雪割草 #1
吐く息も白い冬の朝、エースは「彼」に出会った。
三十間堀の向こう側、構えの立派な店の前をほっそりとした影が動いている。
店先を整えているのだと気付く前に、その姿かたちに惹かれた。
芝居小屋の子でもここまででないと思える透き通るような白い肌。
そのくせ頬や鼻の頭は、冷たくて凛とした空気にさらされて紅を掃いたようにうっすらと色付いている。
ススキの若穂のような淡い金色の髪が時折風になぶられて、きらめく。
年の頃は13か14くらいか?
思わず見惚れて、堀を挟んでじっと凝視していると視線に気付いたらしい。顔を上げ、エースを見留めた。
が、そのとたん彼はギラッと睨むような強い視線を寄越して、さっと店に引っ込んでしまった。
(はは、嫌われた
)
エースは苦笑した。
だが彼が放った強い視線は、むしろエースに火をつけた。普段は通ることのない三十間堀を翌朝も通ってみる。
果たして彼は居た。前日と同じようにじっと見ていると、向こうも前日と同じように睨みつけるように見返してから店に引っ込む。
それを数日繰り返し、七日ばかり経った頃、エースは、よう、とでも言うように、ちょいと手を挙げてみた。
相手は一瞬面食らったような表情をしたが、やはりいつものようにぷいと背を向けた。
(ダメか…)
落胆したのも束の間、痩身が背を見せたまま、ひらっと手を振ってそのまま店の中へと消えた。
その時の嬉しさと言ったら!
我ながらまだるっこしいことしてると思う。
いつもの自分なら、早々に口説いているだろうと思う。
慎重にことを運び、相手の出方を伺うなんて、本気の相手にしかしないことだ。
(本気? あぁ、そうか。俺、あいつに本気なんだ)
近くで見たこともない。もちろん話した事もない。どんな奴かもわかっていない。
それなのに、もう自分の心は奪われている。本気で手に入れたいと思っている。
それに、多分あいつは警戒心が強い。見られただけで、あんな睨むような視線を寄越すのは、その証拠だ。
そうして時間を掛けてエースはゆっくり彼に近づいていった。
堀の向こうとこちらで毎朝手を振り合う仲になり、やがてエースはようやく堀を越えて彼に話しかけた。
「サンジ」と彼は名乗った。料理屋「薔薇亭」で修行中だと言う。
間近で見た彼は、思った以上に華奢で白かった。
数えの16だと知って驚いた。年の割りに背も小さく身体も華奢で、どう見ても15以上には見えない。
だが、その外見に似合わず、大層口が悪く、喧嘩っぱやかった。
一度心を許すと、彼は急速にエースに懐いてきた。
薔薇亭では一番年下だと言うサンジは、同じ年頃の話し相手が出来たことに嬉々としていた。
警戒心丸出しだった表情は、すぐに解れて、無防備とも思える豊かな表情を曝す。
話す内容はもっぱら女の子のことか料理のことだったが、自分とは正反対の浅黒く逞しい身体を持つエースへの憧憬と親しみの混ざった視線はエースに自信を与えた。
(押せば落ちる…)
そう確信したエースが、「友人」から一歩進んだ関係に駒を進めようとした矢先
―― それは起こった。
サンジは早朝から晩まで忙しい。少し落ち着いて話が出来るのは八つ時の短い休憩時間くらいだ。
いつものようにサンジを呼び出そうと、その日も八つ時近くにエースが薔薇亭の使用人口へ近づくと、表のほうが騒がしい。
「やめろって!」
「おい、サンジを止めろ!」
エースは慌てて薔薇亭の表へ回った。
店へ入ると同時にドーンと凄まじい音がして人が壁に叩きつけられるのが見えた。
荒れた店内の中央に、ほっそりとした輪郭の人物がいる。
――サンジだ。
だが、エースの知っているサンジではない。無表情のくせに、見ている者を鳥肌立たせるような気をまとわせている。
止めようとするものを気だけで弾き飛ばすような凄みを漂わせて、サンジは憑かれたように壁に近づいていく。
壁際で失神している男の正面で、サンジはとん、と爪先を鳴らし、少しも軸をぶらすことなく綺麗に片足を上げ…
明らかな殺気がぶわりと立ち昇った。
それを感じたとたん、エースは、サンジと倒れた男の間に飛び出していた。
「サンジ、やめろっ!!!」
直後、臓腑が口から飛び出るような凄まじい衝撃を身体に感じた。
一瞬だが、全てが真っ白になり、音が消え。
はっと気付いた時は腹と後頭部に激痛を感じた。
口の中が苦くてぬるつく。
ペッと吐くと、真っ赤な唾が床に落ちた。
「エース! エース!」
呼ばれた先を見ると、エースに手を伸ばそうとしたサンジが取り押さえられるところだった。
大きな男たちに押さえ込まれながら、サンジがボロボロ泣きながら心配そうにエースの名を呼んでいる。
「大丈夫だ…、おまえの蹴りは効いたけどな…」
痛みをこらえて、にぃと笑ってやると、安心したような表情を見せ、それから「ごめん」と俯いた。
そして、引き立てられるようにして店の奥へと連れられていってしまった。
騒ぎの真相がわからぬまま医者のところへ運ばれて、それから10日後。
「先日はウチのチビナスが申し訳無ェことをした」
薔薇亭の店主ゼフとともにサンジがエースに謝罪に来て、床に頭を擦りつけた。
「本当に…ごめん…」
ゼフが先に帰ってからも、残ったサンジは謝罪の言葉を繰り返す。
そんなサンジにエースは言った。
「俺は頑丈に出来てるから、あばらくれェすぐくっつくさ。それより、なんであんなことになったのか教えてくれるか? 理由もわからず謝られてもなぁ…」
サンジの性格上、そう言われれば黙秘できないのはわかっていてエースはそう言った。
ズルイ言い方だと自分で思う。
それでも、サンジのことは一つ残らず知りたいという気持ちのほうが大きかった。
即座にそれを後悔するとは思わずエースは続けた。
「今じゃなくてもいいから。言う気になったら教えてくれよ」
「だったら……今、言う…。……あのクソ野郎、俺のこと、色子だって言いやがったんだ…。それだけじゃねェ。ジジィとは寝てるのか、って聞きやがった」
エースは言葉を失った。
喧嘩っ早いサンジが店で小競り合いをするのは珍しいことではない。だから、無意識に、そんなに深刻なことではないと、タカをくくっていたようだ。
どんな言葉を返せばいいのか、わからない。
ようやく「そうか…」とだけ言うと、サンジは息を長く細く吐いて俯いた。
そうするとエースのいる側からは、長い前髪に隠れて表情が見えなくなる。
「ジジィの足、片方無ェの知ってるだろ? あれな、俺のせいなんだ…」
そう言って、サンジは語り始めた。
サンジとゼフは血が繋がってないのだと言う。
サンジの両親とゼフが知り合いだったらしいが、サンジの故郷が飢饉に見舞われてサンジがゼフのところに奉公に出されるまで、一面識も無かったらしい。
サンジがゼフの元に来てわずか数日後、数件先の家から火事が出た。
晩秋の乾いた強い風は瞬く間に火の手を広げ、ゼフの料理屋もあっという間に炎に包まれた。
「俺、来たばっかで家の間取りが全然わかってなくてよ、どっちに逃げりゃ外に出られるのか見当もつかなかった…」
まごまごしている間に、四方を火に囲まれた。
「もうダメだと思ったら、突然ジジィが現れてよ、こっちだって手を引くんだ。掴む力が強くて痛くて。火が熱いとか怖いとかよりも、手がもげるじゃねぇかこのクソジジィ!って思って。今考えれば、ほっとしたから、そんな悪態つけたんだろうけどよ……でもな……もげたのは、俺の手じゃなくて、ジジィの足だった…」
「え?」
「表が見えて、あぁ外に出られる助かるんだと思った瞬間、梁が焼け落ちてきたんだ。ジジィは俺を外へ放り投げて、自分はその梁の下敷きになった…」
会って間もない自分のためにどうしてそんなことをするんだと、サンジは泣いてゼフを責めたと言う。
せめて店の役に立つように仕事をしようと思っても、店は燃えてしまっている。店に居た板前たちは、店が再建するまで別の料理屋などへ臨時働きに出てしまっている。
どうぜ地理もわからねぇんだから、しばらく俺の身の回りの世話でもしてろとゼフは言ったが、サンジは少しでも稼ぎたかった。
そんなサンジは簡単に悪漢に騙されて、気付けばどこかの陰間茶屋に売られていたのだという。
エースは苦い唾を飲んだ。これ以上聞きたくない。
「もういい…」
思わずそう言ったが、
「ここまで聞いたんなら、最後まで聞いてくれよ」
最初はいやいや話し始めたサンジだが、話す内に腹が据わったのだろう。自分の心の中の膿を全部吐き出してしまう気になっている。
「俺さ、北の田舎育ちだからさ、色子茶屋に連れてこられたってことさえ、最初、わかってなかったんだ」
そりゃあそうだろう、北の田舎育ちじゃなくても色子茶屋の様子を知っている子供なんてそういない。
わかった時には当然逃げようとしたが、そんなことは相手はお見通しだ。
寝ても覚めても見張りが張り付いていたという。
もっともだとエースは思う。
逃げられたら丸損なのはもちろん、飢饉の影響で平均よりも小柄で華奢だったサンジが客を取れるようになるには半年以上掛かると思われていたらしいが、それだけ手を掛けてもいいと思える逸材だっただろうと思う。
だが、茶屋がゆっくり育てようとしても、客のほうは性急だ。
サンジの見目は良くも悪くも目立つ。ひと月も経たぬ内に水揚げを希望する者が出始めた。
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