振袖より淡き #1


最後の客が帰って、『風車』の暖簾をしまう。
「おー、月が綺麗だ」
夜空にぽっかり浮かぶ月を見上げた板前に奥から声がかかった。
「サンジ君、明日、生姜市(しょうがいち)行って羽伸ばしてきたら?」
「え、いいの?」
「夕方までには戻ってほしいけど、昼は私ひとりでも大丈夫よ」
「ん〜、ナミさんと一緒に行きてェなぁ〜〜〜」
「一緒に行くと、お店は休業になっちゃうわ。うちのお昼を楽しみにしている人たちに悪いじゃない」
「あぁナミさんたら昼餉を食いにくる野郎共にも、なんて優しいんだ! でも俺がいねェ間に変な野郎がナミさんに言い寄ったら…」
「大丈夫! そんな心配いらないからサンジ君は明日の朝、昼の分の仕込みしてってね」
「しっかり者のナミさんも素敵だ〜〜」



「んで、なんだ? 結局おめェは一日休みじゃなくて、朝『風車』に昼飯つくりに行って、そのあとすぐに葉生姜買いに市に行って、夕方にはまた『風車』に戻るってわけか?」
「おうよ!」
『風車』から帰ってきたサンジを抱き寄せようとしたら「今日はやんねェ明日は俺ぁ早いんだ」と断られた。
理由を聞いたら、明日はこれこれこういうわけだと、おナミとサンジの会話再現付きで説明された。

「なんだよ、そりゃ。ちっとも休みでも羽伸ばしでもねェじゃねえか」
「ナミさんのお心遣いをそんなふうに言うな! ナミさんは、俺が生姜市楽しみにしてんのを知ってて言ってくれたんだぜ」
「生姜の市の何がそんなに楽しみなんだかわからねェ」
「瑞々しくて香りの良い葉生姜がいっぱい出るんだせ。色も綺麗だし、すぅーっと良い香りがして素材の味をぐっと引き締めてくれる。あると無いとじゃ大違いだ。それに楽しみは生姜だけじゃねぇ」
「ほかに何があるんだ?」
「ほかにはよ〜」
そこでサンジは、にまぁと相好を崩した。

「何があるんだ?」
サンジのこの手の顔付きは、ゾロにとって好ましくないことが多い。畳み掛けて聞いたら、ははーんとサンジがゾロの顔を覗き込む。
「そうか、てめェ、他所者だから、知らねェのか」
サンジの言う『生姜市』とは、その辺の市場のことではない。『芝神明(しばしんめい)』という大神社で行われる年に一度の大祭だ。
その大祭の時に、境内に葉生姜の市がわんさと立つことから巷では『神明(しんめい)さんの生姜市』で通っている。

(そうか、こいつはそんなこととは知らねェんだな…)
ふむふむと頷きながら、サンジは言った。
「いや、大したことじゃねェよ。生姜市と、まぁ、ほかにちょっと食い物屋が出る程度かな。うん、料理人の俺だと楽しいけどな」
「嘘吐くな」
「嘘じゃねェ。食い物屋も出んだよ」
そう言いながらサンジは、明日の生姜市に思いを馳せて、また、にへら〜と間抜けな面を曝した。
どう見ても、食い物屋を楽しみにしている表情ではない。
料理や食材を楽しみにしている時のサンジは、もっと好奇心いっぱいの表情で瞳を輝かせている。そして同時に料理人としての誇りに満ちた表情をしている。
間違ってもこんな、でれでれとだらしない表情ではない。

「俺も行く」
「あん?」
「俺も連れてけ」
「ああっ!? 冗談じゃねェ! てめェなんか連れてったら、麗しいお嬢さ…! ……いや、だから、てめェは迷子になりやすいからな、人がいっぱいいるところはだな…」
(チッ、やっぱりナンパじゃねェか、てめェの目的は! 何が、食い物屋だ…)
お嬢さんと仲良くなれねェ、と言いかけて、はっと口をつぐんだサンジを、ゾロは忌々しそうに見つめた。

ここで強硬に、自分を連れてけ、と迫るのは得策ではない。うるせえっ!と蹴り飛ばされるのがオチである。
この板前の扱い方を大分学習してきたゾロは、姑息な手段に出た。
「俺も行ってみてェなぁ。おめェの言うとおり、俺は他所者で、ここには詳しくねェからよ、『風車』とこの周りしか知らねェ」
殊勝な面持ちでそう言ってみれば、情に厚い板前はころりと騙された。
「そういやてめェ、せっかくここ、お殿さんのお膝元にいるのに、どっこも行ったことねェよなぁ」
そう言って、しばし考える。
「おし! んじゃ特別に、明日はてめェも連れてってやる。んで、どうせなら生姜市だけじゃなくて御城下見物しようぜ!」
ちょろいもんだとほくそえむ一方で、こんなんだから危なっかしいんだとゾロは複雑な気持ちになった。

翌朝、朝寝をしていたゾロは、いつものごとく蹴り飛ばされて目覚めた。
「あんだよ、これから『風車』行って昼飯の仕込みしてくんだろ? だったらもう少し寝…ウッッ!」
もう少し寝ててもいいだろうが、と言い掛けた台詞は、再度の蹴りで言葉に成らなかった。
「この寝腐れマリモ! もう、仕込みにゃ行って帰ってきたんだよ! さっさと起きて朝飯食いやがれ!」

見れば、箱膳の上で朝ごはんがほかほかと湯気を立てている。
そりゃあ庶民の朝餉だから贅沢なものは無い。
長屋暮らしだったらご飯に味噌汁に漬物で終わりのほうが多い。煮炊いた野菜がつくのは1日1回。魚が口にできるのは週に1〜2回くらいだ。
だがゾロの食事は、同居人が板前という商売柄もあって、ほかの連中より恵まれている。
それにたとえ白飯と漬物だけだったとしてもサンジが作ったものならゾロは満足だった。
ただの白飯でさえこの板前が炊くと、なぜだか美味いのだ。

ゾロは飯を頬張って、きゅうりの浅漬をぽりぽりと齧った。
「てめェ、いい音、立てんなぁ」
目を細めて板前が言う。ぽりぽり音のするゾロの口元を眺めて、随分と嬉しそうだ。
こういう時、ゾロはなんだか、ざわざわとたまらない気持ちになる。
こんな些細なことで幸せそうな顔をする板前を、自分はいつか苦しめるんじゃないか。この幸せそうな表情を、自分が壊してしまうんじゃないか。
そんな不安を感じる。

自分を大切にしてくれた人たちを、自分に情けをかけてくれた人たちを、ゾロは今まで幸せにしてやれたことがない。幸せどころか、その人たちの命まで奪ってしまった。
自分の刃に倒れる時の、恐怖にかられた顔や悲しみに彩られた顔を、ゾロは今でも忘れていない。
この板前にもいつか同じ表情をさせてしまうのではないか、とゾロは畏れている。
「おい、どうした? ゾロ?」
はっと顔を上げれば、板前が心配そうにゾロの顔を覗きこんでいる。
「なんでもねェ」
残りの飯を慌ててかき込んだ。

いつもの法被から着流しに着替えたサンジを、ゾロは、ほぉと眺めた。
見慣れぬ姿が新鮮だ。ちょっと色気が過ぎる気もしないでもないが、コレを連れて歩くのが自分だと思うと悪くない。実際はゾロが連れられていくほうだが。

支度を整えて、外に出てみれば澄んだ青空が広がっている。
陽気が少々汗ばむほどだが、刷毛で流したような薄い雲が秋を告げている。
「あれ、二人そろって、どっか行くのか?」
母屋に暮らす青鼻先生が、丸い目をくりくりと動かして聞いてきた。
「城下をちょいと見学さ。コイツ、どっこも知らねェんだ」
「へぇ、どのへん行くんだ?」
「一番の目的は、芝神明の生姜市なんだけどよ、その前に、まずはグラジパっ子の神様『明神(みょうじん)さん』にご挨拶に行かなくちゃな」
「明神さんに行くのか! だったらサンジ、途中の薬種屋でちょっと薬買ってきてくれないかな」
「おうよ。いつもんとこだろ?」
「うん、必要なものを書くから、それを薬種屋に見せるだけでいいよ」
「お安い御用だ」



「先週の明神祭りを案内できたらもっと良かったんだが明神さんの祭りはすげェ人手で、ちっと離れてる『風車』にも客がわんさと入るからよ、店、休めねんだ」
目的地に向かいながら、板前の口は休まることが無い。
そういえば、数日前は、夜が明ける前から出て行って、夜中に帰ってきたと思ったら、そのままバタンキューだったな、とゾロは思い出す。
そうか、あん時は、祭りで客が多かったのか。

そうこうするうち、最初の目的地『明神さん』とやらに着いた。
「祭りは終わったんだろ? えれェ人だな…」
ゾロは、呆れたように言った。
「あたぼうよ。そこらの神社とは訳が違わぁ」
ふんぞりかえって自分のことのように自慢げな板前に、ゾロは噴出しそうになる。
「てめェの神社でもあるめェし」

『明神さん』は、さすがに殿様のお膝元で暮らすグラジパっ子の神様だけあって、参道の大鳥居も見事だ。
ぐるりと一周してお参りをすませると、次なる目的地はチョッパーに頼まれた薬種屋。
「あれ、サンジさん。青鼻先生のお使いか?」
「あぁ。これが必要な薬の一覧だ。頼むぜ」
「すぐ揃えてやる。今日は、魚あるか?」
「悪ィな。今日は魚河岸の帰りじゃねェんだ」
「そりゃぁ残念だ」
どうもサンジは魚河岸へ行くついでに、ちょくちょくこの薬種屋への買い物をチョッパーから頼まれているようだ。しかも河岸で多めに仕入れた魚を安価で譲ってやるらしい。
「サンジさんが選んだ魚は、新鮮で美味くてハズレが無いからいい」
番頭まで出てきて挨拶をしている。

店の者みんながサンジと親しそうに話しているのを、ゾロは所在無げに見ていた。
そのうちサンジが店の隅へと手招きされた。
「なんだ? この前にみてェに、ナマがいいのか乾いたのがいいのか、なんて聞かれても、俺ぁ薬のことはわかんねェぞ」
「そんなことじゃないよ」
手招きした男は、チラ、とゾロを見て。
「一緒に来たあの男…サンジさんのコレかい?」
「あああっ??」
思わずサンジは大声を出した。その口をガバっと両手で塞ぎ、
「ちちち、ちげェっ…!!」
声を潜めて否定するが、湯気が出るほど顔を真っ赤にしていれば、肯定したも同然だ。
あたふたするサンジの袂に、男は何かを忍ばせた。
引き攣った面持ちで店を出るサンジの後に続いたゾロの袂にも。

筋違橋を渡り切って、ようやくサンジは、ふううと息をついた。
袂を探って、何を渡されたのかと取り出してみれば、薬袋。表に「通和散」と書いてある。
サンジの口から思わず、ひぃい、と細い悲鳴が洩れた。
「通和散」とは言うなれば潤滑剤だ。粉末状のそれを唾で湿らせて練ると粘りが出てくる。それを、濡れない女陰や穴の周りに塗りこめる。
ふーん、と、それを覗き込んだゾロが、自分の袂を探る。
ゾロの袂から出てきたのも薬袋。こちらは「地黄丸」と書いてある。
なかなか起たない時の強精剤だ。
またもサンジが蒼ざめた。
これ以上、勃起されたら、身が持たない。
それなのに。ゾロは、
「まぁ、こっちの強精剤は、俺にゃ、あんま必要無ェけどよ、てめェの粉は、いいんじゃねェ。あの親父、粋なことしやがる」
なんてカラカラ笑ったから、当然ゾロは、蹴り飛ばされた。

魂の抜けたようだったサンジが、日本橋に着いたとたんに活気づいた。
「今日は生姜市行くから、生もんは買えねェけどよー」
そう言いながら、魚河岸を嬉々として見て回っている。
「おい、今日は、俺の物見遊山だろうが。てめェのほうが楽しんでねェか?」
「あり? 楽しくねェ?」
おかしいな、と首を傾げる仕草のお間抜けぶりに、ゾロは、まあいいか、という気持ちになる。
元々、生姜市も見物もどうでも良かった。この板前が女に愛想振り撒かないよう、くっついていたかっただけだ。
やたらと上機嫌な板前を見ているのも、悪くない。
このガキくせぇ顔が、喧嘩の時は凶悪に、夜には妖艶に変わるのだ。
それを思うと、昼間だろうが、ゾロの股間がぽかぽかしてくる。
やっぱり「地黄丸」なんぞに世話になることは無さそうだ。
そんなゾロの下半身事情を知らずに、サンジは、生ものは買えねェから、と海苔なんぞを仕入れていた。

日本橋界隈は大きな繁華街だ。賑わう店も多ければ、屋台も多い。ぷらぷら歩けば、香ばしい香りが漂ってくる。
「こりゃ、もしかして、天ぷらか? そういや、小腹が減ったな。食らうか」
「おいおい、ホントにてめェは破戒僧だな。坊主は天ぷらじゃなくて、精進揚げだろうが!」
「細けェこと言うなって」
ゾロはさっさと屋台に向かっていく。
「おっさん、揚げ立て、ひとつくれ」
「あいよ」
「あ、俺も」
隣でサンジも注文する。胡麻油がたぎる鍋から竹串が摘ままれて、ひょいと二人の手に渡される。
熱々のところを、はふ、と食らいつく。
「ん?こりゃ、なんの魚だ?」
「こりゃ、ハゼだな。てめェは何が食いたかったんだ」
「コハダ」
「コハダはもうちっとさぶくなった時のほうがうめェぞ」
「そうか?」
「板前の言う事、信じねェのかよ」
会話の間に、もうひと串。今度は貝柱だ。
手についた油を、橋の欄干にちょいちょいとなすりつけて拭う。

日本橋を過ぎたら、あとは南へ下るだけ。
屋台もまばらになってきたところで、ゾロがサンジに声を掛ける。
「てめェ、ちっと来い」
柳の影へ連れ込むなり、腰を抱いて接吻した。
「んんっ…んっ!」
じたばたもがく板前を押さえつけて口腔を嬲り、最後に唇をべろりと舐め上げる。
「てめっ! 何しやがるっ!」
ようやく解放されたサンジが、真っ赤な顔で脚を出す。
ゾロはそれをひょいとかわし。
「てめェが悪ィ」
と胸を張る。
「俺のどこがどう悪いんだよ!」
「そんな赤い唇、てらてら光らせてんのが悪ィ」

天ぷらの油に汚れた指先は拭った。
だが唇は艶っぽく油に濡れたまま。
食いたくなるのが道理ってもんだ、とゾロは言う。
「だからって、往来でこっぱずかしい真似すんじゃねェーーっ!!」
今度は、決まった。
鳩尾に、バッチリ入ってゾロが飛ぶ。
「けっ、そのまま芝神明まで飛んでいきゃあがれ!」



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破戒僧×板前エピソード・デート編です。

東京の地理がわからないとピンとこないかもしれませんが、地図でご覧あれ。ここまでのコースは、
神田明神(千代田区外神田2丁目) → 筋違橋=万世橋 → 神田を抜けて日本橋 → そのまま南下して芝神明さん=芝大神宮(港区芝大門1丁目) となっています。


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