桜ちりぢり #1


微かに草を踏み分ける音がした。すかさず傍らの三刀を引き寄せ、身構える。
今宵は新月。夜の闇に目を凝らすが、目に映るは、朧に輝く桜のみ。
されば、視覚に頼るより、気をめぐらせたほうがよい。

慎重に気配を伺うが殺気は感じられない。
だが足音は確かに自分の居る、この朽ちた寺に近づいてくる。
(誰だ?)
湿気を含んだ風は花の香に満ちていたが、わずかに別の匂いが混じっている。
(これは…)
ひょいと姿を現した男を見て、身構えていたゾロは、ああ、やはりと思うと同時に、チッと舌打ちをした。
「来るんじゃねぇ!」
ドスの効いた低音で怒鳴る。
ひと気の無い、今にも倒れそうな小さな山寺の暗がりから、地を這うような声が響いてきたら、大抵の人間ならビビって逃げ出すはずだ。
だが男は「何、おっかねェ声出してんだよ」などと言いながらお構いなしに近づいてくる。
自分の威嚇が通じないのはよほどの豪胆なのか、はたまた鈍感なのか。
そう思っている間にも男は近づいてくる。月明かりの無い夜でも、自ら発光しているかのような明るい髪をなびかせながら、腐り崩れた賽銭箱をひょいと飛び越えて荒寺に上がりこもうとする。
「来るんじゃねぇっ!!」
再びゾロがギリギリと歯を噛みながら怒鳴った。
だが来るなと言われて、ハイそうですかと退出するような性格の男ではなかった。
むしろゾロの声音に切羽詰ったものがあるのを感知して「てめぇ、どうかしたのか?」と奥へと進んでくる始末だ。

暗い寺の奥でゾロが唸っている。
おかしい。やはりコイツどうかしたらしい。
そう思った男は、持ってきた風呂敷包みと一升瓶を柱の傍らに置いて両手を空けてから、そっとゾロの肩に手を触れた。そして腰をかがめ、ゾロの表情を覗き込もうとした。
その直後。ダンッと音を立てて畳にうつ伏せに押し付けられた。
心臓をしたたかに打って、呼吸が一瞬止まる。
――苦しい…
それだけがすべてだった。何をされたか、咄嗟に理解できなかった。
(苦しい…息、できねェ…)
押しつぶされた肺が酸素を取り込もうと必死になった。
だがその身体から、ゾロは容赦なく股引を剥ぎ取った。
下半身が外気に触れる感触で、ゾロが自分に暴行を加えようとしていることをようやく理解した男は叫んだ。
「てめっ! 何しやがる!!」
押さえ込まれた身体で足掻くが、うつ伏せにされた身体では得意の足技が繰り出せない。
身体をねじって逃げを打とうとしたとたん、
「うああっ!!」
手をねじあげられて思わず叫び声が上がる。
「っ!! クソッ! なんのつもりだ!!!」
身体の自由を奪われ、唯一自由な口で抗議する。
その耳元に、血を求める鬼が乗り移ったかのような凶暴な声が、響いた。
「俺の血が荒れ狂ってんだよ。手当たり次第に斬って、斬って……ぶっコロシてぇって…」



◇ ◇ ◇

冷たい床に髪を散らしているこの痩身の男に出会ったのは、城を抜け出した姫君の騒動に関わった時のことだ。
城に帰っていく姫君を見送ったあと、「腹が減った!!」と騒ぐ麦わらの親分以下そこに居合わせた全員が『風車』という飯屋に招かれた。
誘い文句は「腹が減ってるならしょうがねェ。俺の飯をくいやがれ!」というはなはだ乱暴な言葉だった。

板前だというのは姿格好からわかっていた。
しかし乱暴は口調も女に対するふやけた態度も男に対する尊大な態度も、すべてが板前のイメージからは程遠い。そのため、大した腕じゃあねェんだろうとゾロは思っていた。
だが出された料理にちょいと箸をつけただけで、その考えを改めさせられた。
(旨ェ…)
そのあと出てくる料理も、どれも美味そうだった。
だが、ゾロはなにしろ持ち金が少ない。目の前の料理がタダめしなのか、そうでないのかは大きな問題だ。
判断つきかねて酒だけチビチビ呑んでいると「飲んでばっかいねェで食え!」とつまみが出てきた。
「金が無ェ」というと「んなこたぁ、見りゃわかる」と返ってきた。
(金が無いのを承知で料理を出したということは、食っていいってことか?)
いぶかしげに板前を見上げると、にぃと笑う。
ああ、食っていいんだな、と解釈して猛然と料理を食い始めたら、その板前は今度は目を細めてふんわり微笑んだ。

(バギーのところで食った豪華な料理は不味くはねェがりきみすぎてるというか…。とにかく一度食ったら、しばらくいらねェ。だが、コイツの飯は毎日でも食いてェな)
そう思ったが、河原で夜明かしして宿代を浮かせても、結局2日続けて『風車』に食いにいったらそれで持ち金が尽きてしまった。
そんな折り、城下のはずれにある山林に捨てられた寺があるのを聞きつけた。
いつもならひとつところに留まるなんてことはしない。各地を行脚するのが常だ。
それなのに、その捨て寺をねぐらとしようなんて、どうして思ったのか…。
自分でもよくわからないまま破れ寺に上がりこんだ。
こういう時、坊主というのは便利なものだ。山寺をねぐらにして翌々日には、破れ寺にお坊様がいらっしゃる、と信心深い人たちが、菜っ葉や芋や、時には酒まで届けてくれるようになった。
そのため飢えることは無かった。
それでも、ああアイツの飯はうまかったなぁとあの味を恋しく思い始めた数日後、件の板前は、突然この山寺にやってきた。
それは今日のように夜ではなく、まだ日の高い時間帯だった。

「よお、餓死してねぇようだな、なまぐさ坊主」
のっけの挨拶がこれだった。
山伏のような俺でも手を合わせて拝んでくれるような純朴な人間もいるというのに、ナメた野郎だ。
思ったままを口に出したら、
「何言ってんだ、てめ。あんな刀ぶんまわして酒かっくらって、鶉(うずら)の肉だって食ってやがったてめぇのどのへんが高潔なお坊様だってんだアホ!」

ここに住んでると誰に聞いた?と尋ねると、ナミさんの情報網をナメんなよ!とイキナリ足蹴にされた。
(別にナメちゃいねぇし、第一、ナメたようなこと、ひとっことも言ってねェよ!)

ヤツが、思い込みが激しく喧嘩っ早く、口で説明するよりも実力行使な人間なのだと知ったのはこの時だ。そのくせ、世話焼きで細やかだとわかったのもこの時だ。
板前がその時持ってきた包みには、料理に疎い俺でも、それがただの腹の足しではなく、大人の男が必要とする栄養に配慮されたものだとわかる料理が詰まっていた。
といって、栄養第一主義で味は二の次ということはない。色あいも美しい。

昼間の明るい太陽の木漏れ日を受けた縁側に腰掛けて、もらった飯をガツガツ食う。
そんな俺の横で板前は、ボロボロの外回廊の縁から投げ出した長い脚をぷらんぷらんと振っている。その仕草が少し子供っぽい。子供っぽい仕草をしながら、ぷかーっときせるを吸う。
整った容姿とぞんざいな口調。子供っぽい仕草と色香に似た雰囲気。そのアンバランスさが、気持ちを落ち着かなくする。
当人はそんなことはちっとも気づかないで「こっちのほうが、やっぱ、寒いんだな」とつぶやいた。
「あん?」
箸を止めて板前を見ると「ほら、桜。これから咲くとこじゃねぇか」と指し示される。
示された数本の木々を見やると、なるほど、蕾が膨らんで光っている。

「城下では、すっかり散って、葉桜だ。ここいらの桜は山桜だから、ことのほか遅いってのもあるが、やっぱ、こっちのほうが寒いんだな」
板前はそう言った。
そういや、あの姫君の騒動のとき城下の桜は満開だった。『風車』で飯を食った2日間もまだ満開だった。
(その城下の桜は散ったのか。そして、この山林の桜はこれから咲くのか……)
このあたりの桜の開花はこれからだとを知って、この山寺に住み着いたのは失敗だったか?という思いが俺の頭を掠めた。
いやいや『アレ』はかつての俺だ。弱い心が呼んだ遠い日のことだ。もう乗り越えているハズだ。自分はあの頃とは比べ物にならないほど精神的に逞しくなっているハズだ。
そう思いながらも「ここの桜が咲いたら、夜桜見ながら、酒盛りするか?」という板前の提案を万一に備えて断った。ついでに、夜にはここに来るなとも言い添えた。

そうだ、俺は警告したんだ。来るな、と。
だが、自分でももう大丈夫だと思っていた気の緩みが、その言葉に深刻さを含ませられなかったのだろう。
俺がもっと状況を深く考えていれば、気づいただろう。
桜吹雪が心をざわつかせることや。嵐の風鳴りが通常の精神バランスを崩すことや。新月の闇が己の闇を覗き込むきっかけになることや。
俺の中の狂気の深さを、もっと深慮していれば気づいただろうに…。もう遅い。



 ◇ ◇ ◇

ごおおおお、と風が鳴る。湿気を含んだ生温かい風は、木の枝を激しく揺らし、かろうじて建っている寺を軋ませる。
嵐はすぐそこまで来ていた。そしてその嵐に呼応するかのように、ゾロの気も荒れていく。

「手当たり次第に斬ってぶっコロす、だと? てめぇ、坊主のくせにっ……っ!!!」
サンジが言い掛けた言葉は、頭をガンと床に叩きつけられたことで遮られる。
一瞬意識が飛びかけた。視界がぶれて景色全体が茜色に見える。
ぱしぱしと瞬くとようやく焦点が合ってきた。
茜色の正体は蝋燭の炎だ。風除けのために左右を板で囲った粗末な蝋燭立てが柱の根元…床に頬をすりつけたサンジの視線のちょうど先、に括りつけてある。
そういえば対になっている柱の根元にも蝋燭が立っていたな、とグラグラする頭でサンジは思い出した。サンジが来た時、二つの炎の中央で、ゾロは背を丸めて目だけギラギラさせて座っていたのだ。

『俺の血が荒れ狂ってんだよ。手当たり次第に斬って、斬って……ぶっコロシてぇって…』
先程耳元で言われた言葉が津波のようにサンジの頭に甦った。
(やべェ、こんなところで蝋燭の炎が綺麗だとか思ってる場合じゃねェ逃げねェと…)
と思って身体を動かしかけると、とたんにゾロが逃げを封じるようにサンジの身体を抑える手に力をこめた。
防衛本能でひくっと身体が揺れる。股引を剥ぎ取られて曝された白い太腿も緊張に強張り、それはゾロの欲情を誘った。
うつぶせに押し付けたサンジの法被の裾を一気にまくりあげる。
ゾロの目の前に真っ白い尻が曝された。
ぞくぞくと逸る気持ちで、その尻をもっとよく見ようとがっしり掴んで掲げた。
自分の身体が蝋燭の灯りの影にならぬよう位置を変え、そこでゾロは、ほう、と唸った。
「紺縮緬たぁ……てめぇ、随分と洒落者じゃねぇか」

野郎のケツとは思えない肌理の細かい白い尻が現れただけでも、股間がずくりと震えた。
その尻を掲げて灯りの元に曝してみたら、その滑らかな尻の割れ目に、肌の白さを強調するかのように紺縮緬の褌(ふんどし)が食いこんでいる。
褌なんぞに期待はしていなかった。いや、期待どころか、なんの感情も湧かないはずだった。
現れた下穿きが白の木綿か麻の褌で、若干よれていたり、使い込んで多少煮締めたような色になっていたりしても、落胆もしなかっただろう。そういう褌を身につけている者のほうが多いのだ。
だが、この目の前の光景はなんだ。臀部の白と縮緬の紺のコントラストに感動さえ覚える。抑えられないほど興が乗ってきたのが自分でわかる。
組み伏せて、この尻に己の裡でのたうつ暴力的な衝動を叩きつけるだけでは足らない。この身体をしゃぶりつくしたいという気がむくむくと湧き上がる。

縮緬の褌に手をかけると白い身体がびくりと跳ねた。
最初のように激しく抵抗しないのは、腕をねじあげて「この手を折ったら商売上がったりだな」と残忍な声で言ってやったからだろう。
それに気を良くしてゾロはゆるりと褌を解き始める。
木綿や麻のざらついた感触ではなくて、縮緬の手触りが気持ちよい。解くに連れて引き伸ばされていた縮緬のしぼが甦って、それもまた新鮮だ。
「くそっ…」
サンジが悔しそうに悪態をついた。下穿きを一気に剥ぎ取ればいいものを、じわりじわりと解いていくゾロの遣り方が、ゆっくり時間をかけていたぶられている様で、余計に耐えられない。
「ヤるんなら、さっさと突っ込んで、さっさと果てちまえ! 斬ってブッコロす勢いでヤルつもりだったんじゃねぇのかよ!」
耐え切れずにそう叫んだ。

「そう思ったんだがな」
抵抗も許しも命乞いも一切受け付けない、地を這うようなその声に、サンジの全身から冷たい汗が噴き出す。

「勿体無ぇだろ。ゆっくり楽しませてもらうことにした。」



→next



小説目次←