TRUE NORTH #2


その日ゾロは、いつものようにラウンジに遅れてやってきた。
朝食を取り、「ごっそさん」と立ち上がる。
半分ほどしか手をつけられていない朝食に、皆は一瞬いぶかしんだが、サンジの料理で無かったことが原因だろうと、深く気に留めはしなかった。
が、その直後。
ラウンジの扉の外で、ドサッと重い音がした。
今しがたラウンジから出たばかりのゾロが、倒れていた。

ゾロが倒れている。血も流さずに。
――――そんな光景に見慣れている者はいない。
だから、いつものように寝ているのだと、皆は思った。

「ちょっと、こんなところで寝ないでよね!」とナミが言い。
「邪魔だぞ、おい」とウソップが言い。

ややあって、動かぬゾロの身体をぺしぺしと叩いた船長が「なんだぁ? ゾロ、すげェ熱ィぞ?」と首をかしげたところで、ようやくかつてない事態が起こっているらしいと皆が気づいた。
「チョッパーーッ!」
大声で呼ばれた船医は、ゾロを見るなり、「みんな離れろっ!」と医師の声でもって一喝した。
ゾロを取り囲んでいた輪が、ザザザっと飛びのいて距離を取る。

「な、なんかヤベェ病気なのか?」
恐る恐る尋ねたウソップにチョッパーは「診察してみないとわからねェ」とひと言返して、ゾロを診察し始めた。



「多分…スラザ熱だ…」
診察のあと、いまや名医としても名高いトナカイが、沈痛な面持ちで皆にそう告げた。

「ス…なんだって? いや、名前はいいが、それって、ヤベェ病気なのか?」
蒼ざめた表情で、勇敢な海の戦士ウソップが聞く。
緊張が走るクルーに、チョッパーはゆっくり、しかし、しっかりと頷いた。

「極めて致死率の高い病気だ…」



<スラザ熱> 
潜伏期間:約1か月
感染経路:感染している動物の死骸に接触した時、傷口などから血管へ菌が入り込み感染する。
人の体内に入ると、その形を変え…そのため、人から人へは感染しない…、約1か月後に、爆発的な増殖を見せ、発症。
増殖の際に毒素を出し、これが身体に回って高熱、喀血、下痢症状を起こす。体力の無い老人や子供の場合、ほぼ100%が死に至り、成人でも致死率は極めて高い。また、症状が引いた後も、完全に体内の菌を死滅させるためには、最低でも1年は投薬治療を必要とする。



「潜伏期間が1ヶ月ということは、陸にいた時、感染したのね…」
ロビンによって読み上げられた医薬書の文言は、船の空気を一気に重たくさせた。
「ちょっと待てよ! 戦いじゃなく病気で死ぬ大剣豪なんて、そんなバカバカしい話ってあるかよ!」

誰もが同じ想いだった。ゾロは、戦って死ぬ男なのだと、誰もが思っていた。病原菌に犯されて死ぬなんて、そんな最期を誰も思っていなかった。

「どうしてよ! アンタと合流したって、先週サンジ君に連絡したばかりなのに!」
ナミの言葉に、重たい空気はさらに沈痛な色を帯びた。
世界の魚が集まる海へ到達した、海賊王の司厨長は、今、別行動をとっている。
オールブルーに留まることなく再び仲間との航海を選択した彼は、独りで国を治め奮闘していた某国女王がようやく伴侶を迎えるというので、その結婚式の料理全権を依頼されたのだ。そのため10日前に女王からの迎えの船に移って別行動を取っていた。
そのサンジに、私たちゾロと合流したわと連絡したのは、つい先週のことだった。

大剣豪になったゾロに挑戦してくる剣士は、引きも切らない。
だが、ミホークとゾロの最初の戦いのように海上で決闘が行われることは珍しく、決闘の場所は大抵陸地だ。そのたびに、麦わらの船は沖合いでゾロを待つ。
しかし、何度目かの戦いの時、ひどい嵐で、船が島に立ち寄れなかった。3日後に島を訪れた時、青い空に嵐の黒雲が一片たりとも見つからない呆気無さ同様、ゾロの所在も消えていた。
それから約半年。うろうろと移動してしまうゾロの足跡を辿って、ようやくゾロと合流した。

合流の少し前に、サンジは、某国女王の結婚式のために離船せざるをえなかった。
ナミから「迷子捕獲完了」の連絡を受けた時、彼は「へぇ、じゃぁ今度、俺が戻る時にはクソ強い酒でも持ってかえってやるか」と電伝虫の向こうで笑ったのだ。

それなのに。
あの料理人は、この現実をどう受け止めるだろう。







「うほおー、ナミさんっ! 俺、今朝船降りて☆☆国に無事入国したよってナミさんに連絡しようと思ってたところなんだ! そのタイミングで電伝虫が鳴るってやっぱりナミさんと俺って以心伝心、相性ばっちりだね〜〜〜!」

電伝虫が繋がったとたんハイテンションな出迎えを受けて、ナミはいっそう心が重くなる。
「ねぇ、サンジ君、伝えなくちゃならないことがあるの。…落ち着いて聞いて」
ナミの声音から、ただならぬことだと察したのだろう。
ただちにハイテンションはなりを潜め「何か、あった?」と静かな声が問いかけた。

「………というわけなの…。……サンジ君、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ、ナミさん」
「すぐ帰れそう?」
「いや、ナミさん。俺は帰らないよ」
「どうして! ゾロが死んじゃうかもしれないのよ! そうしたら、もう会えないのよ! サンジ君の料理人としての誇りは、私だってよくわかってる。でも、これが最後かもしれないのよ。料理はまた出来ても、ゾロに会えるのは最後かもしれないのよ!」

「ナミさん、落ち着いて聞いて。
俺は、レディにとって生涯で一番晴れがましい時を任せてもらった。それなのに野郎の凶事を理由に俺が帰ったら、レディが一番輝く最高の吉事に不吉なものを呼び込むことになる。それだけはしたくねェ。今まで国のためだけに生きてきたレディが自分の幸せを掴もうとしてるんだよ。その輝かしい門出に、一切の黒点も落としたくないんだ」

わかっていたけど、自分よりたった2歳年上の剣士と料理人は、やっぱり男なのだとナミは思う。
恋人同士なら、そこに性差などないと思っていたのに、男同士の関係は、男と女の情愛では計り知れない。大事な人の最期かもしれないのに、レディを悲しませないために、サンジはここに残ると言うのだ。



これだから男って嫌だ、とナミは思う。
いつだって、感情ひとつで動けない。主義や道理や約束が無ければ動けない。
女を感情的だと人は言うけれど、感情で動けない男は、実はずっと女よりどうしようもない。
愛する人を死なせたくないと、ただそれだけで「争うな」と言える女と。
正当性と理屈と条約が無くては争いを止めるテーブルにもつけない男と。
一緒にいたいからと、ただそれだけで離反した仲間が戻ってくるのを許せる女と。
そこに道理と筋道とが無いと、受け入れられない男と。

やっぱり男のほうが愚かだと、ナミは思う。

そう言うと、サンジは言った。
そのとおりだよ、と。
温かくて柔かくて、道理も理屈も無く、ただ愛してると、それだけで無条件で許しを与えてやれるレディの腕に、かなう男なんて居やしないんだ。

「そこまでわかってるくせに、帰ってこないのね?」
「そう。そんなレディに、少しでも感謝の気持ちを届けるために」
「あんたらしいっていうか…莫迦っていうか…」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
「ゾロに言っておくわ。サンジ君は、ゾロより女を取ったのよ、って」
「ああ、必ず伝えてくれよ。てめェより、俺はいつだってレディが大事だ、と」

必ず、とサンジは繰り返した。
伝える内容なんてなんでもいいのだろう。逝くんなら、自分からの言葉をたずさえて逝け、ということなのだ。

「男なんて莫迦で大嫌いよ!…」
「俺はナミさんが大好きだよーー」
「莫迦っ!」
ナミはそう言って、電伝虫を置いた。



スラザ熱の主な症状は、高熱、喀血、下痢。
高熱で汗を出し、口からは血を吐き、肛門からはすでに固形物など無いくせに汚水が出てくる。身体の穴全てから、体液が絞り出されてくる。
こうなると鍛えた身体も筋肉も、痛みに強い身体も、なんの役にも立たない。
細胞から水分が失われ、チョッパーは脱水症状を食い止めるのに必死だ。
おまけに、汗も血も、ヘドロのような異様な匂いがする。
大剣豪の称号を持つ身体が、腐っていく。
そんな恐怖にかられたのはナミだけではない。
異様な匂いの汗をだらだらとかきながら呻き苦しむゾロを気丈に正視できるのは、医者であるチョッパーと船長ルフィくらいのもので、冷静なロビンまでもが蒼ざめて目をそらした。

「サンジ君はもしかして、こんなゾロを見たくなかったのかしら?」
ロビンに身体を預けるようにして、ナミはつぶやいた。
「コックさんが、逃げた、とでも?」
「だって、誰だって、好きな人が苦しむ姿を見たくないじゃない」
「アイツがそんなタマかよ…」
近くにいたウソップの声がそこへ割り込む。
「サンジはな、ゾロが苦しんでいたら、見舞いだと言って蹴りの一発くらい入れてやる奴だ。そのくせ回復祝い用にゾロの好きな酒を買い込んで、こう言うんだ。『味わって飲め。無駄にガブ飲みすんじゃねェぞ、クソ剣豪』」
その真似がサンジにそっくりで、ナミとロビンは笑った。
そうよね。サンジ君て、コックさんて、そういう人よね。

それからひとしきり、ゾロとサンジの真似やら口癖やらを3人で披露し合って笑った。
笑って笑って、それからちょっぴり泣いた。

「「「だから、ゾロ、さっさと元気になれよー!(なんなさいよー!)(なってね)」」」

瞬く星を見上げて大声で言ったら、それを聞きつけた船のクルーが、新入りも中堅もみんな甲板に出てきて夜空に叫んだ。
「大剣豪、さっさと元気になりやがれ!!!」



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