遠月点アダージョ #5


ゾロ…

ゾロ…







ゾロッ…!



「ロロノア・ゾロッ!! どこだ、返事しろっ!」

頭の中で聞こえていると思っていた声は、途中から現実の声だったらしい。どこからが記憶の声で、どこからが現実に叫ばれた声だったのか、よくわからない。
とりあえず返事をした。
「あー、ここだ」
「…!! クソ世話の焼けるっ!!」
右前方から声がする。
「なんかしゃべれ。それを頼りにそっち行くから」
「なんかっつってもな…あ、そうだ」
「なんだ?」
「てめェ、名前、なんてんだ?」
が、返事が返ってこない。聞こえたはずだと思うが、もう一度言ってみた。
「名前だよ。聞こえてんのか!?」

チッと、サンジは唇を噛んだ。
(名前を言えだと? 冗談じゃねェ。記憶のあるうちだって俺の名前を呼んだことなんて無ェのに、記憶の無いコイツに気安く名前を呼ばれてたまるか!)
その気持ちがサンジに言わせた。「名乗るほどのもんじゃねェんで」

「け、何もったいぶってやがる。やっぱり素性も明かせないような奴なんじゃねぇか、てめェは」
そうゾロが言ったとたん、霧の中で険呑な気配がぶわっと立ち上がった。まるで猫が毛を逆立てたみたいに。そしてなにやらブツブツ言ってるもんが近づいてきた、と思ったら、黒いシルエットの細い足が見えてきた。
ドッカンドッカンと大地を踏み固めるように荒っぽいガニ股歩きが、いかにも「ムカついてます」といったふうだった。
案の定、額に青筋立てたサンジがゾロの目の前に現れた。
「俺を呼びたきゃ勝手に好きなように呼べ! 海賊Aとでも呼んでろ、この苔野郎! そもそもてめェがさっそく迷子になってんのが悪ィんじゃねェか! それとも、ここで植物同士、意気投合してやがったのか!」

なんつーか、昨日の柔かい印象は一気に覆されて、格段に口が悪い…。口角泡を飛ばす、な勢いだ。
口の次には足が来る、と思ったゾロはさっと身構えた。
が、足は出てこずに、言うだけ言うと、サンジはくるっときびすを返し、「きっちりついてこい!」と歩き出した。
(ん?)
何か物足りなさを感じてゾロは首を傾げる。
(ここで足が出てくるはずなんだが…)
どうしてそんなふうに思ったのかわからないまま、ゾロはサンジを追いかけた。
そうこうするうち、たった数メートル先のサンジの姿まで隠そうとしていた霧が次第に晴れてきた。
とたんに朝の日の光が、無数の手を伸ばすように隅々に広がって森が一気に明るくなる。
明るくなった景色の中で、前方を行くサンジの髪がキラキラと光を弾いていた。



◇ ◇ ◇

「おい、水をさせ水を! わ、ばか、吹き零れるだろうが!!!!!」
ゾロの背後でサンジは、わめいた。
(ただ芋を茹でるだけなのに、どうしてそんな簡単なことができねェんだ?)
たった今も吹き零れた湯で火が消えた。
「てめェは野菜を茹でたこともねェのかっ!」
「大抵取ったもんは、炙(あぶ)ってたからな」
うぅ、とサンジは唸った。
ものすごく想像できる。肉でも魚でも野菜でも構わず、木の枝か何かにブッ刺して、焚き火で炙って喰らいついている剣士の姿が。

「だいたい、水をさす、ってなんだ。何を使って水を刺すんだ? 包丁で刺すのか?」
「へ?」
言われて見れば、料理ド素人のゾロに「水をさす」なんて言葉はわからないのも当然だった。
ただ芋を茹でるだけだ、鍋から引き上げるタイミングだけ言ってやればいいだろう、なんてことは通用しなかったのだ。
(クソ世話の焼ける…)
ゾロを捕獲してから何度目かの同じ台詞を口の中で呟く。
そうしてシンクから退くようにゾロに指示した。
「いいか、まず、俺がコイツを茹でてみせるから、それ見とけ」
たかだか芋を茹でるだけをお手本してみせるとは思わなかったぜ…そう言いながらサンジは芋の皮を剥いた。

そうして「たかだか芋を茹でただけの食事」が出来たのは昼過ぎだ。
はふはふ食らいつくゾロを見ながらサンジは今朝から今までのことをゆっくりと思い出す。
寝ているゾロを起こしたこと。
芋を探しにいたこと。
霧の中で見失ったこと。
意外とゾロは食べられるものの見分けがつくこと。
そうか、コイツ、海賊の前は、こういう山にいたんだもんな、と納得したこと。
焚き火を起こすには土も枯葉も湿っていて、小屋に帰って茹でたほうが良いと判断して芋を持ち帰ったこと。
茹でるだけでさえ、手を出したらコイツは食わねェと判断して、ゾロにやらせようとしたこと。
そして。
見事に失敗したゾロと入れ替わりにシンクに立とうとした時、香ったゾロの匂いに心臓が跳ねたこと。

思い出し、意識したとたん、芋を頬張るゾロの口元も顎も首も耳も、肩も胸も手首も指先も、すべてが正視できなくなった。
自分の視線に欲がこもっていることが自覚できる。
自分の身体がゾロに触れたい触れられたいと疼きだす。
それで、思った。
(身体が覚えてるとか、言うじゃねぇか。コイツの身体も、俺とのセックス、覚えてるかもしんねぇ)
埒(らち)もない、とわかっている。
それでも、可能性を試してみない手はない。
(はは、俺、ゾロはこのまんまでいいとか思っておきながら、未練たらたらだな。ホントは思い出してほしくてたまんねぇんだ。思い出さないなら船には戻せないというのは嘘じゃねェが、思い出してくれと願っているのも本当だ)

そんなとき、満腹になったゾロが「俺はもう行くから」と立ち上がった。
サンジはとっさに言っていた。
「おまえ、俺を犯せる?」
小屋に響いた言葉に、言ったサンジ自身がびっくりした。
セックスしたら思い出すかもしれねェ、そんな思いでいたからそんな言葉が飛び出したのだろう。
ゾロは当然、サンジ以上に仰天した。
あぁっ?、と一瞬絶句して、それから瞳を光らせて探るような表情をして言った。
「てめ……何を企んでる?」

男に「犯せるか」と問われたら「男同士で出来るか!」とか「てめェ、ホモか?」とか返すのが普通の反応だろうに「何を企んでる」ときたか…。
ゾロの不信の根深さが見えたような気がした。だから、サンジは努めて軽い調子で返してやった。
「別に何も企んでねェよ。食欲が満たされれば、次は性欲。それが普通だろ。そっちのほうは飢えてねェのか?、って訊(き)いてるだけだ。てめェ、男もいける口か?って訊いてんだよ」

サンジの言葉に、きゅううとゾロの眉根が寄せられた。
「俺がもし、そっちのほうも飢えてて男もイケるぜって言ったら、どうなるんだ。てめェ、俺に股開こうってのか」
ゾロの言葉に蔑(さげす)みを感じてサンジの心がしくりと痛んだ。
それが顔に出ないうちに、短く肯定の返事をする。
「あぁ…」
「ふーん…」
ゾロの顔が奇妙に歪んだかと思うとギラリと目が光った。
「俺はてめェをまだ信用してねェ。そんな奴に股開くってのは、何されても文句は言わねェ覚悟が有んだろうな」
ゾロがにやりと笑う。やりこめたという笑いだ。
(この野郎、調子づきやがって…)
覚悟が有るかと問われて、無いと答えるような性格にはあいにくと出来ていない。海の一流コックは、海の凶暴コックでもあるのだ。売られた喧嘩はもれなく買う主義だ。
「覚悟って、てめェは、んな酷い抱き方すんのかよ。まぁ、良い。俺も出来心でてめェを助けちまったのはいいが、てめェをかくまってたと海軍に思われたらこっちもヤバイんでね。目ェつけられるのはごめんだ。俺を犯して、この家も荒らしていって、てめェに無理矢理従わされたって感じになれば好都合」
自分を信用していないゾロに、同じ船に乗っていた仲間だと名乗っても仕方が無いと思うサンジは、このまま他人を装おう気で、ぺらぺらとウソを紡ぎ出す。持ち前の負けん気がそれに加わって、結果、変な方向へ話が進んでいくのを止めようが無かった。

ゾロのほうでも、話が思いがけないほうに転んで呆然とした。
自分としては、これで相手が引くだろうと思って「覚悟があるか」とやりこめたつもりなのに、引くどころかサンジは押してきた。しかもただ押すだけじゃない。押した勢いで体当たり。覚悟はばっちりだ、なんなら強姦してみやがれ、というようなことをサンジは言ってきた。
とんでもない奴だと思った。
だいたい、賞金首の海賊に臆せず飄々と近づいた男が、怯えてロロノアの言うことを聞いただなんて、誰が信じるだろう。いや待て。他の連中の前では、そういう気弱な男の振りを、コイツはしているのかもしれない。優男な外見をうまく利用して面倒事を…今の場合は海軍に目をつけられることを…かわしているのかもしれない。
だからって、海軍の目をかわすために強姦していけ、だと? 
「アホかっ!」
不愉快な気持ちが一気にせり上がって、ゾロは思わずサンジを殴りつけていた。
ゴ、と激しい音がしたが、気にしてなんぞやる気はない。この不愉快さに比べたら、お釣りがくるくらいだ。第一そんなことで壊れるような奴じゃないと、もう見切っている。

「はは…」
床に転がったサンジの口から乾いた笑いが零れた。
(俺の身体を好きにして良いなんてことをほのめかしたら、とたんに目の色を変える奴はいっぱいいるのに。…コイツには全然効かねぇな。まぁ、それがマリモらしいっちゃ、マリモらしいんだけどよ。犯せと男に頼まれて、嬉々として応じる奴じゃねぇし。しょうがねェ、俺の身体が欲しくねェんなら、この気詰まりな状況を終わらせるしかねェな…)
サンジは殴られた頭を振って言った。
「冗談だよ、冗談。てめェがあんまりせかせかと行こうとするからよ。からかっただけだ。剣豪様は、結構純情でいらっしゃるわけだ。寒い夜は人恋しくなるからよー、人肌のお楽しみも欲しくならないか、ってだけだ、深く考えんな」

が、冗談と軽くあしらわれたことにゾロの気持ちは益々荒れた。不愉快を通り越して腹がたった。てめェが冗談のつもりなら、逆に本気で犯してやろうかと思った。
(どうかしてる…男を犯して何が楽しい…)
一番苛立つのは、この男に気を許しかけていた自分に対してだ。
なんでこんな奴に、気を許しかけていたのだろう。こんなふうに会ったばかりの男を誘うような奴に…。

そのまま小屋に留まると、また金髪を殴りたくなりそうで、ゾロは今度こそ出て行こうとした。
そのゾロをサンジの声が追う。
「行くなら、橋まで連れてってやる」
「要らねェ」
即座に断ったが、サンジは引き下がらない。
「てめェひとりじゃ夕方までに橋にたどり着けねェぞ。どうしてもひとりで行くってんなら、明日の朝にしろ。夕方から雨になる。日が落ちたら気温が下がってみぞれになるかもしれねェ」
「大きなお世話だ」
「莫迦じゃねェのか。みぞれは雪より厄介だぞ」
「こんなに晴れてて、どこがみぞれだ」
「あっちの空に掛かってる雲、ありゃ、雨を呼ぶ雲だ」
指差された雲は、白くぽやぽやとしていて雨雲にはとても思えなかった。
だからそのまま口にする。
「そうは見えねェな」
「信じろって。俺は天候の変化には詳しいぜ」
「船乗りだからか?」
「ああ」

船乗り―――
その言葉は、苛立ちと失望が渦巻くゾロの心を一層激しく波立たせた。
自分には海や船の記憶が無い。船乗りだと言う目の前の男と自分は、やはり接点など無いのだと、つきつけられたような気がした。そのことに何故か落胆する自分がいる。
そしてその落胆は、逆の言い方になって唇に乗った。
「船乗りが、なんでこんなところにいる?」
「あ?」 
「船乗りだったら、さっさと船に帰れ!」



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