遠月点アダージョ #2


サンジは罠にかかった剣士を見た。
一歩近づけば、びりびりとした闘気を放ってくる。
(さすが、手負いでも魔獣だよな…)
いやむしろ、手負いだからこそ厄介だ。

ワイヤーは頑丈だ。熊を仕留めるためのものだから当然だ。
ガレオン船を蹴り砕けるサンジであっても、さすがにこれは難題だった。
蹴り砕くこと自体は出来るだろうが、宙に浮いたワイヤーをコンカッセで地に叩きつけると当然ワイヤーが引っ張られる。すると輪が締まってゾロの胴が引きちぎられてしまう。
ペンチ、もしくは、鉄を斬れる剣士の技でワイヤーを切るのが最良の策なのだろうが、あいにくペンチは持参していない。鉄を斬れる剣士殿は、自らが罠にくびられ中だ。

「おい、ちょっと聞け」
サンジは手負いの獣を煽らないよう、ことさら静かに言った。
「コイツぁ、でっけェペンチか何か使わねェと切れねェ。とりあえずワイヤーを取りつけてある木のほうを蹴り砕くからよ、てめェはじっとしてろよ。いいな?」

ゾロからは返事が無い。だがサンジはそれを気にせず、気を溜めて足を振り上げた。
戦闘力の劣る者だとたとえサンジが『木を蹴る』と告げておいても、振り上げた足や戦闘モードに高まったサンジの気が自分に向けられたものかもしれないと動揺して暴れてしまう。
だが、この男に、そんな心配は無用だ。
たとえ記憶が無くても、くくり罠に掛かったと判るや無駄な動きをせずにいた男だ。サンジが敵であろうと味方であろうと、今自分が動くべきか否かをこの男は冷静に判断するだろう。

バキッという音と共に、サンジはくくり罠をとりつけた幹の、数十センチ上の部分を正確に蹴り飛ばした。蹴った幹がゾロのほうへ飛んでいかないよう、角度も計算した。
サンジの見込みどおり、ゾロは微動だにせずにいる。
サンジはナイフを取り出して、幹を削り、幹に食い込んだワイヤーを取り外した。
外れたワイヤーの端を、いまだ括られたままのゾロの手に渡してやる。
そうすることで、自分がくくり罠を仕掛けた者でないことと、ワイヤーを引っ張ってゾロを苦しめるつもりもないことを示したつもりだ。
それでようやくゾロは、警戒は解かないもののあからさまな闘気は引っ込めた。

その様子にサンジは思わず笑い出しそうになる。
『猛獣使いってのは、こんな感じかもしんねェな〜』と言いそうになる口を慌てて引き締める。
「そのワイヤー、ペンチで切ってやるから、ついてこい」
笑いが零れないよう早口でそう言って、サンジはスタスタと歩き始めた。



黒いスーツの男の数メートル離れた後ろを、ワイヤーで上半身を括られた男がついて歩く。
それは、はたから見たら、ちょっと異様な光景だっただろう。
黒いスーツの男は決して後ろの男に手を貸さない。だが時折、チラ、と後ろの様子を盗み見る。
手を貸さないのは、ゾロが自分を未だ警戒しているからでもあるが、それだけではない。独りで歩かせることで、サンジはゾロの足の運びや身体の状態を確認していた。

(普通に歩けているな。ということは足は問題無ェ)
(手の神経もイカれてねェ。さっき、ワイヤーの端を渡した時に、握る様子を観察してわかっている)
(胴周りに絡まったワイヤーで出血はしてるが、内臓には達してねェな。歩き方に全然腹を庇う様子がねェもんな)
盗み見たり振り返ったりしながら、サンジはゾロの様子を確認する。
    
その結果、わかったことと言えば…
(問題あるのは、頭ン中だけか…)
喜んでいいのか、悲しむべきなのか。
とりあえずサンジは、くくり罠にかかっておきながら身体が大して壊れてないことに安心した。



 ◇ ◇ ◇

「おら、入れ」
炭焼き小屋に入るよう促したが、ゾロは入口で一旦立ち止まった。そして警戒しながらそろりと中へ入ってくる。本当に獣っぽい。
サンジは笑いを堪えるのに必死だった。記憶が無いことより、とりあえずゾロを無事に回収できたことで安堵したのか、どうも口角が上がって仕方がない。それを隠すようしながらペンチを探した。
やがて道具箱が見つかった。
一番大きなペンチを取り出し、バチンとワイヤーを切る。
切ったとたんに、輪っか状になっていたワイヤーが広がってブンッと空気を裂いて飛ぶ。

「おわっ!!!」
サンジは仰け反るようにしてそれを避けた。飛んでいったワイヤーはビシっと音を立てて木の壁に激突して落ちる。
もう一本のワイヤーも同じように切ったとたんに広がって、サンジの黒いスーツを掠めた。鞭で打たれたような鋭い痛みに思わずしかめっつらになった。
「クソッ、迷子野郎を助けて、俺が痛ェ思いするなんて割りに合わねェ!」

いつもなら、こんなことを言えば、ゾロは「なんだとクソコック!」とすかさず反応してくる筈だ。だが、今のゾロは、何も言わずにじっとサンジを見たままだ。
(コイツ、ホントに記憶が無ェんだ…)
サンジは、何か切ないような気持ちでゾロを見た。
記憶が無ェ世界ってのは、どんなだろう。
少なくとも、今のコイツに、世界は優しくない。
身に覚えが無いことで、人に追われるんだ…。

咄嗟にゾロを抱きしめそうになって、思いとどまった。ゾロはまだサンジを「味方」と認めていないだろうから。



実際、ワイヤーにくびられた傷口を見ようとしたサンジを、ゾロは近づけようとしなかった。
「自分でやる」
そう言うゾロに、サンジは仕方なく消毒液と止血の布と包帯を放ってやる。
血の滲むシャツを脱ぎ捨てると、引き締まった身体が現れた。
その身体を見たとたん、サンジは、う、と息を詰めた。
傷が…酷い。

派手に出血していたが、普通にサンジの後ろをついてきたから、大したことがないだろうと思っていた。
だが今、覆うものを取り去って現れた傷は、思った以上に酷い。
ワイヤーの痕の周辺が肌の色ではない。肉の色だ。
内臓まで食い込むことは免れているが、やはりくくり罠の構造を理解するまでの間、罠を外そうともがいたのだろう。
肌の表面が削ぎ取られるようにえぐれて、皮膚の下の肉が見えている。
なによりサンジの胸に突き刺さったのは、背中にも、ぐるりとその傷が走っていることだ。
(アイツの背中が…)
思わず顔がくしゃりと歪むのを止められなかった。
記憶のあるゾロだったら「敵につけられた傷じゃねェんだから恥じゃねェさ」と言うだろうと想像はつく。
それでも、いつしかゾロ本人よりサンジのほうがゾロの背中が大事になっていたのだ。

そんなサンジの動揺をよそに、ゾロは豪快に消毒液を傷口にぶちまけた。
ぐ、と奥歯を噛みしめたような表情をしたから、相当しみたのだろう。
それなのに次の瞬間には、布を当てずに包帯を直接ぐるりと巻きつけ始めた。
「てめっ、何やってんだ!!」
思わずサンジは叫んでしまった。
それを気にするでもなく、ゾロは包帯を巻き続ける。まるで「さらし」を巻くかのように。

袈裟懸けの胸の傷のように自分でざくざく縫われたらたまらないが、だからと言って、こんな無造作なやり方も見ていられない。
もはやゾロが自分を警戒していることを気にしていられなかった。
サンジは強引にゾロとの間合いを詰め、ゾロの脇にあるテーブルに置かれたままの布をゾロの胸に押し付けた。
「包帯巻く前に、これを腹に当てろ!」
本当なら、自分が即座に身体の包帯をひっぺがしてやりたい。だが、そこまでしたら、とたんにゾロはまた警戒と殺気を漲らせるだろう。
布をゾロの胸に押し付けて、サンジはまくし立てたい気持ちを押させつけ、言い聞かせるようにことさらゆっくりと言った。
「いいか、こっちの幅広の布で、傷口を保護してからでないと、包帯が食い込んで、なおさら傷が開くんだよ。ほら、な。言ってるそばから血が包帯に滲んでるだろう?」
感情的にならずに言えただろうか。叱責するような言い方にならずに伝えられただろうか。

ゆっくりと息を吐いて、サンジはゾロから離れた。
自分でお節介になっている自覚がある。
記憶があるままのゾロに対しては、サンジは決してこんなことはしなかっただろうと思う。じかに包帯を巻いていても「莫迦じゃねェの、筋肉マリモは!」と笑ってやったと思う。
ところが、記憶が無い、というだけで、ついつい庇護心が頭をもたげてくる。
これだけ野生の獣のような自衛本能を発しているのだから、放っておいても大丈夫な筈だ。
それなのに、不完全な気がして心配でならないのだ。
(俺もヤキが回ったな…)
サンジは小さなキッチンに向かい、玉葱を取り出してストンと半分に切りながら苦笑した。
記憶の喪失に動揺して心配しておろおろしているのは、当の本人よりもサンジのほうらしい。泰然としているゾロが腹立たしいほどだ。

そもそも、自分を知っているような人物が現れたら、自分はどんな人間だったのか知りたがるものではないだろうか。
なのに目の前のゾロは、ちっともサンジに「てめェは俺の知り合いか?」というような問いを投げかけてこない。
そう聞かれたら、サンジは、「おう、てめェは、海賊で剣士でよ、だけど普段は寝てばっかの役立たずだ!」とでも言ってやるつもりだったのに、そのきっかけさえない。
ゾロが口を聞いたのは、「てめェ誰だ」と「自分でやる」のふたつだけだ。
その「てめェ誰だ」の言葉だって、サンジの答えなんかを期待している言葉ではまったくなかった。あれは質問でなく、威嚇だった。「俺はてめェを知らねェ。こっちに近づいてくるんじゃねェぞ!」という意味の威嚇だった。

要するに今のゾロが他人と関わる基準はただ、敵か味方か、ということなのだ。過去などどうでもよく「今の自分にとって味方なのか敵なのか」…それだけだ。
仲間とはぐれたのち、どの時期にでゾロが記憶を失ったのかは定かではないが、長く見積もっても数週間の期間に、ゾロはさっさと記憶に執着するのを諦めて、防衛本能を優先させてしまったようだ。

(つか、きっとコイツのことだから、また考えるのが『面倒くせェ』ってことかもしんねェけど………こんなことになるとはね…)
自分との関係を、ちっとも追及しようとしないゾロ。
自分を覚えてないだろうとは思っていたが、関心が持たれないとは思ってもいなかった。
料理に逃げるつもりは無いけれど、こんな時は、自分が料理できることに感謝したくなる。こんな状況でやることが無かったら最悪だ。

玉葱、人参、じゃがいも、キャベツ、きのこ…ほか数種の野菜を、トトトトとさいの目に刻んで、昨晩作ったスープの残りに放り込んだ。最初は強火で、沸騰してから弱火にした。
サンジにかかれば、ここまでの作業は一瞬だ。
ゾロが包帯を巻き直し終えた頃には、サンジはすでにシンクによりかかって煙草の煙を肺に満たして一服していた。
その表情は仕事を終えた満足感とは程遠く、苦渋に満ちていたけれども。



→next



小説目次←