夏枕 #2


時はさかのぼって無理矢理奪われた嵐の夜の翌日。
いや夜が明ける寸前まで陵辱されていたのだから厳密には翌日でなく『同日』だが…。
おナミがサンジに声を掛けた。
「どうしたの? なんか具合悪そうよサンジ君」
「ナミさんに気を遣っていただけるなんて〜〜〜〜」
いつもどおりに振舞ったつもりでも、いつものあっけらかんとした雰囲気は無い。
なにしろ顔色が悪い。血の気を失って土気色だ。
立ち居振る舞いにも冴えがない。
気丈に振る舞っても不調を隠しおおせてはいない。

おナミだけでなく常連客の皆がサンジの様子がいつもと違うことに気づいていた。
だが、聞いても真実は言わないだろうということも皆、わかっていた。
常に女性に甘く、特におナミの言う事には一も二もなく従うはずのサンジだが、こういう時は頑固だ。
何を聞かれても探りを入れられても、笑顔を絶やさぬまま、のらりくらりとかわして肝心なことは何も言わない。たとえおナミが極上の笑顔で尋ねても、だ。
見境いなく女性の言い成りになっているように見えて、実は甘やかしてくれているのだと知らされるのは、こういう時だ。
仕方なくおナミは原因究明はあきらめた。

「無理しないで休んでね」と労わられたが、サンジにとっては料理をしているほうが気が紛れる。
ひとりでぼんやり休んでいたら、昨晩のことを思い出して滅入ってしまいそうだ。
だから、むしろ炊事場に入り浸った。

無理を強いられた身体の痛みは、翌々日になっても抜けなかった。
戒められた足首には鬱血した痕が黒く変色している。
白い肌のあちこちにできた擦過傷と抵抗創。
そして、喧嘩だと誤魔化すには白い肌に点々と散った紅すぎる痕。
常ならば、調理中は袖をたすきがけして二の腕を曝す。だが今は、腕も足も胸元も、極力肌が露出しないよう苦心した。

5日後の朝。
朝から蒸し暑いくらいの陽気だった。
空は青く、その青空へ侵食するかのように張り出した新緑が瑞々しく輝いている。
ゾロのことも自分に降りかかったことも、忘れそうになるほどの明るい朝。
仕入れたばかりの新鮮な食材を手に『風車』へ向かったサンジは、店先で足を止めた。
(…?)
『風車』の入口に何か荷物が置いてある。
近寄ってみると、綺麗に編まれたざると黒い木箱だった。
その木箱が、5日前、自分が寺へ持っていった重箱だとわかった途端、サンジは、ピンと悟ってしまった。
(これはケジメだ。別れの挨拶だ。アイツ、こっから去ろうとしてやがる…)
ずっと忘れようとしていた。思い出さないように考えないようにしていた。いなくなってくれるのは、好都合の筈だ。それなのに…
「クソッ!!!! このまま行かせてたまるかよ!」
食材を納めるのもそこそこに往来に飛び出た。
道行く人間を片っ端から捕まえて、こういう風体のやつを見なかったかと聞いてみる。
だが、ほうぼう探し回り尋ね回っても見た者は現れない。
きっと未明のうちに『風車』へ来て去っていったのだ。

苦しいような悔しいような…。そんな気持ちになる自分にむかつくような…。
複雑な気持ちでサンジは煙管を、ぎり、と噛んだ。
(クソ野郎、痛くて怖くて悲しくて絶望したのはこっちなんだぞ。ってェのに、なんだって俺は、アイツのほうが可哀相に思えちまうんだ?)

いったん『風車』に戻って、すばやく昼食用の仕込みを済ませると、あとをおナミに任せて再びサンジは往来へ飛び出した。
どちらへ行ったかもわからずに必死にゾロを探している自分が滑稽だと思いつつ、結局一日城下を東奔西走した。
消息も手がかりも得られないまま、夕闇が迫ってきた。



大店に奉公していない町人の大半は、裏長屋に住んでいる。
玄関の引き戸を開けると土間。そこのたたきで履物を脱いでトンと上がると4畳半から6畳程度の板敷きか畳敷き。現代風に言えばワンルームだが、トイレや風呂は勿論のこと、かまども備えついちゃいない。女房を娶ったら奮発してかまどを買って炊事場をこしらえるが、ひとりもんは大抵外食だ。
だからこの天下の城下町には露店がひしめいている。
飯屋は露店よりは高くつくが、風雨に晒されずにゆっくり食事ができるから、最近はたくさんできて賑わうようになってきた。
『風車』も例外でなく、特に飯が安くて美味いと評判だから、さして大きくない店内はいつもいっぱいになる。夜になったらおナミひとりでは回し切れない。それに…
(夜は、仕事帰りで腹を空かせた大喰らいの客も酔客も増えるから、ナミさん独りじゃ危ねェ)
サンジはついにゾロ捜索を諦めた。

「ナミさーん、あなたのサンジが戻りましたよー」
「いいから、さっさと厨房よろしくね!」
つれなくあしらう言い方だったが、おナミがほっと安心した表情を浮かべる。
手際よく料理を仕上げていき、混んできた店内での給仕と厨房での調理に行ったり来たりしていると、雀斑の浮いたなじみの客に声を掛けられた。
「サンちゃん、おめぇ、城下中走り回ってたそうじゃねぇか。女に逃げられでもしたかあ?」
からかうような口調とともにサンジの腰に手を回してくる。
「ああん?」
ドスのきいた低い声を返して睨みつけてやるが、雀斑の男は一向に動じない。
「いや、走り回れるくらい元気になったんなら良かった良かった」
腰に回した手でするりとサンジの尻を撫でながら微笑んだ。
言われてみれば、身体の痛みはいつのまにか失せている。
まるで、この一件はもう終わったことなのだと、示唆しているようだ。
そうだ、日がな探しても見つからなかったのだ。切れるべき縁だったのだろう…。

「サンジ君、鯛の酒蒸し、追加できる?」
「あいよ、ナミさん!」
サンジは板前の顔に戻って、数日ぶりに肩まで袖をまくりあげた。



夜の飯屋の喧騒も静まり、板場を綺麗に片付けて『風車』を出ると、上弦の月が頭の上に光っている。
サンジの足はなんとなく、あの荒寺に向かっていた。
(もう、城下にはいねぇだろうな…)
いないとわかっているからこそ、もう二度と近づきたくないと思っていた寺へ向かう気になったのだ。

嵐の暴風に、きりもまれるように花びらを散らしていた山桜は、新芽が芽吹き、瑞々しい力を四方に伸ばしている。
散り落ちた花びらで一面桜色だった地面は、下草が萌え出で、草を踏むたびに若い草の香が薫ってくる。
まったく自然というものは人間より遥かに逞しい。たった5日で様相をがらりと変えて、あの晩とは違う景色をサンジに見せつける。
(ああ、本当にもう、終わったんだ。終わったことだ)
様変わりした景色に、切々とそれを感じながら寺に近づいた。
が、木々が開け、寺の正面が見えるところへ来て、サンジは、ぎょっと立ち止まった。
(誰か…いる……)
賽銭箱の向こう側に誰かが腰掛けている。
サンジは動きを止め、息を殺し、夜の闇と屋根の影に溶け込んだその者をじっと伺った。
そして、何者かわかったとたん、サンジはガーーッと走りよって、賽銭箱を飛び越え、その者の顔面に強烈な蹴りを埋め込んでいた。
「てめっ、こっから出てったんじゃねぇのかーーーーーッッッ!!!!!!」

「そのつもりだったが、一日かかっても城下から出られなくてよ…」
寺の外まで蹴り飛ばされたゾロがぼそりと言った。
「で、結局、ココに戻ってきたってわけか?」
「ああ」
(呆れてものも言えないたぁ、このことだ…。つか、その方向音痴で、この寺に戻れたってことが奇跡なのか…)
盛大に脱力したサンジに今度はゾロが聞く。
「てめぇはなんで、ここに来た?」
「このまま行かせてたまるかよ!」
「このままって?」
「ムカつくんだよ! 散々好き勝手にしやがったくせに、今度はこそこそ夜逃げみたいに出ていきやがって! だいたい詫びも入れずに行くたぁ、いい度胸じゃねぇか。それとも尻尾巻いて逃げ出すってのか?」
「すまん」
「それで詫びたつもりか! 余計にむかっ腹が立つぜ!」
「どうすりゃいい?」
「どうすりゃって…」
そしてサンジは言ってしまったのだ。「ここにいて、オトシマエをつけやがれ!」と。

だが俺がいたらおまえに迷惑かけるかもしれねェ、と言うゾロに、サンジは啖呵を切った。
「はん、どういう迷惑だ? 迷子の捜索か? だいたいな、てめぇみてぇな人生そのもの迷子になっちまってる危険人物を、世間に野放しにできるか!」



そして季節は夏を向かえ。
「あの時俺は、これ以上おまえを巻き込みたくないと言ったよな。そしたら、おまえは、上等だ構わねぇからきっちりオトシマエつけてみせやがれ、と返事したよな。オトシマエつけるのは、まだ先だが…桜が咲かねぇと、鬼は出てこねぇから。だが、詫びは入れてぇとずっと思っていた」
蚊帳の前で逡巡するサンジの肩を引き寄せて耳元でゾロは囁いた。「おまえの身体に詫びを入れてェんだ…」

(は? 詫びを、入れてぇ? 身体に? なんだそりゃ? ナニを入れてぇ、の間違いじゃねぇのか?)
怪訝な顔でゾロを見つめるが、ゾロのほうも伺うようにじっとサンジを見たままだ。
これは聞いてみるしかあるまい。
「詫びってなんだ? 俺はてめぇの謝罪目的で抱かれるほど落ちぶれちゃいねェぞ」
サンジはぐっと睨みつけるように瞳に力を込めて、そう言い返した。

「解ってる」
即答したゾロだが、そのあとが続かない。
「解ってる。俺は…」
自分の気持ちを的確に伝える言葉が見つからなくて、ゾロは焦れたように奥歯を噛む。
そんなゾロを見つめながらサンジがたたみかけた。
「もし、てめェが、やっちまったことに負い目を感じて俺を気持ちよくさせてやろうって思ってやがんなら…」
「違うっ!」
サンジの言葉を最後まで言わせぬ勢いでゾロが否定した。

傍にいてオトシマエをつけろと言うのなら鬼と化した自分でなく正気の気持ちを知ってくれと、ゾロがサンジの身体に触れようとしてきたのは、今日が初めてではない。
最初のうちは、それは、犯した罪への呵責からなのだろうと思って、サンジはゾロの手を拒んできた。
だが、次第にそれだけでないことは充分わかってきた。

自分の何が良いんだか知らねぇが―――
どうもゾロは本気でやり直したいと思っているらしい。
それでも、サンジはお預けをくらわせてきた。
あの暴行を、心の内ではとうの昔に許していても、身体は、力づくで犯された恐怖を憶えている。肩に手を置かれただけで身体が緊張するのをどうしても止められない。
(だが、いよいよ年貢の納めどきってか…)

「今日はドジョウだ」とサンジが言った時の、ゾロの驚いた顔。そのあとの嬉しそうな顔。
長いことお預けくらっていたゾロが、ドジョウを持ってきたサンジを見て、ドジョウ→精のつく食べ物→ようやくサンジがその気になってくれたのだ、という具合に思考を飛躍させてしまったことも、それで有頂天になった気持ちも、同じ男として妙にしっくりわかってしまう。
嬉しそうだったあの表情に絆されそうになる。

(だいたい、蚊帳たぁ、一杯食わされたぜ…)
ゾロひとりだったら、蚊帳を借りようなんて絶対思わないだろう。
蚊に刺されようが気にする性質ではない。
そもそもこの寺には食料にしろ生活用品にしろ最低限の物さえそろっていないのだから、そちらを先に整えるのが順当だろう。それなのに…。
(金が少し出来た途端、自分には用の無ェもんをまっさきに借りやがって…。大した莫迦だ、コイツは。俺が拒み続ければ、蚊帳なんて無用のものになっちまうのに…)
サンジは息を深く吸い、覚悟を決めた。
(裡(うち)に鬼を飼うクソ坊主を引き止めたのは俺だ。俺こそ、そのオトシマエをつけなきゃなんねェよな…)
真正面からじっとゾロを見た。
ゾロは必死にも見える面持ちで、泊まってけ、とまた言う。
それだけの言葉が、思いの丈を溢れんばかりに詰め込んだ、ゾロの精一杯の表現なのだ。
サンジはふ、と頬を緩ませた。
そして了承の返事の代わりに、霞のように揺れている蚊帳の内側に白い身体をすべりこませた。



蚊帳の内側に入ったとたん、もう一瞬たりとも待てないという性急さで、ゾロがサンジに覆い被さってきた。
(ぅあ…)
覚悟したというのに、ひくっと身体が跳ねる。
「優しくする」
強張った耳元でそんなことを囁かれて、くわ、と顔に血が上った。
「ば、ばか! 生娘抱くみたいなこと言ってんじゃねェ!」
怒鳴ったら身体の強張りがすこし解けた。
そのサンジの髪に、ちゅ、とゾロが口付ける。額にも唇が落とされる。
さらに下へ降りて、食むようにはふりと唇が頬を撫でていく。
くすぐったさに肩をすくめたら、今度は下唇を甘がみされる。
指はサンジの産毛のような顎ひげを撫で、反対の手はこめかみ付近の髪の生え際をゆっくりと梳く。
触れられている感触が気持ちいい。
この気持ち良さは何かに似てるな、と考え、ああ、あれだ、と思いついた。

幼い頃、養父が自分の髪を洗い流してくれたことがある。
今よりもっと色が薄くて淡い金色だった髪は、珍しがられて好奇の的だった。
悪ガキ共は、これで黒く染めろと泥を投げてきた。
小柄でも負けん気の強かったサンジが泣き寝入りする筈もなく、喧嘩になってさらに泥と砂にまみれた髪を、養父は叱りながらも洗ってくれた。髪の間の泥と砂をひとつひとつ取るように。
甘えを許さぬ養父だったが、この時ばかりは身を任せていれば、こめかみから後頭部へ温かい湯がゆっくりと流された。湯が髪の間を静かに縫っていった。
…それに似ているのだ。温かくて気持ちがいい。

無意識のうちに、恍惚とした表情をしていたらしい。
サンジの表情を伺っていたゾロが微笑み、唇を合わせてきた。
「ん…っ」
歯列を割ってゾロの舌が口内に入ってくる。
思わず逃れるように退かれたサンジの舌を、ゾロの舌が追いかける。
やんわりと絡め取り、唾液を与えて味わう。
ちろりと舌先が触れ合う。上顎の内側を丹念に舐め回される。
最初は奥へと引いていたサンジの舌が自然とゾロに応え始め…
(そういや…コイツとの接吻は初めてじゃねェ?)
口内を蹂躙されながら唐突にそう思い当たって、ぼぼぼ、と頬が熱くなってきた。
だって、あのゾロが…。口づけなんてまったくない、情愛の欠片もない、手ひどい手籠め、をしたクソ坊主が…。
今、味わうように自分の口腔を舐め回しているのだ。
熱いのは頬だけではなくなってきて、急激に火照り始めた身体をサンジはよじった。



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