遠月点アダージョ #1


冷気がピリリと頬を刺す。
こんなに山深く来てしまった。自分は海の男だというのに…。

山の春は遅い。里はすでに花々の黄色と空の青で彩られていたが、一歩森へ踏み込めば、春は一気に遠のく。足元にも木々の梢にも、まだあちこちに雪が残っていた。
朝日が昇った今でも吐く息が白いのだから、夜の冷え込みは相当のものだろう。
サンジは、長いステッキのようなもので足元を探りながら、慎重に森の奥へと進んでいた。だが、その慎重さとは裏腹にステッキを握る手は時折せわしなく揺れ、焦りが隠せない。
「クソッ…早くしねぇと間に合わねぇかも…」
サンジは小さく毒づいた。
その手が黒スーツの内ポケットを探る。
取り出した煙草を銜えて火をつけようとしてまた「クソッ」と毒づき、光を弾く髪を神経質そうに振りながらフィルターを噛み千切った。
山中で煙草は厳禁だった。小さな火種が山火事を起こすことだってあるからだ。



 ◇ ◇ ◇

黒いスーツに身を包んだ金髪男がふらりとその村にやってきたのは、昨日の朝のことだった。やってくるなり金髪は言った。
「ロロノア・ゾロが現れたって聞いたんだが…」

村はその時、殺気立っていた。ロロノア・ゾロらしき剣士を、村の屈強な男たち総出で追い払った直後だったのだ。
その剣士が確かにロロノア・ゾロだったのかどうかはわからない。刀も白鞘をひと振り持っているだけで、3本差してはいなかった。皆、剣士が放浪してきただけだと思っていた。緑髪と3連ピアスが手配書まんまだと気づいたのは、村の子供だった。
「おっちゃん、ロロノアそっくりじゃん! でもロロノアの真似すんなら、刀を3本持たなきゃダメだぞ!」
子供の声に大人たちはしげしげと緑髪の男を見た。刀こそ1本しか差してないものの、手配書のロロノアに瓜二つだった。

当然のことながら、のんびりとした村のムードは一気に騒然となった。
海軍に通報したが、今まで大事件など起こったことの無い村だったから、近くに海軍など常駐していない。海軍が到着するのは早くても2日後だろう。ましてや今回は「ロロノア・ゾロが現れた」のではなく、「ロロノア・ゾロらしき人物が現れた」ということで、軍の動きは迅速でない。
結局、軍が来るまで待っていられないということで、村の自警団が出動した。ロロノアを打ち負かそうとか捕まえようなんてことは、これっぽっちも思っていない。とにかく、この村から出ていってほしいだけだ。
だが、すでに神経が立っていた村は、賞金首の男には穏便な交渉など通じる筈がないと誤判した。そして無謀にも、武力行使―――つまり猟銃を向けることで彼を追い払おうとしたのだ。

「で、そのロロノアもどきは、山に逃げたんだな?」
黒スーツの男…サンジは、話を聞き終わって、もう一度確認するように聞いた。
「あぁ、そうだ。奴は森の奥へと入っていった」
「じゃぁ、どうして、この村はまだ厳戒態勢のまんまでピリピリしてやがるんだ? 追っ払ったんじゃねェのか?」
「森の向こうは谷なんだ。谷を越える橋はひとつしかない。奴がその橋を見つけられなかったら、またこっちに戻ってくるかもしれないんだ」
「だが奴は村人に攻撃してこなかったんだろ? だったら、橋のほうへうまいこと追い詰めりゃ良かったじゃねェか」
「奴は道を逸れて森の奥へと逃げてったんだ。森の奥にはハヤニエが残ってる。そんなとこ、誰も行きたがらねェよ」
「ハヤニエ?」
「大型獣用の仕掛け罠だ。昔はあの森にクマが出ることがあったからな。今はもうクマはいねェんだが、昔仕掛けた罠は、そのまんま残ってる…」



「ハヤニエ」はえげつない罠だった。
獣がトラップを踏んだら、ワイヤーで出来た大小の輪が跳ね上がる。ワイヤーが獣を捕らえるや、輪が締まって、瞬時に胴と脚をくびる。しかも同時に脇から斜めに短槍が飛び出すから、それが身体の中央に命中すれば串刺しだ。「ハヤニエ」と呼ばれているのはそのためだ。
槍が脇腹や肩を掠めただけだったとしても、くくりワイヤーは、もがけばもがくほどに輪が締まる造りだ。逃げようとすると逆に身体に食い込む。力任せに暴れて、胴くくりのワイヤーに内臓をズタズタにされた獣は数知れない。
その罠が、クマがいなくなった今でも、仕掛けられたまま残っていると言う。仕掛けるのは簡単だが、外す時には相当注意しないとバネが跳ね上がって自分が罠の餌食になるから、放置されてしまったらしい。



 ◇ ◇ ◇

「冗談じゃねェよ、ったく…。物騒な罠、残しやがって…」
村の連中から手渡されたステッキで罠の有無を確認しながら進むのは、気の短いサンジの性にまったく合わない。溜息と毒づきが、何度も零れる。
だが、確認せずに進んでうっかり罠に掛かったら、まさにミイラ取りがミイラだ。
わかっているけど、気は焦る。ハヤニエのことなんて、ゾロはこれっぽっちも知らずに森へ入っただろうから。

すでに昨日一日、サンジはゾロを探して森を歩いている。
最初に向かったのは橋だ。村から谷を越える橋まではちゃんと一本道がついている。この道をゾロが進んだのなら良かったのだが、道を外れて森の中に入ってしまうところがロロノア・ゾロなる人物だ。
それでも、その橋にゾロがたどり着いて渡った形跡があれば問題ない。自分も橋を渡ってゾロの足取りを追うだけだ。

だが、橋付近に残る雪には、それらしき足跡は残っていなかった。
谷に掛かる橋の向こうも山だったが、森でなく野が広がっているせいか、さっさと春が来ているようで、日の当たる野にポチポチと青い色が見える。遠すぎてわからないが、花であるのだろう。
ゾロはどうやら、谷向こうの春の野でなく、いまだこちらの冬の森に留まっているらしい。

(まだ、歩き回っているのか、それとも罠に掛かっているか…罠に掛かったとすれば最悪、串刺しってわけで…。いや、アイツがむざむざ串刺しになんかされねェだろうが、相当の怪我はするだろう)
怪我だけじゃない。罠に掛かって動けなければ、暖も取れずに寒冷の夜を越さねばならない。となればいくら魔獣だろうが、失血と冷気で凍死しかねない。

「あの迷子野郎! 道を歩いてても迷うくせに、わざわざ森の中になんか入ってんじゃねェ!」
サンジは、情緒安定剤代わりの煙草が吸えない分、余計に苛立って金の髪をかきむしった。
こんなことならチョッパーを連れてくるんだったと思う。
ゾロがハヤニエに掛かっていなかったとしても、互いに歩き回っていればすれ違う可能性は大きい。
そんな時、人間の五感よりももっと役に立つものは臭覚だ。チョッパーならこの森の中で、自分よりうまくゾロを見つけられるだろう。
だが、不幸なことに、今、トナカイはいない。サンジ自身でどうにかするほか無いのだ。

「仕方無ェ…一旦、小屋に戻って出直すか…」
サンジは、コンパスを取り出して方角を確認し、昨晩、寝泊りした炭焼き小屋へと歩き出した。



森の中に、炭焼き小屋があると教えてくれたのは村の連中だ。
冬の間は寒さがきつくて誰も使ってないと言う。春の足音がようやく聞こえてきたばかりだから、まだその小屋は無人のはずだと言う。

ゾロが橋を渡った形跡が無いとわかった時、サンジの脳裏に浮かんだのは、その小屋で寝こけてる剣士の姿だ。
だが、サンジの期待を裏切って、ゾロはそこにはいなかった。小屋の扉を開けた時、サンジを迎えたのは、淀んだ冷たい空気だけだった。

結局その小屋は、その後迷子剣士を捜し回って疲労したサンジの昨晩のねぐらとなった。薪は豊富にあったし、井戸も枯れていなかったし、一番寒い時期は過ぎていたから、サンジがちょっと気合を入れて片付ければ、そこはすぐに居心地のよいものに変わった。
コンロも鍋も使えて、軽い食事も作った。ベッドの寝具はカビ臭かったが、干草を取り替えて、持参している大判のケットにくるまれば問題なかった。
それなのに、ゾロの行方が気掛かりでぐっすり眠れなかったことが腹立たしい。

その炭焼き小屋に戻って、「ハヤニエに気をつけろ」「ここの小屋に来い」という張り紙を大量に作ろう。そして、手当たり次第に木に貼り付けてやるのだ。
こちらが臭覚を働かせて見つけることができない分、アイツが、こっちに近づいてくればいいのだ。

「あの野郎、手間ばっか掛けさせやがる…」
サンジはブツクサ言うのをやめられない。
それが心配と不安の裏返しであることは、悔しいことに当の本人も気づいていた。まっすぐ小屋に戻らずに未練がましく辺りを探りながら迂回路を通っているのは、そのためだ。
正直なところ、小屋に戻る手間だって惜しい。ここに紙とペンが無いのが悔しいとさえ思う。張り紙を作りに戻るのが「急がば回れ」の手段だとわかっているが、本当は一刻も早く見つけたい。

その思いが天に通じたのか、森のある一角を通り過ぎようとしたとたん、空気が変わった。ヒリリ、とサンジの肌を刺す気配。
ふ、とサンジは息を吐いた。
(…こんなとこに、いやがった…)

お決まりの腹巻姿が、枯れた下草の中に横たわっている。
ワイヤーで胴と腕を絡め取られて、転がっていた。
槍はどうやら身体を貫いていないようだ。
「ゾロ…」
ほっと安堵して一歩近づこうとして、サンジはビクッと足を止めた。
横たわる人物が、無言のまま、目だけをぎょろりと動かして射殺すようにサンジを見たのだ。
そして同時に放たれたのは、電流のような激しい剥き出しの殺気。豪胆な者でなければそれだけで逃げ出すほどの激しさだ。

『あぁ、うかつに近づいたら殺されるな…』
とサンジは思った。
(奴は強ェ。闘う者としてのプライドも半端じゃねェ。そして罠に掛かって手負いときてる。たとえワイヤーにくくられていようとも、ここは慎重にいかねばなるまい。なにしろ…この様子じゃ多分…)

ゾロの唇が動く。
「てめェ、誰だ…」

あぁ、やっぱり…。
ロビンちゃん、聡明なあなたのおっしゃるとおりです。コイツ、俺が誰か、わかってねェ…。



 ◇ ◇ ◇

いくつか前の島のこと。
麦わらの一味は海軍に出くわして、海と陸とに仲間が分かれた。
落ち合う場所は決めていたのに、やっぱりというか案の定というか、剣士は現れなかった。
途中まで一緒にいたチョッパーは、自分が見失ったせいだと自分を責めた。
「アイツならなんとかしてるわよ!」というナミのことばを筆頭に、一同は「そのとおり、ゾロなら問題無い!」と太っ腹な気持ちでいた。
だが、一味の中で一番年下の青鼻のトナカイが自責の念で泣くのは耐え難く、結局、迷子の捜索が始まった。

最初はそんなふうに、大した心配もいらないと思って、チョッパー以外の全員が余裕の気持ちだったのだ。
それがいきなり、深刻なものに変わったのは訳がある。

かなり離れた街に剣士らしき人物がいるとの情報得たが、そこへ麦わら一同が到着した時、すでに剣士はその街を出たあとだった。
それだけなら問題なかったのだが街には、刀が二本残っていたのだ。黒鞘「雪走」と妖刀「鬼徹」。
三刀流が刀を置いていく筈がない。ということは、噂の人物はゾロではなかったということだろうか。

「あるいは、剣士さんが自分を三刀流だと自覚していないか…」
ロビンがぽつんとつぶやいたその言葉は「ゾロだから大丈夫だろう」というのんびりしたムードを一掃するに十分だった。
「ロロノア・ゾロ」の記憶が無いゾロは、賞金首として狙われる自覚も無いだろう。無防備に海軍の前に進み出る可能性は大いにある。
捜索は、剣士に関する小さな情報も漏らすまいと必死なものに変わった。
複数の異なる情報に同時に探りを入れるためには、別行動も止むを得ない。
そうしてサンジはひとり、船から一番遠い島へやってきたのだ。

そしてこの森でようやく彼を見つけた。
ロビンが推測したように、「彼の姿をした、彼でない者」だったけれど…。



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