夏枕 #1


(暴風に乱れ散らされる桜を見ながらアイツと酒を交わすも一興…)
嵐の気配の強くなる春の山道を登りながら、半ば浮かれてそんなふうに思っていた。
それはまだ、抗い難い凶暴な力に乱れ散らされる苦しみを知らずにいたからこそ。



後孔に注ぎ込まれた酒のせいで身体があぶられる。
だが心は裏腹に凍りついていく。
ボロボロと零れる涙のせいで視界が揺れた。
酒を交わしながら見る筈だった桜が、ごうと吹く風に散らされていく。
その景色も、涙で滲んで流れていく。

涙が止まらないのは…
痛いからなのだろうか? 苦しいからなのだろうか? 悲しいからなのだろうか? 
痛いのは、俺の心のはずだ。苦しいのも、俺のはずだ。悲しいのも俺のはずだ。

それなのに、さんざん後ろを嬲っている武骨な手淫が止まる時、さんざん前を吸い上げてくる荒々しい口淫が止まる時、そんな時決まってゾロは、痛くて苦しくて悲しそうな目でサンジを見る。
だがその瞳は、嵐の風鳴りが激しくなると、またたく間に禍々しい光を取り戻す。
そして再び残忍な仕打ちでサンジを犯すのだ。

「しばらく夜には来るな」と言った言葉を忘れたわけではなかった。
闇を抱えていると、その時に勘づきもした。
それでも、自分が少しでも力になれればいいと思った。
それが傲慢だったのだ。
これは、その傲慢さの罰なのだ。
闇に潜む魔物の前に餌をぶらさげてしまったのは俺だ。
飢えた獣に禁忌の肉をやってしまったのは俺だ。
だがきっとゾロは後になって、俺にした仕打ちを悔やむのだろう。
酒や料理や履物に、心を痛めるのだろう。
来るなと言われていたのに来た俺が悪いのだろうに。

ガクガクと揺すぶられる身体は、生きたまま裂かれるような痛みと恐怖に悲鳴をあげている。
しかしこの涙の源は、決して身体の痛みだけではなく。
サンジはいっそう悲しくなった。





 ◇ ◇ ◇

木陰に入っても汗が噴き出す真夏の太陽がようやく西へ傾きだした。
春に山桜で覆われた山は、濃い緑をたっぷりと茂らせている。

微かに草を踏み分ける音がした。
こんな破れ寺にやってくる物好きは、ゾロが思い当たるところ、ただ一人だ。
足音の主に見当がつきながらも、気をめぐらせ気配を伺う癖はまだ抜けない。
殺気は感じられない。
代わりにたぷんたぷんとのんきな水音が聞こえる。
次第に、草を踏み分ける音と水音が大きくなっていく。
次いでひょいと男が姿を現した。
察したとおりだ。
夕暮れになってもまだべったりと蒸し暑い中、半顔にかかる金の髪をしっとりと汗で濡らしながら、男はゾロのいる寺にまっすぐに近づいてくる。
「よお」
きせるを銜えたままで男が言い、
「ああ」
手元の作業を休めずにゾロが答える。
たったそれだけなのに、ゾロがまとう雰囲気がふっと柔かくなった。



「しっかし、てめぇがこんなこと出来たとはなぁ」
破れ寺に積まれた大小の籠(かご)を手に、サンジは感心したように声をあげた。
今までもゾロは、持ち金が尽きると、蔓や竹で籠を作って旅の資金にしていたらしい。
「なにしろ材料がただで手に入るのがいい。蔓や竹はたいていどこにでもあるからな」と言ってゾロは笑う。

籠つくりは籠の網がほどけてバラけないよう、網目が緩まないよう、常に均等に力を入れていなければならない。竹籠ともなれば、結構力がいる。
竹をしならせてぐいっと編みこんでいくたびにゾロの上腕筋がきゅっと緊張した。
それを見ながら、籠つくりは結構コイツに向いているのかもしれないとサンジが思っていると、ぱしゃんと水が跳ねる音がした。
サンジが担いできた桶からぴちゃぴちゃと音がする。
「なんだそれ?」
ゾロが尋ねるとサンジがにかっと笑った。
「へへっ、今日はドジョウ煮てやろうかと思ってよ」
「ドジョウ?」
「ああ、嫌いじゃねぇだろ?」
「嫌いじゃねぇが…おまえ、それ…」
何かもごもごと言い掛けたゾロを気に留めもせず、サンジは襷(たすき)をひょいひょいと身体に掛けた。

「まあ見てろ」
ニカっと笑って、担いできた荷物の中から牛蒡(ごぼう)を取り出して、ざくざくとささがきにし始めた。
次に火を起こして水を張った鍋をかけるや、ささがきの山を鍋に放り込む。
水から煮て、沸騰して数分煮たら、一度ゆでこぼす。
「なんで湯捨てちまうんだ?」
見てろと言われたままに、いそいそとサンジの後ろから付いてきて、サンジが料理する様子を逐一見ていたゾロが問う。
「こうするとアクが抜けて、えぐみのないすっきりした味に仕上がるんだ」
「へええ」
なるほど板前ならでは、だ。
切った牛蒡を水に晒すのは、ゾロがいた寺の僧たちもやっていたが、こんな手間はかけていなかった。

サンジは再び鍋に水を張って火にかけた。
今度は牛蒡を入れずに鍋にふたをして、水が沸騰するのを待つ。
ぐわらぐわらと湯が煮え立つと、まずは牛蒡を放り込む。
一旦湯の温度が下がるから、再度沸騰するのを待ち…
「さぁて。いよいよドジョウを五右衛門風呂に入れっかな」
言うが早いか、深目のざるへ桶のドジョウをざぁと開け、つい、とずらした鍋のふた、そこから一気に生きたドジョウを流し込む。
すばやくフタを押さえ込めば、鍋の中では熱湯地獄に悶え暴れるドジョウたち。フタを押さえる手を緩めれば、フタが跳ね上がるだろうと思えるほどの暴れっぷりだ。
そこを慌てず騒がず、がっしりフタを押さえ込んでる板前。
「てめぇ、なかなかに極悪非道じゃねぇか」
からかうようにそう言ってやれば、
「ドジョウたちが恨まず迷わず成仏できるように、坊主のてめぇが念仏唱えてやっちゃあ、どうだ」
とサンジが笑った。
ようやく大人しくなった鍋の中身をしばらく煮込み、味噌と七味と山椒で仕上げる。

「おら、熱いうちに食え!」
丼に汁沢山のドジョウ鍋が盛られて、ゾロに手渡された。
蒸し暑い夏の夜に、熱いドジョウ鍋を、男ふたり、はふはふと屠る。
当然だらだらと汗が出て、汗いっぱいの互いの顔がずいぶん子供じみて見えて、ふたりはぶーーっと吹きだした。
「てめぇ、ガキみてぇ」
「そういうおまえこそ」

ドジョウ鍋のあとは冷酒。
サンジは酒とともに、切り出した氷も持ってきていた。
これだけでかなりの重量がある。
だがさらにドジョウの入った桶を背負ってきたのだから、華奢に見えてこの板前、存外力持ちだ。

熱いものを食して、夏バテのだるさが汗とともに流れ出たところへ冷えた酒。
身体が軽くなるような心地好さだ。
おまけに隣にしなやかな身体がある。
(言う事なし、ってのはこのことだな)
ゾロは上機嫌で酒を煽り、しばらく酒の舌鼓を打ったあと、サンジの身体を抱き寄せようとした。
ところがサンジは、それをするりとかわす。
おもむろに立ち上がると「じゃ、俺、そろそろ…」と、いそいそ帰り支度を始めた。
「あ? てめェ、帰るのか?」
「当たり前ェじゃねェか」
「泊まってけよ」
「え?」
サンジは呆気に取られてゾロを見つめた。
ゾロに泊まっていけなんて言われたのは、初めてだ。

「だってよ…、ドジョウ鍋だったろ?」
「そうだが?」
泊まっていくこととドジョウ鍋とが、どこでどう結びついているのかわからずにサンジは首を傾げた。
そんなサンジにゾロは、眉根を寄せる。
「ドジョウ鍋だからよ、てっきり俺は、おまえがようやくその気になってくれたもんだと…」
「ああん?」
「だから……、…精がつくように、ドジョウだったんじゃねェのか?」
「ばっ!………」
ぶわっとサンジが顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「何言ってんだ、てめぇ! 暑気払いだよ、暑気払い! そりゃ、あっちの精力もつくけどよ、夏にドジョウは暑気払いの定番じゃねぇか!!!」

(そういや、俺が今夜はドジョウを煮てやると言った時、コイツ、嬉しさを噛み殺したような妙な表情で、もごもごと何かを言いかけたっけ…。えい、クソ、あの時から、今夜のドジョウ鍋はそういう意味合いのものだと思い込んだに違いない。ようやくその気に、とか言っていやがったな)
「クソッ野郎、俺がてめェとやりたくなって、わざわざドジョウ食わせに来たと思ってたのか!!! このエロ坊主!」
妙な誤解への羞恥心で居ても立ってもいられずサンジはわめきたて盛大に蹴りを繰り出す。
野郎に対してはもともと口の悪い奴だが、さらに拍車がかかる。
ゾロのほうは、ドジョウと聞いて思いきり勘違いしたことは事実なのでサンジの罵声を甘んじて受けていた。が、途中
「そうか、俺の勘違いか…」と落胆した声で言ったら
「んな顔されたら、俺が悪者みてェじゃねェか!」
とサンジはまたキレた。

だが…。
怒った時も照れくさい時も口と脚が出る、そんなキンキラ頭の攻撃の嵐がひと通り収まるのを待って、再びゾロは言ったのだ。
「泊まってけよ」

ゾロが自分を抱きたがっているのは承知している。
だが、あの無理矢理不義された晩以来、許していない。
心はとうにゾロを許していたが、どうしても踏み出せない。
拒み続けるサンジをゾロは辛抱強く待ち続けてきた。
それなのに今日のゾロは何故か諦めが悪い。いつもならサンジが拒絶すれば黙って引くのに。
(ドジョウのせいか? 精力ついて抑えが効かなくなっちまったのか?)
サンジはそっぽを向いたゾロの顔を覗き込んだ。
半分拗ねたような表情が思いがけず、サンジは憂いを忘れたようにぽかんとゾロを見た。
そんなサンジの手をゾロがそっと引く。
寝所にしている奥の小さな部屋に導かれて、あ、とサンジは声をあげた。
サンジの目の先、床に敷かれた夏蒲団の周りに霞をかけたような膜がある。
「てめ…これは……」

蚊帳、だった。天井から蚊帳が吊るされているのだ。
「これは」に続く「どうしたんだ」の言葉が継げずに目をまんまるにしてサンジは蚊帳を見つめた。
そんなサンジの手を離さぬまま、反対の手で蚊帳を撫でながらゾロは言った。
「貸し道具屋で借りた。おまえ、この前来た時、蚊にさされて大変だっただろ」

そうなのだ。この前サンジがここに来た時、四半刻も経たぬうちにサンジの身体は蚊に刺された痕だらけになった。
ばりばりと掻き毟る引っ掻き傷もついて、サンジの白い肌はそりゃあ無残になったものだった。
そんな場所で欲望をぶつけ合って我を忘れたら、ゾロがつける紅斑とは別の紅い点々が大量にできるだろう。
(だからって…)
サンジは真っ赤になってゾロを見つめた。
見つめられたゾロは照れくさそうにそっぽを向く。

(うわわわわわ。やべえ。蚊にさされるより痒ェよ。だってよ、こりゃ、いかにも、ここでやりまくろうって言ってんのと同じだぜ。ヤブ蚊に煩わされずに思う存分やりまくろうって言ってんのと同じだぜ。ったく、どんな面して蚊帳吊ったんだ、コイツ)
参った。
思いもかけない求愛行動しやがる…。

「サンジ…」
名前を呼ばれて、どくんと心臓が跳ねた。
思いつめたようにサンジを見つめるゾロの瞳は、あからさまに「今夜は帰したくない」と伝えてきていた。



next→



小説目次←