遠月点アダージョ #3


(この男はなんだろう)
ゾロはそう思って、黒スーツの男を見た。
「誰だろう」ではなくて「なんだろう」だ。

こいつは、今までのやつらとは違う。
今までに会った者たちを大別すると、単に人が好い田舎者か、ゾロを敵視する者か、或いは記憶が無いとわかったとたんに知り合いのような顔で馴れ馴れしく近づいてくる者か…。
そういう誰とも、黒スーツの男は違っていた。敵意が感じられないうえ、ゾロの心にずかずかと踏み込まない。
だが、だからといって警戒を解く気にはなれなかった。記憶を失くしてすぐに、知り合い面して近づいてきた男に殺されかけたからだ。
その男が自分に向かって『賞金首』と口にしたことで、自分の立場をおぼろげながら理解した。

「喉渇いてるだろ? もうすぐスープが出来るけど、それまでコレ飲んでろ」
包帯を巻き終わるのを見計らって、黒スーツの男がテーブルの端にそっとコップを置いた。
うっすらと色がついた飲み物が入っている。
いつ用意をしていたのか、わからなかった。
「水でいい」
そう言うと、男はちょっと切なそうな目をした。
それでも「あ、そ」と軽く返事をして蛇口を捻ろうとする。
それさえもさえぎって「自分でするからいい」と言うと、男は黙ってシンクの前からどいた。

俯きかげんの顔は、長い前髪に覆い隠されて表情が見えない。
自分の態度に怒っているのか悲しんでいるのか呆れているのか…。好意を踏みにじりやがって、とでも思っているかもしれない。
だが、何かわからないものは口にしないというのは、身を守るために大切なことなのだ。

シンクに近づくと、ふわりと温かい匂いがした。奴が作っていたスープの匂いだ。
匂いを嗅いだ途端、空腹を覚えた。
思えば森で迷った日も含めて丸2日、水分しか取っていない。罠に掛かってからは、喉の渇きは、雪を食ってしのいだ。
忘れていた空腹が、スープの匂いによって一気にせり上がってきた。
それをごまかすように、ゾロは慌てて大量に水を飲んだ。
その量に呆れてサンジが声を掛ける。

「おい、水ばっか飲むな。飯が入んねェぞ」
「要らねェ。もう行く」
「はぁあ? どこへ行く気だ、そんな怪我したまんまで!」

コイツに言う必要はないとばかりにゾロは押し黙った。
しゃべるとコイツのペースに巻き込まれる…。

目の前の黒スーツは、自分を殺そうという気配は無く、むしろ友好的ですらある。
だが知り合いのような心安さで近づいてくるのに、俺との関係を語ろうともしない。
それは、どういうことだろうか。
何も語らないのは、俺とコイツの間に実は何も無い、ということなのじゃないだろうか。俺が聞かないのを好都合と思って、俺の知り合いの振りをして近づいてきたのじゃないだろうか。

罠に掛かった自分を助け出して手当てまでしようとした男に対して、あんまりな評価だとは思うが、無造作に彼を信用して、後で己を悔いるようなことはしたくない。
ただの親切な青年と思えないのは、罠を外す時に見た蹴りの強さのせいだけではない。殺気を放った自分に平気な顔で近づける肝っ玉と、穏やかなようで隙の無い、いつでも「構え」が取れるような身体の運び。
凡人にはわからなくてもゾロにはわかる。修羅場をくぐってきた者が持つ独特の気配―――それをこの男は持っている。

(だから、油断するな)
ゾロはそう自分に言い聞かせた。
だがこのままここにいると、どうも彼のペースに巻き込まれて、そのまま男の差し出す飯を食ってしまいそうだった。
そうするわけにはいかない。
肉体と精神の両方が疲弊している時は判断力が鈍るから、自ら狩ったものか作ったもの以外は食うわけにはいかない、のだ。

出て行こうとするゾロの前にサンジが立ちふさがった。
「行くなって言ってんだろ! だいたい行くあてだって無ェくせに!」
「谷を越える」
「谷の向こうに何があるんだ?」
それはゾロ自身わからない。ただ「東へ!」と叫ぶ誰かの声が頭の隅に残っている。
真っ白になってしまった記憶の中に、わずかに残った幾つかの言葉。
それだけが、自分を知る手がかりなのだ。それに従って、何が悪い。
だが、そんな気持ちを、目の前の「油断ならない」男に言うつもりは無かった。

への字に口を引き結んだゾロを見て、サンジは諦めたように言った。
「行くのは勝手だが、死にたくねェなら、もうちっとここにいろ。今晩、多分、いや確実にてめェは熱が出る。ま、てめェの身体だったら、せいぜい1〜2日寝てりゃ治るだろうがよ。今、橋を渡って谷の向こうへ行くのは自殺行為でしかねェぞ」

言われるそばから、確かに身体がだるく火照ってくるのを自覚した。
男の言うとおり、動き回らないほうがいいだろう。
仕方なくゾロは戸口から引き換えした。
(もしかして、この黒スーツの男が今まで何も自分に仕掛けてこなかったのは、この発熱を待っていたのだろうか?)
警戒心をまた張り巡らせながら、ゾロは壁にもたれ、身体を休ませる体勢に入る。
とたんに声が飛んできた。
「この筋肉莫迦! そんなんで休まるか! ベッドで寝ろ!」



「ったく、クソマリモの野郎、こうしてるとちっとも変わんねェんだけどな」
壁にもたれてうつらうつらしているゾロを眺めながらサンジは苦笑した。
記憶が無いとは思えない。いつもと変わらぬゾロがそこにいるような気がする。
先ほど「ベッドへ行け!」と叫んだ時などは、つい足を振り上げてベッドに蹴り飛ばしそうになってしまったほどだ。
床にどかりと座って寝こけるゾロとそれを蹴り飛ばす自分。それが日常茶飯事だった。今だって、こうして寝ているゾロを見ると勘違いしそうだ。
だが数週間前と違うのは、寝ているゾロに近づくと、すっと目を開いてサンジを見据えることだ。

(コイツ、船じゃぁ、俺たちに気を許していたんだ…)
改めて、それを思う。
たった数週間前の日常茶飯事が、無性に懐かしく思えた。

今のゾロは、完全に熟睡してしまうことはなかった。
ゾロ自身がそれに気づくのは早かった。眠っていてもレーダーのように周りの気配を拾い、不穏な気を感じると、ぱかりと目が覚める。
記憶を失くしたばかりの頃は、そんな己の身体を不思議に思った。
だが、こうなるにはそれなりの過去があるのだろうと、自分の生きてきた道をなんとなく悟ってしまい、どうやら自分は平穏な身の上ではないのだと自覚して以来、警戒心は一層強まるばかりだ。
近寄ってくる者が有る時、食べる時、眠る時、いつだって自然と防衛本能が己の行動を規制する。

先ほども同様だ。スープの湯気に空腹を覚えても、水を差し出されただけでも、「これを口に入れても大丈夫か?」と防衛本能が警告してくる。
黒スーツが不平そうな顔をしても、自分の命は譲れない。
それなのに、部屋の中に漂っているスープの香りの温かさに、どこかで安堵している自分もいて、ゾロはこくりこくりと舟を漕いだ。

だが、熱が出るというサンジの言葉どおり、次第に身体が火照ってきて寝苦しさを覚えるようになった。
じわりと汗ばむ身体をもてあまして、寝返りを打った。
視線を感じる。
この分では、この発熱は、あの聡そうな男にとうに見破られているだろう―――
眠りつつもゾロの意識の一部はサンジの動きを探っていた。

と、突然、サンジの気がぶわりと上がった。まるで「気づけ」とでもいうように意識的に高められた気に、ゾロが覚醒する。
とたんに何かが顔を目掛けて飛んできた。
反射的に顔をわずかに横にずらしてよけると、直前まで頭があった位置の壁に、ビタンと音を立てて何かが当たった。それはそのままボトリとゾロの肩の上に落ちる。
何かと思えば、それは冷やされたタオル。
手に取ると同時に、「使え」と、さも面倒くさそうな声がゾロの耳に届いた。
煙草を咥えたまま顎をしゃくらせてそれだけ言うと、サンジはぷいと背を向けた。
どこまでも高飛車で、どこまでも投げやりなふうではあるけれど、一応これはゾロの身体への気遣いと考えていいのだろう。
ゾロは躊躇わずにそのタオルを額に乗せた。それだけで身体の熱がすうと冷えていくようで心地好かった。

次に覚醒したのは、冷たい風に頬をなでられた感覚だった。
(気持ちがいい…)
そう思って、はっとして目覚めた。
一瞬だが深く寝てしまったような気がする。こんなに気が緩んでいるのはかつて無いことだ。
ゾロは心の中で舌打ちをした。くくり罠にかかって、思った以上に身体も精神も疲労しているのかもしれない。
(だったら、尚更、警戒を解くわけにはいかねぇ。肉体と精神の両方が疲弊している時は判断力が鈍る、から)
気持ちを尖らせながら、知らぬ間に日が落ちて暗くなっていた部屋の中を見回す。
すると壁際にある文机の小さな灯りの下で、男がなにやら分厚い本を繰っているのが見えた。
その男の金の髪が柔かく光っている。灯りに照らされた部分はキラキラと光を弾き、それだけでなく、金の髪全体が蛍の光のようにほんわりと光っている。
それでゾロは、月の光が差し込んでいることに気づいた。
見ると、ゾロの斜め前にある窓が開いている。

窓から入ってくるのは月の光だけではない。冷気を含んだ風が流れ込んでくる。
さきほど気持ちがいいと感じたのは、この風だ。少し火照っている自分の身体には、この冷えた風は気持ちがいい。
だがアイツには寒いのではないかと見ると、やはりこの風はゾロのためだったのだろう。自分はスーツの上にボロい毛布を引っ掛けて身体を丸めている。
だが彼の表情は柔和で、ページを繰っては目を輝かせたり微笑んだりしている。手負いの賞金首と一緒にいるとは思えないほどだ。
彼がそんなに夢中になっている本とはいったいなんの本なのだろう。
ゾロは気になって立ち上がった。
とたんにサンジが視線を投げて、口を開いた。
「どうした?」
「水」
「あぁ。つうか、水だけじゃなく、飯も食え」
「てめェはそればっかだな」
「おう、コックだからな」
「コック?」
「おう。海の一流コックだ!」
ドンと胸を張ったサンジを、ゾロはうさんくさげに見た。
「ま、とにかく、食えよ。スープできてんぜ」
「要らねぇ」
給仕を始めようといそいそと立ち上がりかけたサンジを、ゾロはひと言で一刀両断した。が、それでおとなしく引っ込むサンジではない。
「剣豪様は餓死してェのかよ」
「食欲湧かねェんだ」
「嘘つくな。そんな傷くらいで食えなくなるほどてめェは繊細じゃねェだろ!」

確かに食欲が無いというのは嘘だった。だが、食べるつもりがないのは本当だ。
食べることの必要さをぐちぐちと説くサンジをゾロは無視する。そっぽをむいた仕草は、まったく猫科の獣だ。
それを見ながらサンジの手がつい煙草へ延びた。
(参ったな…。俺を覚えてないのはいい。俺が誰かと聞かないのも、まぁいい。だが…飯も食わせらんねェのは堪えるな…ホント、人に懐く前の獣かよ、てめェ…)
ピリリと舌を刺すニコチンを吸い込むと、ポーカーフェイスが取り戻せそうな気がした。ぷかぷかと煙を吐いて気持ちを整える。
「ちっと、聞くがな、てめェは今までそうやって、ずっと食わずに来たのか? そんなわけは無ェだろ? どっかの宿や飯屋で出されたもんを食ってきただろ? なのに、なんで俺の飯は食わねェんだ? そんなに信用できねェか?」
「あぁ」
「俺はコックだ。それも一流コックだ。自分の飯に何か仕込むような、プライドの無ェコックじゃねェぞ」
「信用ならないのは、てめェより、俺、だ」
「あん?」



    てめェがこの先ひとりで飯を食うとき、肉体と精神の両方が疲弊していたら、てめェ自身で狩ったものか作ったもの以外は食うな。出された食べ物が安全か、作ったコックが信用できるか、判断力が鈍っているから    .

誰かがゾロにそう言った。
誰が言った言葉なのか覚えてはいない。
「東へ!」と叫ぶ誰かの声と共に、ゾロの頭の隅に残っているわずかなの言葉のひとつだ。
そしてゾロの本能は、この言葉に従え、と告げてくる。

「今の俺の判断力が、信用ならねェんだ。だから自分で狩ったものか作ったものしか食わねェ」
そう言うと、黒スーツの男が目をまんまるく見開いて固まった。

「どうした?」
「い、いや、なんでもねェ…」
「そういうわけで、俺はてめェの飯は食わねェ」
「あ、あぁ、そう。そうかよ…」
奇妙な沈黙が落ちた。黒スーツは、何かそわそわと落ち着かない。顔を赤くしてみたり、眉間に皺を寄せてみたり。
とうとうまた煙草を取り出してプカプカ煙を吐いてから、取りつくろうようにぼそっと言った。
「飯食わすことは出来ねェとなると、警戒心むき出しのてめェと二人きりでやることねェな、はは…」
ぎくしゃくした表情で笑おうとしたサンジに、ゾロは先ほど気になった本を指差した。
「それは? それ、見てたんじゃねェのか?」
「あ?」
「その本」
「これ?」
「あぁ」
さっきまで彼が夢中になっていた本。彼を穏やかな表情にさせる本。いったいなんの本なのだろう。
水を汲みながら彼の手にある本をちらりと見てみる。
と、細密に描かれた魚の絵がたくさん載っていた。どうやら魚の図鑑のようだ。
それを嬉々として眺めていたことが不思議だった。
「楽しいか、それ?」
疑問はつい、口をついて出た。
ぽかんとゾロを見つめた男は、次の瞬間、えへへ、と笑った。ゾロが内心驚くほどにそれは子供っぽく無邪気な笑顔だ。
「これな、世界の魚が載ってんだ。この小屋にあったんだが、こんな森ん中の小屋に魚の図鑑て、変だろ!」

いや、それ見て悦んでるてめェが変だ。
…とはさすがに言わなかったが、ゾロの怪訝な表情は伝わったらしい。
「さっきも言ったが、俺は海のコックなわけよ」
「海?」
「あー、そうだ、海だ。海は、優しくて強くて豊かな女神だ。まぁ、ちっと気性が荒くてな。お怒りになるとちっぽけな人間は、ひれ伏すしかねェけどよ。そんなところもすべて俺は好きだ。海は良いぜ。てめェは俺になんにもきかねェけど、手配書見てわかってんだろ、自分が賞金首の海賊だってこと。な、海には魅力を感じねェか? 海、と聞いて、なんにも感じねェか?」

(海…?)
考えたこともなかった。
そういえば自分は海賊らしいのに、「海」と聞いてもちっとも心が沸き立たない。むしろ、こういう山や里のほうが安心する。
「俺はホントに海賊なのか? 海のことなんて、ちっとも思い出さねェ…」



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