遠月点アダージョ #4


「んじゃ…、なんなら思い出す?」
ゾロの戸惑いを推し量るように、間を取ったあと、サンジは聞いてきた。

何を思い出しただろうか? 
気づいたら、己のことが何もわからなくなっていた。過去のことがすっぽりと抜け落ちていた。何か断片的に頭の端をよぎるものはある。パタパタと布がはためくような音だとか夕日だとか喧騒だとか。
だがそれらは、具体的な記憶にはまったく結びつかない。
掴もうとするとするりと逃げていく風景はほかにもいろいろあった。
残るのはいつも、キラキラとした何かでそれがなんだかちっともわからない。

それをそのまま言った。「頭をよぎる景色はある。でも夢の中の風景みてェに切れ切れで、意味わかんねぇ」と。

「なら、知りたくなんねェか? 自分が何者か、どうやって生きてきたのか」
「知りたくないわけじゃねェ。だが、教えられたことが真実かどうかさえ、俺はわからねェ」

(ということはつまり、真実でないことを教えられたことがあるということだ。あぁ、そうか…。コイツを騙して捕まえようと近づいてきた者がいたんだろう。コイツが自分のしてきたことを覚えていようとなかろうと、周りはコイツを殺そうとする。今の自分が知らないことで、世界に追われて、世間に騙されて…。そうしててめェは、警戒心と猜疑心を育てていっちまったんだな…)

親しい人間が記憶を失った場合、忘れられてしまった周りの人間が悲しみを感じるのは当然のことだ。
だが本当は、忘れてしまった者のほうが悲しみは深いのかもしれない。動揺や不安のほうが大きくて、「悲しい」と自覚する間が無いだけで。

思い出せないことを悩むのではなく、何を信じればよいのかがわからない。
その傷の深さに、気づく人はどれだけいるのだろう。



サンジの曇った表情を気にせずゾロは続ける。
「それに、教えられたことが真実だとしても、教えられた『俺の過去』のとおりに、俺が振舞えるわけでもねェ。現に今、てめェは海賊だ、と言われても、海賊としての自覚が生まれてこねェし」

あぁ、そうだ。自分の過去を知っても、実感出来ないのなら、それは知識にすぎない。他人の生い立ちを知るのと、なんら変わりはない。俺たちは同じ船に乗る仲間で、ちょっと爛(ただ)れたこともしちゃってたなんて知ったところで、どうなるということもないのだ。
コイツの目に、俺はどう見えているだろう。変な奴だと思っているだろう。目の前の男と肌を重ねたことがあるなんて、思ってもみないだろう。知ったら、驚くだろうな。いや、信じるわけねェな。
たとえ信じても、今までの関係は綺麗に更地に戻ってしまって今では「初対面」でしかない俺と、「あぁそういう間柄だったのか」と一足飛びに距離が縮まるわけでもねェ。

そういうことだ。言ったところで意味はないのだ。
だが、海賊としてのゾロは残っていないのに、ゾロはサンジの知ってるゾロの気配を失わずに持っている。いやむしろ「寝ぐされマリモ」のゾロより、今のゾロのほうが、いっそう「ロロノア・ゾロ」らしい。
そのわけはきっと―――
サンジは続く想いを言葉にして聞いた。
「じゃぁ、刀は? 自分が剣士だっていう記憶はあるか?」

「記憶はねェな。だが、手に刀を握っていると、なんかしっくりくる。刀を抜くのも振るのも、身体は覚えているみてェだ」
そう言ってゾロはすらりと刀を抜いた。
峰に返すと刃がきらりと光を反射する。
それを見ながら、ゾロがうっすらと笑った。
口に出さずとも表情が『この重みが手に馴染む。この光を見ると落ち着く』と語っていた。
しばらくそうして刀を眺めたあと、ゾロは手首をくるりと回して、白鞘に戻した。
チン、と独特の音が響く。
こういう一連の動作も、頭で考えるわけでなく、身体の動きに任せているだけなのが見ていてよくわかる。
無駄な動きも隙のある動きも、そこにはまったく無かった。美しかった。
刀に魅入っていたゾロの表情も美しかった。
記憶を失くしたゾロが、唯一拠りどころとして信じているのが、この白鞘の刀だと、言われた気がした。

「じゃぁ…も一個聞くけどよ、最初は刀、3本あっただろう? 違うか?」
「あぁ、何本かあったな」
「なんで今はその白鞘1本なんだよ?」
「追われてる時に、これだけ持ってきた。それだけだ」
「なんでそれを選んだ? なんでその白鞘の刀にしたんだ?」
「知らねェよ。咄嗟に掴んでいたのがこれだったんだ。理由なんか無ェ」
憮然とした表情で話すゾロを見ながら、サンジはゆるやかに微笑んだ。
まるで「仕方が無い子ねぇ」と愛情まじりに溜息つくような母親の表情になっているだろうという自覚はある。
(慈愛なんて野獣に必要無ェんだが…)
それでもサンジは、諦めとも悟りとも言える気持ちが湧いてくるのを止められない。
理由も理屈もなく、ゾロは迷わず白鞘を掴んで逃げた。そして怪しい者からの食べ物を受け取ろうとしない。
たとえ記憶を失っていようが、コイツは自分が選択すべきものを決して違えない。
ならば自分の記憶を取り戻そうとしないのも、俺に関心を示さないのも、きっと正しい選択なのだ…。

ルフィ……ごめんな。迷子の捕獲は成功したが、俺じゃぁコイツを船に戻せねェよ。
おまえなら「ゾロは俺の仲間だ!」と言い切って、無理矢理にでも船に乗せるかもしんねェけど。俺は無理だ。海賊の自覚が無いと断言するコイツの意思に逆らって、海賊やらせるなんて出来やしねェ。したくもねェ。
たとえ俺たちの船に乗っていなくても、俺たちの記憶が無くても、ゾロはゾロのまんまで生きてやがる。剣士であることも強くあることも、まったく違えず生きてやがる。
ゾロはゾロだ。どこにいてもゾロはゾロだ。ロロノア・ゾロという剣士だ。
誰と居ても、誰と居なくても、クソ剣士はクソ剣士のまんまだ。
それでいいだろう? 許せよ、船長。



「朝になったらな、芋でも取りに行こうぜ」
「あぁ?」
突然変わった話題に、ゾロは眉間にシワを寄せながら、検分するようにサンジを睨みつけた。
この表情は『なんだ? わかんねェぞ』という時のゾロのくせだ。本人の自覚無しに出る「クセ」は変わらないらしい。
サンジの心に笑いと切なさとが同時に湧いた。
その複雑な胸中を悟られないように、くるりと背を向けてサンジは言った。
「自分で獲ったものなら、食うんだろ? だったら明日は、芋堀りだ。今晩は、ゆっくり寝とけよ」



 ◇ ◇ ◇

結局ベッドを使わずに壁に寄りかかったまま寝入ったゾロの、最初に起きた器官は嗅覚だった。
湿った匂いがする。雪の匂いではない。雪は音も匂いもその中に閉じ込めてしまうようなところがあるが、ゾロの鼻腔をくすぐるのは針葉樹の匂いだ。
ふ、と目をあけて原因を悟る。窓から見える景色が白い。
(霧か…)
「あぁ、霧だな」
返事が返ってきてゾロは、思ったことを口にしていたことに気づいた。
どうやら自分は、かなりこの金髪を受け入れてしまっているらしい。
言葉を発しない物音を立てないというのは自分の居所を知られないようにするための基本だというのに、起き抜けの身体はすっかりその基本を落っことしている。
気持ちの上ではまだ、疑惑と警戒の鎧を着ようとしているのに。

そんなゾロの困惑をよそにサンジは話しかけた。
「身体、どうだ? どっか痛むか? 熱っぽいか?」
「いや、だいぶ楽だ」
「ったく呆れるね、てめェの頑丈さにはよ。まぁいい、んじゃ行くか」
「行くって?」
「芋ほり。言っただろ昨晩。もう忘れちまった? まぁ、しょーがねェ、マリモの頭だからな。とにかく、自分で狩ったものしか食わねェというてめェが、飯を食えるようにしてやろうってわけだ。ついてこい」
芋ほりの話は忘れたわけではないが行くとは思わなかったのだ。なぜなら…
「霧出てるだろ? 全然視界が利かねェじゃねェか」
「歩いてりゃ、じきに晴れる」
「なんでわかる?」
「船乗りなんでね」
(…なんで船乗りなのが関係あんだよ、ここは山だろうが!)
そうツッコミたくなったが、サンジがさっさと支度を始めたので言う機会を失った。
投げられた軍手とスコップとズタ袋を受け取って、ゾロはサンジのあとに続く。
「じきに晴れる」と言われたが、霧はまだ濃い。くくり罠に出会わないよう、ステッキのような棒で探りながら前を歩くサンジの姿さえ、ぼんやりと見える。

(このままアイツについて行って大丈夫なのか?)
ふと警戒心が頭をもたげた。
ひとりでは手に負えないと思って、昨日のうちに援軍を呼んだということも考えられる。芋ほりのつもりでついていったら、ぐるりと敵に囲まれていたなんて笑えない。
その警戒心がゾロの足を止めた。
改めて回りの気配を探る。
特に危険や不穏な空気は感じられなかった。

が、そうしている少しの間に、サンジを見失ったことに気づいた。
ぐるりと見渡すが、あたりは霧に包まれて視界が利かない。
夜の暗がりのほうがまだましだとゾロは思う。暗がりなら目が闇に慣れれば何かが見えてくる。だが霧は、どんなに目をこらしても何も見えてはこなかった。
と、一瞬、左から右へ、何かが動いたような気がした。
はっとそちらを凝視するが、追いきれずにその影はふっと消えてしまった。
(俺の記憶に似てるな…)
そんなことをゾロは思った。
真っ白い霧が掛かった自分の記憶。そこを何かがよぎるのに、捕まえる前にその何かが消えてしまう。
ゾロ…と誰かに呼ばれている気がするのに、それが誰の声なのかわからない。
「ロロノア」でなくて「ゾロ」とその誰かは呼ぶ。10歳前後の少女の凛とした声のようでもあるし、闊達な少年の声のようでもあるし、妙に艶っぽいテノールにも聞こえる。

ゾロ…

誰かがそう呼んでいる…。


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