初霜溶かして #2


破戒僧が驚いたことに、板前は滅法顔が広かった。
湯屋の脱衣所に入るや、あちこちから声が掛かる。
「よう、サンジ、今日は随分と早ェじゃねぇか。これから風車に行こうと思ってたのに、仕舞いか?」
「なんだよ、今日は用心棒みてェな野郎を連れてんな」
そんな声に板前はいちいち答えている。
「おう、今日は、ちっと早く上がらせてもらったんだ。でも風車はやってるぜ。俺のいない隙にナミさんにちょっかい出すんじゃねェぞ」とか、
「それがこのミドリは結構寝腐れでよ、用心棒には向かねェぞ」とか。
ついでに
「俺、風車から直に来ちまったから、なんも持ってねェんだ。桶と手拭いと糠袋、貸してくんねェ?」
などと言いながらぽいぽいと服を脱いでいく。

そんな板前に破戒僧は、う…と唸った。
ちらちらと板前の裸体を盗み見る周囲の目を、どうもこのキンキラ頭は気づいてないらしい。
こっちは、板前と一緒に入ってきた自分を敵視する視線までちくちくと感じているというのに。
「あん? なんだよ、ゾロ、さっさと脱げよ。服着たまんまじゃ風呂には入れねェぞ」
それはもっともだ。 湯帷子を着て入浴したのはちょいと昔のこと。今では板前の言うとおり、服を着たままでは風呂に入れない。だから肌を晒すの致しかた無いが、それにしても板前のところには、やたらと人が寄ってくる。
挨拶なら声を掛ければ済むものを、どいつもこいつもわざわざ板前の側に寄ってくる。この身体をこの肌を近くで見たいがための助平根性だと、本人だけがちっとも気づかない。
「くそ…」
くそ、てめェら、見るんじゃねェ!との怒鳴り声をかろうじて押しとどめた破戒僧は、代わりにぎりりと奥歯を噛んだ。

身につけた最後の布切れ…破戒僧が春に見て目を奪われた紺縮緬の褌(ふんどし)を、無造作に取り去ると、すたすた洗い場に向かった板前は、あろうことか、湯屋に備えてある毛切り石を手にしていた。
そりゃこの金色頭の板前は、紺縮緬の褌を締める程の洒落者(しゃれもの)だ。いや洒落者でなくても褌の脇から性毛がはみ出さないようにするのは余程のいなかっぺでない限り、男子のたしなみだ。
そんなことは破戒僧にもわかっている。ついでに毛切りを湯屋でやるのは、珍しいことでも恥ずかしがることでもないともわかっている。
そうでなければ湯屋には毛切り石が常備されてなぞいない。普通のことなのだ。
それでも思う。
てめぇ、んなこと、ここでやるんじゃねぇ!と。

まさか皆に向かって大股広げてやるわけではない。
洗い場の隅のほうで皆に背を向けて、二つの石で性毛を挟んでかりかりと擦り切るだけだ。
(とはいえ、周りの野郎どもの頭ン中には、正面からの姿態が思い描かれてるに違いねぇ)
石を持って洗い場の隅に行きかけた板前の手をむんずと掴んで破戒僧は言った。
「さみいから、さっさと湯につかりてぇ!」と。
勿論嘘八百であるが、先刻の破戒僧の凍えた手を思い出した板前は簡単に信じてうなづいた。

だが湯船へ向かう石榴口(ざくろぐち)をくぐるために上半身をかがめた板前を見て、またもや破戒僧はうううーーむと眉を寄せた。
ゾロの目の前に突き出された尻がある。かがめば尻が突き出るのは当然だ。
それをゾロだけが眺めるのなら良い。しかしやっぱりここでも衆目の視線を浴びている。そのことに板前はまったく気にしていない。

湯に浸かれば浸かったで、わらわらとまた野郎共が寄って来る。
洗い場で堂々とイタズラを仕掛ける奴はさすがにいないが、湯の中はゆらゆらと見えないから、するりと触られることも珍しくない。
そんな危険地帯で板前は「あー気持ちいー」なんて無防備に弛緩してるのだ。
気が気ではないという言葉の意味を、破戒僧は深く理解した気がした。
そして、もっとエロい表情を沢山みているはずなのに、この湯煙の中でまったりくつろいでいる板前の、ほんのり色づいた身体の色香にも中てられる。
凍えた身体が芯から温まると、別の熱がじわじわと這い登ってきて、破戒僧はそれを沈めるのに苦心した。

いろいろな刺激といろいろな嫉妬といろいろな気疲れでぐったり気味の破戒僧と、白い身体が上気してほんのり桜色の板前が脱衣所に戻ってくると、2階寄ってけよ、と声がした。
声の方を見ると、脱衣所から伸びた階段の上から雀斑の男が手を振っている。
それに答えて板前はそそくさと褌を締めて2階に上がっていく。

2階は囲碁を打ったり晩酌をしたりしてくつろぐ場で、男だけしか入れない。
皆、褌一丁や、せいぜい上っ張りを引っ掛けただけの、くだけた格好だ。
板前も上っ張りだけ羽織って、股引はつけずに褌一丁。
そこからすんなり伸びた白い脚を惜しげもなく曝して2階への階段を上っていく。
上っ張りで隠れる筈の尻が、板前のあとに続いて階段を上がる破戒僧の目の前でぷるんぷるんと揺れている。

階上に上がれば上がったで、あちこちから「サンジ、今日は早いな」と声が掛かる。
「サンジが来てるっていうからよ、俺も急いで湯屋に来ちまった」なんて囁き声も喧騒に混じって聞こえてくる。それを聞くうち破戒僧はハタと気づいた。
(ってぇことは、ここの奴らはみんな、この板前がいつもは何時ごろに湯屋に来てるか知ってるってことじゃねェか!)
そう気づいたら即座にむかついて、すべての野郎どもにガンくれる。
だが先程板前を2階に誘った雀斑の男は、破戒僧の視線の鋭さに全く動じずに、人懐こい笑顔で寄ってきた。
「サンちゃんも、そこのお目付け役の兄さんも、こっちに来いよ」
「お目付け役?」
破戒僧をなんでそう呼ぶのかわかってないのは板前ばかり。
言われた破戒僧自身は、こいつ見抜いてやがるなと思っていた。
それだけではない。顔付きは笑っているが、自分の見る目の奥で厳しい視線がたぎっている。
そう感じたのが間違っていなかった証拠に、板前が破戒僧の刀を引き取りに、刀預りに向かったとたん、雀斑の男は破戒僧をじろりと睨み、言った。
「サンジになんの用だ? 今更惜しくなったか?」

同じようなことを板前からも言われたなと思う。
どうもよくわからない。何がどうなってるのか?
逡巡してると、雀斑の男はぐさりと破戒僧の罪に切り込んだ。
「俺は最初(はな)からてめェが気にくわねぇ。てめェだろ、春にサンジに不義を働きやがったのは?」
「アイツが…そう言ったのか? 犯られたって…」
口の中が乾いて、返答する声が上ずるのがわかる。自分でも思い出したくない事実なのだ。

「アイツが言うわけねぇだろ。必死で隠そうとしてたから、こっちも見て見ぬ振りをしてたけど、素振りがおかしいんでピンと来た。それなのにアイツはてめぇを引きとめた。今度だってすごく辛そうにしてたのに、アイツはまた、てめぇに情けをかけちまってる。サンジはな、てめぇみたいにどっか飢えてる奴を放っておけない人間なんだ。満たしてやりてぇって思っちまうんだ。満たされたら離れていくとわかっている相手でも、そいつが満たされたのなら無駄じゃなかったとか思っちまうんだ。てめぇも満たされた途端にアイツを捨てやがって!」
「捨てた? 捨てたつもりなんかねぇぞ!」
「なら、ここんとこ、アイツが全然元気ねぇのは何故だ? 何でもないように振る舞ってるけど、から元気にしか見えねぇ」
「俺が原因か?」
「ほかに何があるってんだ!」
「わかるかよ。頻繁に俺んとこ来てたのに、ぱったり来なくなった。こっちから行ってみれば、今更会えねぇと怒りやがる。今更ってどういう意味だよ。かと思うと、俺が凍えてるから一緒に銭湯行こうと言うし。俺だってわかんねぇんだ。とにかく俺が愛想尽かされたってわけじゃなさそうだってことだけはわかったが、俺とアイツに間に何があったんだ?」
首を傾げる破戒僧に、雀斑の男はクソと毒づいた。
「てめぇ自身でよく考えろよ、なんでサンジがてめぇのとこに行かなくなったのか。それがわからないで何度もアイツを傷つけるんなら俺は容赦しねぇぞ」

雀斑男の真剣な眼差しに、ああコイツはあの板前に惚れてるんだ、と破戒僧は思う。
だったらなんで…
「なんで、俺からアイツを奪おうとしない?」
「奪ってほしいのか?」
「んなわけあるか。渡すつもりなんかねぇ」
破戒僧の言葉に雀斑の男がくくくと笑う。
そして諦めたような妙に大人びた表情で言った。
「俺はな、サンジに言わせると、完璧なんだと。バランス悪いところもないし、欠けても飢えてもいないんだと。…恋の悩みは平等だってのによ」

そこへ板前が破戒僧の刀を携えて戻ってきた。
破戒僧も雀斑男も、板前を巡って火花が散らされていたことはおくびにも出さないまま、酒と軽食を交わす。つまみは当然板前の料理に及ばないが、こういう所は食べ物は二の次だと皆、承知している。
適当に腹も膨れ、そろそろ引き上げようかというところで
「サンジーっ!! ちょっとコイツを頼めねぇか?」
と板前が呼ばれた。

「湯上りは回りやすいってのに、コイツ、飲みすぎてよ。コイツ、サンジの長屋の近くだろ? 帰る時でいいからよ、コイツを一緒に連れて帰ってやってくれねぇか?」
「俺、もう、長屋じゃねぇんだけど」
「え、そうだったのか?」
「ん、越したんだよ。ジジィが引っ越せってうるせーからよ」
(ん、今の台詞、どこかで聞いた気がする。なんだったか?)
破戒僧が記憶を辿ろうとしたところで、ドドドドドンと派手な音がした。
何事かと見れば、件の酔っ払いが階段を転がり落ちたらしい。
「おーい、生きてっか?」
板前がパタパタと階段を降りて声をかけるが、立ち上がろうとしたへべれけの男は、足元も覚つかず、くたんと座り込んでしまう。
「仕様が無ぇ。コイツは俺が送ってってやるさ」
帰り支度を始めた板前を名残惜しむ声も上がったが、板前は
「俺に会いたきゃ、風車に飯を食いに来い」
とにやりと笑って、湯屋を後にした。もっとも酔っ払いを担いだのは板前でなく破戒僧だったが…。



(長屋。ジジィ。引っ越し…。あーくそ、思い出せねぇ、なんだったかな)
酔っ払いの長屋までの道すがら、破戒僧は、必死に記憶の糸を辿ろうとしていた。
(さっき、何か、重要なフレーズを聞いた気がするんだが…)
思い出せないまま、長屋に到着した。
ここでも板前は人気があった。
近所の長屋の住人達がぱらぱらと出てきては板前を懐かしがる。
湯屋と同様、長屋でも、自分の知らない板前の世界に破戒僧は嫉妬した。

今度住んでるところは居心地いいかとか、長屋が懐かしくなったらいつでも帰ってこいとか、そんな会話が長々と交わされている。破戒僧は完全に蚊帳の外だ。
そして、板前が引っ越した理由なんて散々聞かされただろうに、駄々をこねるように住人の1人が言った。
「なー、なんで越しちまったんだよー」
「だから何度も言ったじゃねぇか、ジジィが引っ越せってうるせーんだよ」
「だから、なんでサンジのじいさんは引っ越せって言ったんだよー」
「知らねぇよ。こんなところじゃ板前の勘が鈍るとか、惣後架(そうごうか)はだめだとか、訳わかんねぇ」
(惣後架!)
ピンと破戒僧の頭の中に電球がついた。千切れていた回路がポンと繋がった。
(そうだ、惣後架! 思い出したっ!! 惣後架…つまりは共同トイレだ。約20日前のあの晩コイツは、長屋の共同トイレは許し難いという理由で、長屋から引っ越さなくちゃなんねぇと言ってたんだ…)
破戒僧の頭の中で、時が一気に20日前にさかのぼった。



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