いつだったか、今際(いまわ)のきわに何を食べたいか、という話になった。
深刻な話じゃ無ェ。食い意地の話だ。
ルフィは当然肉だと言い、ナミは蜜柑に決まっていると言い、ウソップは顔を真っ赤にしてカヤの手料理なんて言って散々冷やかされ。
その時コックは言ったのだ。
「食いもんはなんでもいいけどよ、死んだ後、土に還るってのは、俺は無しな。俺ァ海に還るんだ」
そう笑ったコックの髪が、キラキラ輝く水面(みなも)のように、光をはじいた。



凍てつく虹 #1




海に出れば、時化に遭うことなど珍しくもないことだ。
だが、珍しくないからと言って呑気に構えてはいられない。

青く広がる空の片隅に、暗い雲がぽかりと湧き出たかと思うと、それは急速に膨れ、成長し始めた。
瞬く間に不穏な雲が青い空を食い尽くしていく。雲は時折、放電して、ゴロゴロと唸りを上げる。

「取舵いっぱい!!」
航海士がオレンジの髪を風になぶらせながら叫んだ。
急な針路変更に、キャラベルがぐぅっと傾いて悲鳴のような軋み音を立てる。
船首の羊が首をかしげ、そのまま海面に身体を横たえるのかと思うほど、船が傾いた。
甲板が急斜面となって、何かに捕まっていないと、船から滑り落ちて海へ放り出されてしまう。
こういう時、能力者は危なっかしくて外に出しておけないから、自然と役割が分担される。
今、船内で舵を繰っているのはチョッパーだ。
見張り台で目視確認するのは目がいいウソップ。ゾロとサンジもマストを素早く登っていく。

舵がきられて傾いた船体が水平に戻ってきた。
「メインセイル、畳むぞ!」
あっという間に空を侵食してGM号の上空に迫る黒雲を見て、ゾロが叫ぶ。
雲はまだGM号の上空を覆うほどではないが、風は先にやってくる。突風でも吹かれたら危険極まりない。
メインマストを挟んで右の帆桁にゾロ、左にサンジが畳帆作業を進める。身体はラウンジに置いて手だけ伸ばしたルフィと、手を咲かせたロビンも一緒だ。
バタバタバタと風に煽られて帆が大きな音を立てた。

辺りはあっという間に暗くなり、その暗さが小さなキャラベルを包み始めた。
「「来るぞ!」」
作業を終えてデッキに飛び降りたゾロとサンジが叫ぶ。
その途端、バラバラバラと大粒の雨と暴風が船を見舞う。海が大きくうねる。
波の天辺と底辺の差は数メートルに及び、キャラベルをすっぽりと飲み込むほどの高さの波が次々に襲ってくる。

「長っ鼻! 大丈夫かっ!?」
見張り台の上のウソップに向かってサンジが叫んだ。
「大丈夫じゃねェッ!!」
マストにしがみついたウソップが叫び返す。
「だったら降りて来い!」
いくら目のいいウソップでもどうしようもないくらいの暗闇になっていた。

「ナミさん、ブラスト鳴らすか?」
「どうしよう…」
ナミは迷っていた。
嵐や霧で視界が閉ざされている時は、音響信号を鳴らして船の位置を知らせるのが、航海のルールだ。
だが、GM号は海賊船。ここに船有り、と知らせることが果たして吉と出るかどうか。
本来衝突されないように発した信号が、別の海賊や海軍を呼び寄せることになる可能性は充分ある。
「鳴らそうぜ」
船長がそう決断した。
「海賊や海軍ならぶちのめしゃ、いい。だがよ、衝突でメリーが沈みでもしたら、どうしようもねェ」
「そうよね」
ルフィの言葉に大きくナミは頷いた。

だが、数十分後、ナミは思いきり船長を罵倒していた。
「アンタの言う事なんて聞くんじゃなかったわ! この状況、どうしてくれんのよッ!!」



この状況とはつまり、目の前に海賊船らしき船が迫っていることにほかならない。
GM号よりひと回り大きいその船は、横幅が広くずんぐりとした形で、4本のマストがそそり立っている。
安産型のその形が安定を得ているのか、縦横両方向へ広げられた帆が航行を可能にしているのか、この嵐の中、メインセイルと上部のトップスルのみ畳んで、進路をきっちりGM号へと向けてくる。
広い甲板には、バカデカイ砲台が鎮座している。
その砲台から、早くも一発が放たれた。
「ルフィッ!」
「おうっ!」

およそ「弾」と呼ばれるものには、ルフィを盾にする。それが麦わら一味の戦法だ。
非道いなどとは言うなかれ。
それぞれの戦闘能力を活かしてこそ、麦わら一味は少数でも頭角を現しているのだ。

「攻撃は最大の防御なり」
敵がGM号に乗り込む前にこちらから仕掛けてやるとばかりに、ゾロが逸早く敵船に飛び移った。

「クソゴムは、ここで弾ァ食い止めろ。長っ鼻は砲撃。チョッパー、ラウンジのナミさんとロビンちゃんと舵を頼む!」
「ええっ、ナミとロビンと舵?」
焦った表情の船医に「頼むぞ」と告げて、サンジがゾロの後に続く。

「てんめェ、俺の分、残しておきやがれ!」
大技を繰り出して、敵をばたばた倒していくゾロに向かってサンジが叫ぶ。
「るせー、てめェが遅いんだろ!」
そう返事をしながらも、自分が今まで相手をしていた船首の敵を乗り移ってきたサンジに任せて、ゾロは船尾に走った。
船尾にも砲台がある。そちら側にはルフィがいないから、あの弾がGM号に当たったら厄介だ。
砲台を前にして、丹田に気を溜めて、一気に刀を振り下ろす。
こういうものを斬るのは力ではない。呼吸だった。
船首では、ドボンと派手な水しぶきが上がっている。
アイツも砲台を蹴り飛ばしたな、とゾロは口角を上げた。

いくら相手が海賊のなりをしていても、砲台や銃といった飛び道具に頼った力であれば、道具を奪ってやれば取るに足らない。
ウソップが放った砲弾が確実に船のブリッジやマストに命中していくのも手伝って、明らかに敵は怯み始めた。
しかも。
「コイツら、麦わらの一味じゃねェか?」
誰かが発したそのひと言で、どよどよどよ、と敵の間に硬直したような空気が広がっていく。
それだけで、勝敗はついたようなものだった。GM号のメインセイルである麦わらを被ったジョリーロジャーが畳まれていなければ、麦わら一味に手を出したりはしなかったのだろう。

もはや、相手は逃げることだけに必死だった。
一刻も早く退散しようと船の進路が変わる。
ぐわーんと大きく船が旋回し始め、もとより嵐で足場の悪い甲板が傾く。
雑魚どもが、バランスを崩して、濡れた甲板に脚を滑らせ海へと落ちていく。
そこへ嵐の激しい風が襲い掛かる。

「ゾロ、サンジ君、戻って!」

嵐の轟音と雑魚共が右往左往する雑音の中、ナミの声が響いた。
見れば、敵船とGM号の距離が今の暴風のせいでかなり開いている。
ルフィはまず、敵船の船尾のゾロに向かって手を伸ばした。サンジのほうがジャンプは得意だとわかっているからだ。
残るはサンジだけ。

「クソゴムの助けなんかいらねェぞ」
にやりと笑って、サンジが跳躍の姿勢を取った。
滑る甲板に足を取られないように、助走はつけない。
サンジはGM号に向かって舷縁から軽々とジャンプした。
    だが。

「サンジッ!」
「サンジ君っっ!!!」
「コックさん!」
口々に仲間が叫んだ。

『なんだ? 心配無用だぜ?』
そうサンジが思ったのも束の間、どん、と身体に何かがのし掛かり、それに絡め取られるようにして、サンジは海へ叩きつけられた。







ウグッ…

海水を飲みそうになって慌てて口を閉じる。
身体に何か大きく重たいものがまとわり付いて、海の底へと引きずりこまれる。
もがくうち、それが帆だと気づいた。
ウソップが放った砲弾か敵自らの銃の乱射かあの暴風か、はっきりした理由はわからないが、ロープがちぎれて敵船の帆のひとつが、マストからはずれたのだろう。
それがGM号へ飛び移ろうとしていたサンジ目掛けて飛んできた。
風に煽られて凧のように広がった帆は障害物…つまりサンジにぶつかって、サンジを巻き取るようにして、錐揉み状に海へと落下したのだ。

『やべッ!!』

手足を必死に動かそうとするが、簀巻きにされるように帆に拘束されて身動きが取れない。
顔の周りに布がまとわりついていないのがせめてもの幸いだが、水を含んだ重い布は、落下の勢いもあって、確実に暗い海へと沈んでいく。

肺の中の空気を早く使ってしまうが、もがかずにはいられない。
ようやく右肘から下の部分が動かせるだけの緩みができる。
その不自由な手で、スーツの内ポケットにある万能ナイフを探った。
獲物を捌くために果物の殻を割るために火を起こすために、その万能ナイフは常にサンジが携帯しているものだ。
折りたたまれたナイフを窮屈な布の中で開けば、サンジの胸に突き刺さる可能性がある。
だが、今は躊躇している暇はなかった。

うっ…

バチンと勢いよく飛び出た刃はやはりサンジの胸を浅くえぐった。シャツに赤い血が滲む。
だが刃の傷みよりも、息の出来ない苦しさのほうが今は深刻だ。
手首を動かして、必死に帆布に切り付ける。
だが、水を含んだ帆布は泣きたくなるほど頑丈だった。
簀巻きにされた内側から布を切り裂こうとすることがこれほど虚しいことだとは誰も知るまい。

はっ…っ…苦しい…息がっ…

アーロンパークの水中戦よりも、危機かもしれない。

クソ、この布さえ切れたら…

サンジは苦しい息の下で、万能ナイフを握り締める。

クソ、切れろ! 切れて…くれっ……!



苦しい…心臓が爆発しそうだ…くッ!!!……







心臓がドクンドクンと脈打ち、こめかみがギリギリと痛み、目の前が真っ赤になりかけた次の瞬間、ふわ、と首の後ろの帆布が後ろに引っ張られた。
そして、あっというまに背中側の帆布が切り裂かれ、蝉が脱皮するように、サンジの身体が帆布から引き出された。

だが、もうサンジの肺に空気は残っていなかった。
薄れゆく意識の中、帆布とは違う大きな暖かいものに包まれたような気がした。



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