雪中花 #7

「……のか?…」
「……という……で…」
切れ切れに聞こえてくる言葉に意識が覚醒した。
どたどたと複数の足音がしてなにやら騒がしい。

すっと襖が開いた。
体躯のがっしりした大男が近づいて来る。
跳ね起きようとしたサンジは、身体に縄がかかったままなのに気づいた。
それだけでなく違和感を感じて自分の身体を見て、サンジはさらに驚いた。
身体や口を押さえつけらける気配は、夢ではなかったらしい。
縄をかけたまま、サンジの濡れた服をはがそうとしたらしく、あたりには無残に切り刻まれた半纏と腹掛けが転がり、剥きだしの肩に女物の着物が引っ掛けられている。
股引も同様に裂かれて剥ぎ取られ、あろうことかこれも女物の裾避けが巻かれていた。
いくら濡れた服を着せたままでは凍え死ぬとは言え、あんまりな格好だ。
おまけに髭も脛も綺麗に剃られている。
どうやら本当にサンジに性の相手をさせるつもりらしい。

これならとりあえず『川政』の板前になると言っといたほうが良かったかもしれない。
そのほうが今より逃げ出すチャンスは多いかもしれない。
だが、板場に立つ時以外は軟禁されているだろうし、いざ板場に立った時、自分が逃げ出せば腐るだけだとわかっている食材を放り出していけるかどうかも怪しかった。
それで今のうちに自力で脱出しようとしていたのだが、こんな展開になるとは思ってもいなかった。

(まさか、この筋肉の塊みてェな大男の相手をしろってんじゃねェだろうな?)
サンジは近づいてきた男を見た。
身長がずば抜けて高いわけではない。しかし、がっしりと堅く重い筋肉でできた厚みのある身体は威圧感がある。そして、頭や手足などの身体のパーツひとつひとつが大きい。
(こんなのに無理矢理身体を開かれたら…)
サンジはぞっとした。

「こいつか?」
低い声が響く。
「へぇ」
主格と見えた紋冶がへりくだった態度で答えているところを見ると、この筋肉だるまが胴元なのだろう。
そこへ『紅丸』…もとい権蔵がやってきた。
「姐さんが遅くなるそうです」
「またか…。壷振りが来ねェと始まらねェじゃねェか…」
胴元らしき男は呆れたように溜息を吐いた。
「どうします? また酒でも出して場を繋いでおきやしょうか?」
「ったく、あいつが遅れるたんびに酒を出して客を足止めしてるようじゃ、あいつに酒代請求するべきだな」

(壷振りが来ない?)
これは好機かもしれない。
とっさにサンジは言っていた。
「俺に、その壷振り、やらせてみねェか?」
「あぁ? 何を言やぁがる。てめぇが壷振りできるってのか?」
紋冶が問う。
「どうせまたでたらめさ。その手は食うかよ!」と、これは権蔵。

確かに口からでまかせ。はったりだ。
だが、壷を振るとなれば今度こそ縄は解かれる。足の縄は解かれなくても手の縄は解かれる。
後ろ手に回されて、もう感覚も無くなってきているこの手を少しでも解放してやりたい。
壷振りなんか出来ないことが露見しても、その時はその時だ。なるようになれ。

「舐めてもらっちゃ困るな。こちとら自慢じゃねェが、そうそうお天道様の当たるところばかり歩いてきたわけじゃねェのよ」
べらんめェ調でワルぶって言ってやれば、どうやら胴元は興味を持ったらしい。
「いいじゃねェか、やらせてみろ。壷振りが出来なくても小袖着せて紅差してやりゃあ余興くれェにはなるだろう」
「でも縄を解くのは…」
権蔵があくまで渋るが、
「俺がいるのにそんな女男に好きにさせると思うのか?」
胴元のそのひと言で、本来の壷振り師が来るまでの余興をサンジにさせることが決まった。

女男と言われたことも、女装をさせられることも気に食わないが、縄が解かれるとなればすべて良しとする。
あとは逃げる時季を間違えずに見極めることだ。
顎鬚をもう一度丁寧にあたられて、薄化粧を施されるのをじっと耐え。
縄を解かれて衆目監視の中、女物の衣装を襦袢から身につけていく悔しさもぐっとこらえた。

それでも権蔵の言い草には、すぐさま足を出して蹴り飛ばしたい衝動が沸き起こった。
顎をつかまれて「まだ充分売れそうじゃねェか、小蝶。いや、小蝶じゃなくて黄蝶だな、こんな髪も濃くなっちまってりゃ」と揶揄されたのだ。
カッとなった自分を慌てて宥める。
(ここは我慢だ、サンジ…)
自分にそう言い聞かせていると、思い出したくない過去がじくじくと甦ってくる。
あの時も、化粧をされ、小綺麗な着物を着せられて、麗しいと周りが誉めそやすなか、我慢するしかない自分の非力さを呪ったものだった。

今は違う。身体は男の身体になった筈だし、力も技も持っている。
だが、まだだ。暴れるにはまだ早い。
解放されたばかりの手足はまだ本来の動きができない。
長時間同じ体勢を強いられた身体もまだ軋んでいる。
ここで暴れるより、座に出てからのほうが荒事に不慣れな客の混乱も起こって逃げ出す隙が増えるだろう。



不審なことが出来ぬよう、周りをぴったり囲まれて、後ろからは権蔵の匕首に脅されるようにして、サンジは賭博が開かれている広間につれてこられた。
先に部屋に入った紋冶が、いつもの壷振りが遅れていること、余興を用意したのでしばらくそれで楽しんでいてほしいことなどを告げている。

パンパンと柏手(かしわで)が打たれた。入って来いの合図だ。
権蔵がドスの柄でサンジをぐいと押した。
サンジは権蔵を睨みつけてから、うってかわって花のような作り笑顔を浮かべて襖をすいと引いた。
とたんに、どよめきが起こる。
瑠璃紺の小袖はサンジの白い肌と輝く髪を引き立て、裾に描かれたS字に逆巻く波模様はサンジのすらりとした体型によく似合った。

「へぇ、いつもの姐さんの妖艶さもいいが、これはまた端麗な…」
「名前はなんと?」
う…と詰まったサンジにすかさず権蔵が『黄蝶』だと答える。
「ほう、相応しい可憐な名だ」
「随分白い肌だね」
「この髪は、どうやって染めてるんだね?」

アホくせェ…と呆れながらも、サンジは一応愛想を振り撒いて、男声に気づかれぬように小さな声であいまいな返答を繰り返した。
そのたどたどしい様子が、挑発的な壷振りの姐さんを見慣れた客には新鮮だったらしい。サンジの仕草にいちいち盛り上がる。
初心な娘をからかうような気になったのか、いざ壷振りをという段になって客のひとりが『壷振りするなら片袖抜かなきゃ』などと含み笑いしながら言ってきた。
見ると、皆、期待するような熱の篭った目でサンジを見つめている。
(スケベ野郎どもめ…)
サンジはげんなりして思った。
胸は手拭いで嵩上げした上にさらしを巻いてあるが、女性特有の柔かさのない肩や腕から、男とバレるかもしれない。
だが、男だとわかればわかったで好奇の目に晒されるのだから、大して変わりはないとも言える。

(ええい、ままよ)
サンジはばっと片袖抜いて「入りますよ」と声を上げた。
もちろんサンジに壷振りの経験はまったく無い。
空中にぽいと投げて、壷に入れながら床に落とせばいいだろう、くらいな知識しかない。
ぶっつけ本番でサンジはさっと手を捻って指に挟んだ賽を空中に放り、壷でキャッチする。そのままダンと床に落として、いざ丁か半かと声を張った。
場がしんと静まった。
そのどこか緊迫した空気にサンジが顔を上げると、客たちは皆、固まった表情で自分を見ている。

(俺、何かしくじったか?)
だが賽は取りこぼすことなく、ちゃんと壷の中に入っている。
作り物の胸がばれたのだろうか?
(いや手拭いの上からさらしを巻いているから、バレちゃいねェはずだ。この体勢だと咽喉仏は見えにくいだろうし。でもレディ特有の身体の柔かさが無ェから、骨格でバレちまったのかな?)
いったいこの異様な空気の原因はなんだろうと思って、サンジははっと気づいた。
肌を曝した右腕の手首と二の腕にくっきりと緊縛された痕が残っている。
客がごくりと咽喉を鳴らす音が聞こえた。
サンジの失態を責めるような紋冶や権蔵の視線も背に突き刺さっている。
(やべェ…この場をどう切り抜けるべきか…)
数秒がやけに長く感じられる。

その緊迫を破るように、何か言い合う声がした。
ばたばたと足音がし、それを追いかけるように「せめて腰のものは置いて入ってください」と慌てたような受付の者の声がする。
ほどなくバシンと大きな音を立てて、広間の下座にある戸が引かれた。
ずい、と場に侵入してきた者を見て、サンジは、それまでの緊張も忘れてあんぐり口を開けた。
侵入者もサンジを見て、目を見開いた。

浪人風のなりに手拭いで頬かぶりし、いつもの刀も差していないが、あれはゾロだ。
ほかの人間にはわからなくても、サンジには確信があった。
どうしてここに?と思う間もなく、ゾロはずかずかと寄ってきた。
そのゾロに、慌てて紋冶が駆け寄った。

「てめェが胴元か?」
とゾロが紋冶に聞く。
「俺が胴元だ」
それまで黙って見ていた胴元が紋冶の返答をさえぎって奥から答えた。
ゾロは胴元を頭の先から爪先まで検分するように見てから言った。
「おい、ここは一見(いちげん)の客は入れねェのか? 楽しませてくれるって聞いてきたんだがよ」
「一見お断りってわけじゃぁ無ぇが、素性が知れないもんが入ってきたら警戒するのは当然だろう。すまねェが紹介者を立てて、また来てくれ」
ゾロは鼻白んだように仏頂面を見せたが、渋々うなづいた。
だが、引き下がるような素振りを見せながら、ゾロはサンジのほうに翻って、侮蔑するように言い放った。
「ところで…派手にやってる賭場だと聞いたが、まさか、こんなのが壷振りだとか言うんじゃねェだろうな?」

(あぁ?)
なんくせをつけてきたゾロを無言で睨みつけると、ゾロも睨み返してきた。
「ここがこういう趣向なのか? それともこいつがそういう趣味なのか?」
どこまでも嘲るような物言いだ。
好きでこんな格好をしているんでも、好きでこんな痕をつけているんでもねェ、と叫びたい。
「クソ…」と思わず口をついた。
「はん、綺麗なベベ着てても、中味はとんだあばずれだ」
「てめェッ!」
辛辣な言葉に、サンジは着物の裾をはしょって、低い体勢からゾロの足元を狙って素早く脚を繰り出した。
それをゾロはギリギリのところで後ろへ飛び退ってかわした。
「なんだ、この壷振り! いきなり危ねェじゃねェか! しつけがなってねェな!」
「うるせェ!」
怒り収まらずといった様子でサンジは勢いをつけて連続の蹴りを繰り出した。
女物の幅広の帯が邪魔になるので身体を捻る蹴りは出せないが、まっすぐに顎を狙った直線的な蹴りと、回し蹴りを組み合わせてゾロを追い詰める。
いくらゾロでも相手はサンジだ。刀があって初めてサンジの蹴りと対等に闘える。
刀が無い今は、圧倒的に不利だ。

両腕で防御しながら、どんどん後ずさりするゾロを見据えて、サンジはにやりと笑った。
「はん、大層な口利いても、中味はとんだ腰抜けだ。刀持たねェ浪人なんざ、相手にもなんねェよ!」
側面から竹で打ち据えるような蹴りがゾロの脇腹に決まる。
ぐぅっと唸ったゾロは、倒れるのを必死でこらえて、脇腹に入ったサンジの足をむんずと掴んだ。
はしょった着物の裾が更に大きく割れて、脚の付け根のほうまで曝け出される。
その引き締まった白い脚にも縄の痕が走っているのを見て、ゾロはちっと盛大に舌打ちをした。
苦々しい表情のまま掴んだ足をぐっと引いた。
「あっ!」
一瞬のことだった。
倒れこんできたサンジの身体が捕らえられ、抱え上げられたかと見るや、広間の出入り口を目掛けて投げつけられた。
引き戸をぶち破ってサンジの身体が吹っ飛んでいく。

「黄蝶!」
客の誰かが叫んだ。
「なんだ、そいつぁ? アイツのことか? 妙な名前つけやがって…」
ゾロの瞳が険呑な光を帯びる。
眼光の鋭さに、あらためて場が凍りつく。
ゾロの鋭い視線は、先ほど投げた『黄蝶』を追わず、いまや賭場を仕切る者たちに向けられている。
そこへ…
「てめェの得物だ!」
場外へ投げられて、今は姿が見えない『黄蝶』の声が飛んだ。
同時に、受付から取り返したと思われる刀が『乱入者』へ向かって飛んでくる。
「んん?」
おかしい…。

ようやく賭場側のならず者たちは、今の喧嘩が芝居だと気づいた。
「ふざけた真似しやがって!」
しゃくれ男が脇差を抜いて、ゾロに向かって突進してきた。
勢いに任せて上段から刀を振り下ろす。
それをかわしてゾロは相手の懐に飛び込んで胴を打つ。
腹を打たれてしゃくれ男が昏倒した。
「相手すんな、ゾロ!」
「先、行ってろ! おめェの身体に縄痕なんぞつけられて、おとなしくしてられっかよ!!」
ゆらりと怒気が立ち上がった。


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