雪中花 #4

板前の朝は早い。木戸が開く明六つ時には家を出ている。
だからゾロが目を醒ました時には彼の姿は無いことが多い。代わりに、上がりかまちに近いところに箱膳が引き出されている。
そこには大抵、豆腐料理と香の物と汁物が揃えられていて、おひつの飯だけ自分で茶碗に盛って食べるのがいつものゾロの朝食だ。
その朝は、彼の姿だけでなく朝食も無かった。

昨日の話の途中でなぜ彼が怒り出したのか、ゾロには皆目見当がつかなかった。
自分としては、桜見弁当の献立に悩む彼に、良い提案をしてやったつもりなのに…。
ただサンジの機嫌が何に左右されているのかわからないのは、此度に限ったことではなかったので、あまり気に留めずにいた。
しかしどうやら、ゾロが思うよりサンジの怒りは根深いらしい。
どれだけ喧嘩をしても別々に寝ても、一緒に暮らすようになってから、たとえ握り飯一個でも朝食が用意されていないことはなかったというのに。
(それが無ェ…)

ぐううと腹の虫が鳴った。
仕方が無ェなぁと、水がめにひしゃくを突っ込んだ。
ひしゃくで3杯、水を飲み干して無理矢理腹の虫をなだめる。
が、なだめきれなかったようで、再び虫がぐうと鳴いた。
「番小屋でふかし芋でも買うか…」
手持ちの銭を、ひいふうみいよ…と数えていると…
「サンジーーー、めっしーーーーーーっ!!!!!」
ドーンと飛び込んできたは麦わらの親分。
ゾロにぶち当たって、手の中の小銭がばらまかれる。
「あにすんだ、この野郎っ!」
声を荒げたゾロを無視して、親分はきょとんとして聞いた。
「サンジ、どこだ?」
「あ? 『風車』だろ?」
「いなかったぞ。それで俺、待ちきれなくて来ちまったんだから」
「なに?」
ゾロの眉間にしわを寄せた。
サンジが無断で『風車』を休むなんて、朝食が無いこと以上に有り得ない。
ふかし芋はそっちのけで『風車』へ駆けつけた。

「サンジ君はどうしたのよ?」
店に入るなりナミに聞かれた。てっきりルフィがサンジを連れてくると思っていたらしい。
昨晩は家に帰ってないと知ると、とたんにナミの表情が曇った。
やがて朝飯目当ての常連客の証言で、昨晩はヨサクとともに千鳥足で帰路についたことがわかった。ならばヨサクの家で揃って寝こけてるのかもしれないと、ヨサクの家に使いを出したが、そちらも、もぬけの殻だったらしい。

「酔って川に落ちたんじゃねェかな?」
「二人揃ってか?」
「一人が落ちて、助けようとして共に溺れるってはよくある話だぜ」
「ヨサクはともかく、サンジは溺れたりしねェだろ」
「わかんねェよ、昨晩はしたたかに酔っ払ってたし」
客たちは思い思いに憶測を飛び交わす。
そこへ、さっそく聞き込みに回っていたウソップが帰ってきた。
「横丁の辻番が、ふたりに似た風体の男二人が通ったのを見ているんだが、その先の行方がわからねェ。川向こうの土手にある辻番では、そんな二人連れは見てねェと言ってるんだ。だが、川に誰かが落ちた気配も無かったと言っている。辻斬りの後も無ェし…。あとは拐(かどわ)かしか…」
「まさか! サンジ君を拐かして、なんの得があるって言うのよ?」
ナミの言うとおりだ。
人手が欲しい地方ならいざ知らず、100万人都市のこの町で狙われるのは金持ちの子供か、若くて見目の良い女だ。
金持ちの子は身代金目当てだし、器量良しの女は売り飛ばせる。
サンジはそのどちらにも当てはまらない。
たとえサンジの歳があと5つ若くても、陰間茶屋は数年前の改革で一斉取り潰しにあっている。サンジを連れ去っても、なんのうまみもないはずなのだ。

「となると、怨恨か、何かの事件に巻き込まれたか…」
その言葉に、ゾロの眉間のしわが一層深くなった。
そんなゾロを見て、ルフィが言う。
「大丈夫だ、ゾロ。餅は餅屋に任せとけ」
事件解決は、俺たち岡引の専門だから任せとけ、というわけだ。
「そうだぜ、ゾロ。夜になったら川べりに夜鷹が立つから、そっちも聞き込みしてみるからよ。二人の姿を見ているかもしんねェ。きっと有力な手がかりが得られるさ」
ウソップが努めて明るく付け加える。
「あぁ、頼むな」
そう言ったものの、ゾロは夜鷹たちからは何も得られないだろうと踏んでいた。
『風車』から家に帰るには、最初にまっすぐ川まで出てから右へ折れて川端を歩いて新シ橋まで来るのが早い。だが、その道順だと夜鷹がたむろしている場所を通らねばならず、サンジはたいてい、新シ橋の正面に出やすい裏の横丁を通る。
レディのお誘いをお断りするのは申し訳無ェから、と言うのだ。

ゾロは立ち上がった。
ルフィやウソップの情報網を信じないわけではない。
だが、ゾロにはひとつ心当たりがあった。
「ジョニー、ちょっと来い」
自分を兄貴と呼んで慕ってくる男を携えて、ゾロは『風車』を後にした。



 ◇ ◇ ◇

暗い景色の中、最初にサンジの目に入ったのは板張りの床だ。
視界の先にぼんやりと棚のようなものが見える。
見覚えのない景色を、もっとよく見ようと頭を動かした。
直後、後頭部に鈍い痛みが走った。
痛ッ、と声を上げかけて気づいた。手拭いを噛まされている。
尋常でない状況に、サンジはぱっと身体を起こそうとした。
が、今度は首の後ろに強い衝撃を受ける。

薄暗がりの中で自分の身体を点検してみれば、手は後ろ手に縛られている。
足は胡坐をかくように曲げられて交差した足首には何重にも縄がかかり、縄の先はサンジの首に伸びている。膝を曲げている分には辛くないが、少しでも伸ばそうとすると首が足の方へ引っ張られて、前傾姿勢を取るしかない。
サンジの柔軟性でもって、足首の縄に唇を寄せるのは容易いが、猿轡の手拭いが縄に歯を立てることをはばんでいる。

縄抜けは相当難儀だと踏んだサンジは、自分の居る場所を確かめることにした。
急に頭を動かすと、頭がくらくらする。殴られたせいもあるし、二日酔いも加わっているだろう。
仕方なく、目玉だけ。それでも見えない方向は体全体を動かす。
天上を見上げると、大きな梁が目に入った。
そして天上の勾配に沿った何本もの垂木。
真っ暗闇でないのはやや上方にある小さな格子窓から入ってくる光のせいだった。
小窓の周囲の壁が白い。漆喰壁だ。
(蔵の中か…?)
そう思って見回すと、上部の小窓以外にも、窓らしいものがある。
薄ぼんやりと見えるだけだが、組格子のようなものがはまった部分があるのだ。
多分、内部の音が漏れぬように、観音開きの窓は開かずに、明かり取りの小窓だけを開けているのだろう。

厄介だな、とサンジは思った。
堅固な蔵は、扉や窓を閉めてしまうと、外から中の様子がわからぬのと同様、中から外の様子もわからない。
仮に縄抜けできたとしても、蔵の外へ出たとたんに見張りに取り囲まれる場合もある。
自分を拉致した理由がわからぬうちは、下手に動かないほうがいいだろう。

それにしても、昏倒してからどれくらい時間が経ったのかわからない。
小窓から入ってくる光の明るさからいって、今は昼間のようだが、風車を出たのは昨日なのか、一昨日なのか。
(ナミさん、困っているだろうなぁ…。やっぱ、ナミさんのために、こんなとこ、さっさと脱け出して帰んねェと)
先刻、下手に動かないほうがいいと判断した男は、店の女主人のことを思い出したとたん、簡単にその判断を翻して縄を解こうともぞもぞ身体を動かし始めた。
と、その音を聞きつけたかのように階段を上がってくる音がした。

ズズ、と閂(かんぬき)をずらす音がして、床の一部がスライドした。
ぽっかりと開いた四角い穴から、ぬっと灯りが突き出された。
眩しくてサンジは思わず目をつぶる。
その間に声がした。
「やっこさん、目ェ覚めたようですぜ」
その言葉を合図に複数の足音が聞こえ、まず、灯りを持った、顎のしゃくれた男が顔を出した。
この男は見覚えがある。橋の上で木刀を構えていた男だ。

続いて3人の男が上がってきた。
見覚えのあるのは最初に上がってきた、しゃくれ男だけだった。
サンジの頭側に立った男は浅黒く、髭の剃り跡が青々として、卑屈そうに背を丸めている。
身体つきからいって、この男が匕首(あいくち)で脅してきた男かもしれない。
正面の男は小柄だが、抜け目のない視線をしている。この4人の中では恐らくもっとも格上だろう。
最後の1人は大男だったが、こちらは小柄な男とは反対に愚鈍そうで3人の後ろにもっさりと立っている。

(さて、こいつらの狙いはなんだ?)
サンジがじろりと睨みつけると、リーダー格の男が腰を落として言った。
「そんな睨みなさんな。お前さんさえ聞き分けが良けりゃ、事は穏便に運ぶんだから」
ふん、とサンジは鼻を鳴らした。
(穏便が聞いて呆れらぁ! 人を拉致して縛り上げて、どこが穏便だってんだ!)
猿轡が無ければ、確実にそう言っていただろう。
だが男はサンジの様子に構わず話を続けた。
「簡単なことだ。『川政』を儲けさせてくれればいい」



『川政』は評判の料亭だった。店の構えも大きく、二階も離れ部屋もある。
創業はサンジが生まれる少し前。初代が四十路の声を前にして煮売屋を始めた。
やがて息子と共に短期間で板前を4〜5人雇うほどの料理屋にまで発展させた。
だが5年前に初代が、3年前には2代目の息子が、相次いで亡くなって、今は3代目が継いでいる。
この3代目になってからの『川政』は評判が落ちる一方だった。
初代と2代目が料理の心得のあった者だったのに比べ、3代目はまったく料理に疎かった。
早々にそれを見抜いた2代目が、経理を学ばせたまでは良かったが、むしろ金勘定ばかりが先立ち、食材も酒もケチる。
初代と2代目が見つけてきた板前は、料理に誇りを持っている板前ばかりだったから、3代目のやり方には何度も苦言を呈した。
だが、3代目は聞き入れない。とうとう客より先に板前が逃げ出した。
3代目は新たに雇い入れた板前には低賃金しか払わなかったから、結局ろくな板前が集まらない。益々『川政』の評判は落ちている。

その『川政』で働けというわけだ。
この話は、実は初めてではなかった。
昨年秋にもサンジは『川政』に招待を受け、何事かと行ってみれば転職の誘いだった。
「俺は『風車』が合ってますから」と慇懃に断ったのだが、その後も2度ほど打診があった。
そのたびに断っていたのだが、こんな荒行を仕掛けてくるとは業を煮やしたのだろうか?
(そういや今年になってからも河原端に呼び出された…)
いきなり「大人しく言う事聞きやがれ」なんて感じの切り口上だったから、さっさと伸しちまってろくに顔も見なかったが、あれももしかして、こいつらだったのか?


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