧のせいとしか思わなかった。




◇ ◇ ◇



「ゾロ!あんたゾロだろ!?」
「ああ。覚えてたか。クソガキ」
メニューを取りに来た金髪の子供は1年前よりも身長が伸び、少年らしくなっていたが、その頬にはまだ幼さが残っている。

レストランバラティエ。首都から北、貧民街との境にあたる地区にあるレストラン。上品な服を身に付けた富裕層、着心地悪そうな薄汚れた服を着ている動労者、その中間にあたる人種。その店はさまざまな階級の人間が入り混じっていた。

「そんなフードを付けてんのてめェくれェだ。今日は雨も降ってねェだろ?どうして部屋ん中でも取らねェんだ?」
無邪気に覗き込んで来る少年はフードの中から見えたゾロの髪の色を見て息を飲んだ。この国には絶対に存在しない鮮やかな緑色。
「あんた、異国の人だったのか…」
この国は階級制度も残る以上に異国の者への風当たりが厳しい。

「ここは、大丈夫だぜ?うちのコックの中にも異国から来た奴がいる。他の店なら、飯も出さねェって事多いけどな。あんたも苦労してんだろ?気がねしねェで、食ってけよ」
少年が言う通り、このレストランだけ階級の垣根もない。人々はただ、テーブルの上に並べられた食事を楽しみ、酒を楽しんでいる。

ゾロがフードを取るとレストランの客が一斉に振り向いた。しかし、それも一瞬だけで人々は再び目の前の食事とおしゃべりに戻る。

「な?言った通りだろ。で、メニューはどうする?うちのおすすめは…、まあ、じじいのめしは全部美味ェけどな。パイはどうだ?それと、ポーク・チョップのアップルソース添え、ホットポット、もちろんローストビーフもあるぜ…ただ…」
それまで活き活きとメニューを勧めていた少年が気まずそうな顔をした。

「まだ、あんたとの約束は果たせてねェんだ」
「約束?」
「あんた、覚えててここへ来たんだろ?…おれ、まだ下拵えしかやらせて貰えてねェ。でもよ、1年後には絶対ェ、今よりもっと料理上手くなってっから…」
言いかけた所へ厨房から怒鳴り声が響く。

「サンジ!!てめェ!なに油を売ってやがる!!ただでさえ一人前の仕事も出来ねェ野郎が!」
少年の顔がみるみる真っ赤に染まった。羞恥よりも怒りが強いらしく、
「うるせェ!!くそジジイ!!おれの才能も見抜けねェ野郎にとやかく言われたくねェ!!」
勝気に言い返す。
ゾロはその様子を見て小さくほほ笑んだ。霧の中、しとどに濡れながら静かに泣いていた子供。

「サンジ!てめェ、出来た早いとこ料理運ばねェか」
フロアーを忙しそうに歩き回る大男もサンジに怒鳴りつける。しかし、やはりサンジは、
「うるせェ!!」
と言い返すと、
「じゃ、てめェ、適当にオーダー入れておくからな」
とゾロのテーブルを後にした。

サンジを厨房の奥から怒鳴りつけていた“ジジイ”も、フロアーを行き来する大男も、皆サンジを愛している事が今日初めてバラティエを訪れたゾロにもはっきりと分かる。

子供は、真っ直ぐに育っていた。




翌年も、その翌年も、ゾロはそのレストランを訪れた。
10代の少年の成長は早い。1年見ぬうちにどんどんと身長は伸び、出会った頃、ゾロの太ももあたりだった身長はもうほとんど変わらなくなっていた。

それと同時に少年の料理の腕も上がり、店に出されている少年の料理をすべてゾロは食べるハメになった。

ゾロは体内の変化に眉をひそめそうになるのを必死で堪えた。子供の面影などどこにもないのに、その瞳だけは出会った頃の濁りのない透明な青のまま。

「美味ェだろ?」と、自信と少しの不安の籠った眼差し。

それに応える為にゾロは渾身の力で“食べ物” を頬張る。

“これ” よりも、もっと欲しいものがある。もっと食したいものがある。

少年はもう19歳。少年を見つめるのはゾロだけではない。年頃の美しい娘。金持ちのマダム。男色家の常連客。

少年はオーダーを取る合間に、その者達からの誘惑をかわす。相手は大切な客。ほんの少しの期待を残し、最後はひらりと蝶のように身をかわした。

「ゾロ。待たせて悪イな。料理足りってか?ゾロ、聞いていくれ!おれついに副料理長になったんだ!昼のメニューは全部おれが任されたんだぜ!」
サンジの言葉も笑顔も喜びに満ちていた。

「なあ!来年はもっと美味ェもん作れるようになってるぜ。絶対来てくれるよな?」
サンジがゾロの瞳を覗き込んだ。
「ゾロ。…あんた、いったいどこに住んでんだよ?なんで、年に一度しか来ねェんだ…?おれ、あんたに食べて貰いてェ料理がまだあんだよ…。一晩じゃ足りねェ…。明日は来れねェのか?」

サンジの青い瞳に自分の姿が映る。

もう二度と見る事のない本物の青空。もう一度、あの空へ手を伸ばしたいと恋焦がれ、渇望した青空。

その空の下に、自分がいる。

フロアーを歩き回っていたサンジから、その熱と共にほんのりと彼自身の香りがゾロの鼻孔へと漂って来た。

パイやソースや肉の人間の好む香りはゾロを素通りする。

「ゾロ?」
突然、シャツから除くサンジの首筋にゾロは強烈な空腹を覚えた。そうならぬよう、“食事” は終えて来たと言うのに。

そして、ゾロを襲ったのは、長らく失っていた全身の渇望。快楽を伴う下肢の迸るような欲求だった。

ゾロは突然立ち上がった。

「ゾロ?」

目線のほとんど同じサンジがゾロを見つめる。

今、ここでこのまま目の前の少年を浚って行けたら…。

「サンジー!また、てめェ、さぼってんのか!」
その時、厨房から男の顔が覗き、サンジを呼んだ。

「っくそ!!こんな時に…!」
サンジは舌打ちすると、
「ジジイ!!今、客の追加オーダー聞いてんだ!」
と怒鳴り返した。

ゾロは我に返り、フードを目深にかぶる。

「ゾロ?」
ゾロは何も言わず代金をテーブルに置きレストランの出口へと向かう。

「なあ、ゾロ、来年も来るよな?おれ、待ってるから!ゾロ!!」

街灯の少ない貧民街に近い街。黒いマント姿のゾロは、闇の中に溶け込むように姿を消した。


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