初午(はつうま) #1
旧暦二月初旬頃(新暦三月中旬頃)
城下にはお稲荷さんを祀ったところが多い。神社はもちろん、長屋にはお稲荷さんの小祠が付き物だし、庭内に小祠を設ける屋敷や商家も多い。
そのためお稲荷さんへ詣でる初午の日が近くなると、狐の絵が描かれた絵馬売りの呼び声や太鼓売りのバチの音で城下はにぎやかになる。初午当日ともなればなおさらだ。この日は誰もがどこかの稲荷神社か小祠にお参りに行くのだから人の往来は当然激しく、絵馬売りの呼び声やら太鼓売りの音やら神楽の響きやらは一層にぎにぎしく、騒々しいことこのうえない。
これは寝てられぬと朝寝坊のゾロもさすがに起きだした。板前はとっくに出かけたらしく、夜具には彼のぬくもりがこれっぽっちも残っていなかった。
ゾロは朝飯を食いに『風車』へ出向いてみた。が、そこにも板前の姿はなかった。代わりにおナミがせっせとお膳を配っている。
『あいつはどうした?』
そう尋ねようとしたゾロに先んじて、ほかの客が聞いた。「今日はサンちゃんのメシじゃねェのか?」
「ご心配なく。ちゃんとサンジ君が作った御飯よ。だから食べてって!」
「姿が見えねェみてェだが…」
「うん、ちょっとお使いに行ってもらったの」
(お使い? 板前が配膳ほっぽらかしていくお使いとはなんだ?)
首を傾げたゾロは、ちょうどおナミが朝食のお膳を運んできたので、そっくりそのまま尋ねてみた。
するとおナミはにんまりと笑って答えた。「王子稲荷にちょっと油揚げと絵馬を奉納してくるよう頼んだの。ついでに出店も」
「えーーーーー」
「おナミちゃん、そりゃあ『ちょっとお使い』とは言わねェよ…」
店内のあちこちで驚きの声が上がる。
王子稲荷の場所がわからないゾロは皆が驚く理由がわからない。
どこだと隣りの客に聞いたら、ここから北上すること2里(8km)以上の江戸からはずれた地だと教えられた。
人家もまばらな場所だが、花見で有名な飛鳥山と、関八州の稲荷の総社である王子稲荷というふたつの大きな行楽地があるせい遊山客は多いらしい。
「でもおナミちゃん、去年までは長屋の小祠とココの神棚にお参りするだけだったじゃねェか。どういう風の吹き回しだい?」と客の一人が聞いたら。
「空島町の南瓜茶屋って知ってる?」
「知ってる知ってる。別嬪の看板娘が二人もいる水茶屋だろ?」
そう言ったらおナミが眉を吊り上げたの客たちは慌てた。
「いや『風車』だって別嬪が二人だよな。おナミちゃんとサンちゃんと」などと言いつくろった。
「ふんまぁいいわ。とにかくね、その水茶屋、初午に王子稲荷へ絵馬と油揚げを奉納してからぐんぐん人気が出たんだって!」
なるほど合点がいった。南瓜茶屋に負けじと王子稲荷へ詣でようというわけだ。
しかし2里以上もある道中を女の足で往復するにはちと遠い。と言って駕籠(かご)を使ったらお足が掛かる。
となれば当然のことながら
「サンジくーん、お願い」
ということになる。
そう言われてサンジが断るわけはない。
しかし参詣客を相手に商売までしてこいとは、いくらなんでもアコギな…。
「あらサンジ君だって『さすがナミさん、商売上手!』ってメロリンしてくれてさっそく5升の米で小豆飯作ってくれたわよ」
「それ持って王子稲荷へ行ったのか?」
「それとカラシ菜の味噌和えも4升」
皆の箸を持つ手が止まった。ゾロも絶句して目をまんまるく見開いておナミを見てしまった。
呆けたようにおナミを見ているゾロにおナミが言った。
「冷めるわよ」
我に帰ればお膳から味噌汁の香りがふわりと立ち上ってゾロの鼻腔を刺激している。
「そりゃあアイツ…ご苦労なこった」
ゾロはようやくそれだけ言って、サンジが残していった鶯菜の味噌汁をすすった。
一刻(約二時間)後。
「板前の兄貴はこの坂を飯とカラシ菜担いで行ったんですかね」
王子稲荷までの道案内を務めるジョニーが息を切らしながら言った。
「そうだろうな。ああ見えてめっぽう力持ちだからな」
ゾロは酒樽を担いで憮然とした顔で言った。
『風車』を出ようとした時に、おナミに言われたのだ。「あ、そうだ。アンタ、サンジ君のところにお酒届けてくれる?」と。
「お酒も売ればもっと儲かると思うのよ」
と悪びれずに言うおナミにむっとしてゾロは言った。「酒樽担いで王子稲荷に行けってか?」
「あら、サンジ君は小豆飯とカラシ菜を天秤棒に振り分けて持ってたわよ」
「……」
5升分の米を炊き上げると4貫(15kg)以上になる。それに4升(7.2L)のカラシ菜を合わせたら6貫(22.5kg)を超える。つまり――
アンタに頼む一斗樽(18L)よりもサンジ君が持っていった荷物のほうが重いわよと暗に言われたわけだ。反論しようもなかった。
巣鴨を過ぎると景色は里山の態をなし、野だったのか畑だったのかわからぬ広野には雪がこんもり残っている。
王子稲荷に向かう人の姿も冬支度の小旅行といった装束だ。
「こいつらみんな王子稲荷へ行くのか?」
「へェ、そうだと思いやす」
道すがらのあちこちの稲荷もにぎわっていたが王子稲荷の盛り上がりぶりは甚だしかった。
音無川を渡って王子稲荷の境内に入ると赤い幟(のぼり)が竹林のごとく立ち並び、土産物や食べ物の屋台が所狭しとひしめいている。
この中からサンジの出店を探すのかと思うと、さすがにげんなりした。
ところがサンジの出店は思いのほか早く見つかった。
「なんだこの行列は? おいアンタ、これ何に並んでるんだ?」
「美味い小豆飯が出てるってんで並んでるんだ」
これはもしやと行列をたどっていくと案の定サンジの出店だった。
「さすがですね板前の兄貴」
「ああ」
ゾロは自分が褒められたように誇らしげな顔をした。
えへんとふんぞり返りたい気分で酒樽を意気揚々と届けた。
「お、酒持ってきてくれたのか、ご苦労だったな」
とにっかり笑って言われて益々ゾロはご満悦になった。
「お陰で好評でよ、この分だと、あと四半刻(30分)もすれば売り切れそうだぜ。てめェらもさっさとその酒売っちまってくれ」
言われるままに小豆飯の隣で酒樽を開ける。
茶碗に注がれた酒をその場でぐいと煽る伝法な飲み方だが、なかなかこれがウケた。
小豆飯を買ったついでに酒を煽っていく客もいた。
客に注ぐ間にゾロの胃袋にも何杯か酒が落ちていった。
板前が「あ!」と声を上げたのは、何杯目かの酒をゾロが煽ろうとしていた時だった。
「おっさん、久しぶりじゃねェか! 元気にしてたか?」
弾むような板前の声が聞こえた。
さかずきから顔を上げてゾロがちらりと盗みみると、年は四十前後だろうか。変わった髭をたくわえた男がサンジの前に立っていた。武士の間では髭を生やすのが流行していたが、口髭をあんなふうに跳ね上げ、もみあげから顎鬚までが繋がっている髭など滅多に見ない。しかも妙に派手な赤と黒の着物を着ている。着物の文様もみょうちくりんだ。
「誰だ、あの傾(かぶ)きもんは?」
とゾロはこっそりジョニーに聞いた。
さあ?と言うようにジョニーも首を傾げた。
「なんだよ、さっさと声掛けてくれれば良かったのに、わざわざ並んでくれたのか?」
サンジはにこにこしながら男に小豆飯を渡している。
「これも俺が作ったんだ、食ってくれよ」と言いながら、からし菜の味噌和えも付け添えている。
「ところで、これは、おぬしが書いたのか?」
男は『小豆メシ…○○ベリー 辛シ菜味噌アヘ…○○ベリー』と書かれた品書きを見ながらそう言った。
言われたとたん、サンジの白い首筋から頬にかけて、ぱあっと朱が走った。そして恥じらうような表情でこくこくと頷いている。
ゾロの心に妬ましさと独占欲とが混じったむしゃくしゃした気持ちがぶわりと湧いた。
そのとたん、男が顔を捻ってゾロを見た。
(え? 悟られたのか?)
ゾロは思わずぎくりとして男を凝視した。
が、男はすぐに視線をサンジに戻して「その『風車』という店がおぬしの店か?」とサンジの前掛けを見ながら尋ねた。
「俺のじゃなくてナミさんの店だ。そこで板前やってんだ」
「どこにある?」
「筋違橋の近くだ。今度来てくれよ」
「うむ」
「約束だぜ」
サンジが浮かれた表情で地図を書いて男に渡す。
男は神妙な表情を崩さずにそれを受け取った。
「酒もつけようか?」
「いや要らん」
振り向いた男が、ゾロを見てふふんとと片頬を上げたような気がしたのは、気のせいだろうか。
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