凍てつく虹 #2




「…ック!…おいっ!」

背中をドンドンと強く叩かれて、サンジはガハッと水を吐いた。
とたんに肺に空気が流れ込んできて、大きくむせた。
ガハガハゲホゲホと繰り返し、むせた拍子に頭がガンガンと痛んだ。
それがどうにか収まって、マトモに息ができるようになると、朦朧としていた意識が、ようやく浮上してくる。
同時に、穴倉の中にいるかのように狭かった視界が徐々に広がって、サンジは自分の状況を確かめる余裕が出てきた。

目の前には海面が激しく揺れている。
自分は未だ海に浸かった状態だ。
だが、自分の身体は何者かの肩に顎を乗せて、立ち泳ぎのように浮いている。
その誰かの腕が、むせて激しく上下していた背中をゆっくりなでさすっている。
その手と、身体を預けるようにして支えられている状況に気づいて、はっと首を左に回した。
とたんに鼻先に触れた金属の感触に驚いた。
そしてその先に見えた横顔。

「うわぁああっ!!」
思わず身体が逃れようと反応してしまった。
だって、ドアップで見えた横顔は、散々喧嘩を繰り返しているゾロのものだったから。

「こ、こら、おい、マリモ、離れろ、クソッ!」
ついいつもの調子で口から雑言が零れ出る。
当然脚も連動してゲシゲシと蹴りつける様に動いてしまう。
そこへ、一喝するような鋭い声が飛んだ。
「暴れんなッ! 沈むぞ!」

沈む?

そう思った直後、ずるんと身体が海中にずり落ちかけた。
慌てて目の前の腕にしがみついたら、それみたことか、と言わんばかりの表情をされてムカついた。
だが、今は、そんなことにキレている場合ではない。
早く船に戻らねば。
ゾロがサンジを抱えて浮いていられたのは、海面にちらばる板のひとつにつかまっていたからだ。

見上げれば、GM号の甲板から、ウソップが何かを叫んでいるようだ。
風と雨と波の音で聞き取れないが、早く船に戻れ、と言っているのだろう。
船に繋がっている浮き輪を投げようとしているのが見える。

そちらへ向かって二人は泳ごうと身体の向きを変えた。
直後、嵐で激しく波打つ海面が、高く高く立ち上がる。

ッ!!!!

まるで黒い壁が突如出現したかのようにせり上がって二人に迫ってきた。
視界の端ではGM号が横倒しになるんじゃないかというほど傾くのが見えた。
だが、それも一瞬。

あっという間に、高波がゾロとサンジに襲い掛かる。
ゾロが咄嗟につかまっていた板をサンジにもつかまるように差し出さなかったらヤバかったかもしれない。
ひとつの板につかまったゾロとサンジは一旦沈みかけ、それから押し流され…。
それを繰り返してGM号からどんどん離れていった。







視界から完全にGM号が失われた時、サンジは、同じ板に捕まっている剣士をぼおっと眺めた。
帆布に巻かれてミノムシのようになって、溺死寸前だった自分を助けたのは、コイツだったんだな、と改めて思う。
先ほどまでは、自分の状況を把握することと、GM号に戻らなくては、という気持ちばかりが先行していたから、そのことに気づく間も無かった。

「あー、えーと…、さっきは助かったぜ…」
素直に、ありがとうというのは照れくさくて、なにしろ、喧嘩ばかりの相手だ、歯切れ悪くそんなふうに言ったら、
「まだ助かったわけじゃねェ」
と返された。

あぁ、そうだな。そのとおりだ。
だが、てめェがあの布を切ってくれなかったら、あそこで俺は死んでいただろう?

その感謝がどうも通じてないようだ。
きっとこういうところが、ゾロに「甘い」と言われるところだとはわかっている。ゾロの言うとおり、まだ命の安全は全く保障されていない状況だ。
それでも、さっきの感謝が伝わらないことが歯がゆいように思えるサンジだった。











海は過酷だ。
とりあえずは嵐の海に飲みこまれて藻屑と散る運命は免れたものの、冷たい海水につかった身体から、体力と体温が奪われていく。
ようやく嵐が過ぎれば、照りつける太陽が身体の水分を奪っていく。
たった縦長150センチ横幅50センチほどの板につかまったままで、一体どこまで行けるのか?

「なぁ、なんかしゃべれよ」

サンジは反対側の端につかまっているゾロに声をかけた。

サバイバルで生き永らえるコツは、気力だ。
自分も隣の緑髪の男も、精神力は相当タフなほうだろうと思うが、黙っているとどうも悪いほうへと思考は流れる。

「なんかって言われてもな…」
チラとサンジを見てからゾロはうーんと考え込んだ。
それからひと言。
「てめェと何話しゃいいんだ?」



それは何気ないひと言だったのだろう。
だが、そう言われてみると、改めて、二人の間に共通の話題なんてないことに気づかされる。
お互いが交わした会話なんて、喧嘩の時の罵りと、戦闘時に交わす短い言葉くらいなものだ。
そもそもサンジからゾロへ投げられる言葉で一番使用頻度が高いのは「食え」と「起きろ」で、ゾロからは「どけ」「普通に起こせ」の頻度が高い。
つまるところ普段は、罵詈雑言と命令文ばかりが交わされている。会話とは到底言えない。

確かになぁ…いったいコイツと何話せばいいんだ?

ははは、とサンジは乾いた笑いを発した。
せめてここにいるのが、長っ鼻だったら良かったのに…。
ウソップならウソップで、気弱な彼を叱咤激励する面倒があるのだろうが、それでも黙ったままのゾロよりはいいと思う。

サンジは脱力して、くて、と板の上に頭を預けて目を閉じた。
潮に浸かった髪が、日光で乾かされてゴワゴワするのが気持ち悪い。

人間は真水を飲まなくて、何日生きられるんだっけ?とサンジは考えた。
確か、2週間という驚異的な記録があった。
だが、こんなふうに半分身体が海水に浸かって、半分は太陽に炙られていれば、3日くらいが限度なような気がする。
第一、人間の身体は、水分を取らなくても、定期的に尿が出る仕組みになっているから、どんどん体液の濃度が上がってしまうのだ。
だから喉が渇くという感覚自体は強くなくても、脱水症状は進み、体内のバランスが壊れて生死を脅かす。

やべェ、やっぱ、黙ってると変なことばっか考えてちまう…。

なまじコックであることが仇になる。
身体を作るものや身体の仕組みに詳しすぎる。

目を閉じたまま、きゅと、サンジは眉根を寄せた。



一方ゾロは、目を閉じたサンジをじっと見ていた。
時折、きゅ、と眉根が寄せられる。
それを見るうち、サンジの睫毛が金色であるのに気づいた。
しかも長い。

へぇ…。

なんとなく感心して、目を閉じたサンジを観察する。
少し丸みを帯びた額は、ゾロの故郷の雛人形を思わせた。
その人形も、こんなふうに白くて丸い、つるんとした額をしていた。
額だけでなく頬も白い。
顎に生えたちょろりとした髭は、あの魚のレストランのじいさんの影響だろうか?
どう贔屓目に見ても、あんな立派な髭にはならなさそうだが。
顎の線を辿って視線を耳へ移動させると、視界に白いうなじが飛び込んできた。

ホント白いな…。

ノースの人間てのは、みんなこんなに白いのだろうか?

じっと見つめていると、サンジがカチリと目を開けた。
本当にカチリ、と音がしそうなくらい、綺麗に瞼が開く。

「ジロジロ見てんじゃねェよ!」

ゾロとしては、それほど強い視線を送ったつもりは無かったのに、サンジに気づかれてちょっと驚いた。
だが、コイツの戦闘能力を考えれば、気配に敏感なのも当然か。
うんうんと、勝手に頷くゾロを見て、サンジは更に嫌そうな顔をした。



結局、大した会話もないまま、2日が過ぎた。
状況は一向に変わらない。
板切れにつかまって漂流するばかりだ。
島影も見えない。船も見えない。
人間の心とは、やはり脆いもので、まだ、たった2日だというのに、どんどん気が滅入ってくる。
特に水が飲めないのが苦しい。喉は渇くというより、ひりつくような痛みを持ち出している。

「クソ、雨雲、全然無ェな…。スコールも来そうにねェ…」
冷たい雨は体力を奪うが、この渇きには変えられない。
白い雲ばかりで雨雲が一向に見えない青空にサンジは、つい、そうこぼした。
恨めしげに空を見るサンジにつられてゾロも空を見上げる。

っんとに雨雲なんて全然無ぇな。白い雲ばっか、のん気に浮かんでやがる…。
喉渇いたな…。
腹も減った…。

そう思ったとたん、サンジが、くわ、と目を見開いた。
そしてその瞳が、哀しみに彩られる。

なんだ? どうした?

驚いてサンジを見つめると、小さな声が返ってきた。
「悪ぃな…」

それはとても小さな声で。

ゾロは、自分の失敗に気づいた。
空を見ながら思ったことが、声に出ていたらしい。

サンジが飢えている者に、異様と言ってもいいほど寛容なのをゾロは知っている。
初めてサンジに会ったその日、レストランを襲った海賊に、コイツは飯を食わせてやった。
海賊のボスが乗り込んできた時も「食いたい奴に食わせてやる、それがコックだ」と、仲間に武器をつきつけられながら、そう言った。
どうしてそういう考えを持つようになったのかの詳細をゾロは知らない。
それでも、この金髪のコックが、飢えた人間をひとりたりとも出したくないという信念を持っていることはよくわかっている。

今自分が飢えているのはサンジのせいではない。
それでもこのコックは、傍に居ながら飢えを満たしてやれない自分を、役立たずだと思うのだろう。

「島についたら…」
「あ?」
「島に着いたら…或いは船に救われたら、てめェの飯、いっぱい食わせろ」

そう言うと、サンジは、「けっ!」とひと言返してそっぽを向いた。
背けた向こうで「クソ、マリモのくせにっ!!」などとブツブツつぶやいている。



それをゾロは聞いて思う。
まだ俺たちは大丈夫だ。
コックは俺の腹を満たしてやりたいと思い、俺は、それが出来ないで消沈するコックの心を推し量ってやれる。
まだ互いを気遣ってやれている。
俺たちは、まだ大丈夫だ。







それから更に2日。

海の天候は変わりやすい。
瞬く間に黒い雲が空を覆った。
強い風が吹いてくる。
波が高くなって、白い飛沫を盛大に上げながら砕け散る。
雨の真水を受け取ろうと口を開けていれば、雨水でなく、塩辛い波が、ザバァっと口に入ってくるほどだ。
荒れ始めた海で、二人は、全力で板にしがみついていた。
両端にしがみついていると、真ん中から板が割れる可能性がある。
だから自然と身体が寄り添った。
そしてそのまま、板と共に荒れた波に飲みこまれた。



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