遠月点アダージョ #8


あの男には散々無理を強いた。多分立つのも億劫なはずだ。
折り曲げられて夜通し縛られていた脚は、関節がきしんで滑らかには動かないだろう。
殺気に敏感に反応した感覚も、身体のだるさによって、きっと鈍っている。

小屋の安易な作りも思い出した。
すぐ裏の炭焼き場から戻って、顔や手足の煤(すす)を洗い落とし、熱い茶か安いワインで硬いパンを腹に流し込む。それから煙草を一服味わう。時には仮眠を取る。それだけのための小屋だった。そこに数週間も住み込むことはないから、それなりの作りでしかない。
倒れないよう柱だけは頑丈な木を使っていたが、壁なんて薄っぺらだった。火を使う台所付近は煉瓦を積み上げた壁だったが、ほかの部分は薄い板を打ち付けただけだった。
ログハウスのように分厚い丸太を組んだものではなかった。銃弾はやすやすとあの薄壁を貫くだろう。

ゾロの脳裏に、銃弾に蜂の巣にされて崩れ落ちる金髪の姿が、浮かび上がった。
とたん、自分の体温が一気に冷えた。
「させるかよっ!」
海軍を追ってゾロは森を走った。



 ◇ ◇ ◇

さかのぼること数時間。
冷気を感じた気がしてサンジはみじろいだ。ブランケットを身体に引き寄せ、身体を丸めようとした。が…。
(なんか身体がうまく動かねェ…)
手足の関節は硬く強張っているし、背中はギシギシときしむ。
口の中はカラカラに乾いて、喉がひりつくように痛い。水が、欲しい。
半覚醒の意識を浮上させて、サンジは閉じたがる瞼をこじ開けた。

水を求めてベッドから降りようとして、じん、とした痛みに気づいた。酷使された後孔が、抜き差しの摩擦で腫れているのが自分でわかる。熱を持ってじんじんと痛むのだ。
解してあったところへ挿入されたから裂傷は無く、痛みも飛び上がるようなものではない。
だが身体を動かすたびに、腫れた内部が擦りあわされて、そこからじわりと痛みが上がってくる。嫌でも昨晩の荒々しい交合を思い出させられた。

(そういや、あの野郎は?)
はっとして小屋を見回したが、ゾロはいない。刀も無い。
だが小屋の空気の中には仄かにゾロの残り香が混じっていて、出て行ってまだそれほど時間が立っていないことを感じた。
きしむ身体を無理に動かして、サンジは慌てて外へ向かった。
ドアを開けたとたん、身体を襲う冷気。先刻まどろみの中で感じた冷気は、ゾロが出て行った時に小屋に入り込んだ冷気なのだと気づいた。
(ならば、やはりまだ、そんなに遠くへ行ってないはず…)
咄嗟に追いかけようとした自分に苦笑した。シャツを引っ掛けてるだけで、下半身はすっぽんぽんだ。
(だいたい『追いかけねェよ』と思ったはずじゃねぇか…。心の中でルフィに謝ったはずなのに。なのに。なぜ追いかけたいんだ、俺は…?)

シャツ1枚の身体に早春早朝の冷気がしみて、サンジは中へ戻ってベッドの脇に落ちたスラックスをはこうとした。膝や足首の関節が痛む。
(俺様の麗しいボディに、こんなくっきり痕が残るほど縛ってくれやがって…)
昨晩のゾロの警戒と不信は、逆に今まで自分がいかに信用されていたかを教えてくれた。それほどまでに昨晩は警戒されていた。それなのに…。
『てめェの中、あったけぇな…』
そう言った剣士の表情が甦る。
(なんだったんだ、あの表情。一瞬の安らぎを見つけたような、ほっと力を抜いたような表情)
それを見て、サンジははっとしたのだ。何かとてつもなく、自分は思い違いをしていると気づいたのだ。気づいたことが、頭の中できちんと形になる前に激しく突き上げられて意識を失ってしまったけど、今ならちゃんと考えられる。

記憶が無いのに動じないふうに見えたゾロを強いと思っていた。
バカだったよ、俺は。動じない奴なんているだろうか。いるとしたら、そいつは強いんじゃなくて、愚鈍なんだ。置かれた状況の不確かさを感じてこそ、強さじゃねェか。

刀がしっくり手に馴染んでいるから、己を守る術を忘れずにいるから、だから独りでも大丈夫だと勝手に思っていた。
ホントにバカだ、俺は。誰も知り合いがいない世界で、大丈夫な奴なんかいない。人を寄せ付けずに生きている人間だって、誰かと接触した過去を持っている。
なのに、記憶が無ェアイツには、その過去も無ェ。現在にも過去にも、アイツには知り合いが独りもいねェ。もちろん味方も独りもいねェ。たった独りだ。

『てめェの中、あったけぇな…』
ゾロの声と表情がサンジの脳裏に何度も何度も甦る。
同時に、激しい後悔が湧き上がる。
(クソッ、俺はアイツをこの世界で独りきりで放っぽっちまうところだった)

アイツが記憶に残った「東へ」という言葉に従うのは、東へ行けば、知ってる「誰か」が居るかもしれないと思うからだと何故気づかなかったのだろう。つまりアイツは独りきりの世界を変えたいのだ。
それに気づかず、自分を見失っていないのならそれでいい…なんて甘い諦念と共にアイツを尊重した気になってた俺はバカだ。たったひとつの場所だけを見据えてまっすぐに進んでいたあの男に、ほかのものも見ることを教えたのは自分だというのに…。



サンジはコップにザーッと勢いよく水を注いで、飲み干した。
今ならまだ、きっとアイツに追いつける。
あちこち裂けて半ばボロ布と化したシャツを脱いでバックパックに押し込んだ。身体のあちこちがまだ、油の切れた歯車のようだったが、構っていられなかった。
(ルフィ、やっぱアイツ、連れて帰るぜ)
替えのシャツを身につけながら心が叫んでいた。

だが、身支度を終えて煙草を咥え、いつものスタイルで小屋を飛び出そうとした時、サンジは外の気配に妙な違和感を感じた。鳥の鳴き声がしない。
扉を開けようとする手を寸でのところで止めて、姿勢を低くして窓に近づき、そっと外をうかがった。
(やべェ、海兵が集まりだしている。結構な数だ。このままだと囲まれる…)
ちっと舌打ちして、サンジは煙草をもみ消した。



 ◇ ◇ ◇

田舎の海兵にしては行動が迅速だった。すばやく小屋を囲み、砲撃の準備を整え、銃を構える。全員無言だ。
司令も無言のまま先端に房のついた指揮棒をふりあげた。「撃ちかた用意」の合図だ。
緊張がせり上がって、兵たちの全員が指揮棒を見守った。

緊迫する空気を破るように今まさにそれが振り下ろされ、「撃て」の合図が出ようとした瞬間、ゾロが追いついた。刀の一閃で、銃撃隊の一角がざあっと崩れる。司令が咄嗟に叫ぶ。
「撃て! ロロノアを小屋から逃すな!」
乱入者がゾロだと気づいていない兵たちは、ロロノア・ゾロがいるはずの小屋に照準を合わせたまま砲撃と銃撃を開始した。木っ端が散り、ぱぱぱぱぱっっと乾いた音が続けざまに響き、小屋は穴だらけになっていく。瞬く間にあたりは硝煙の匂いでいっぱいになった。

「やめろっ! ロロノア・ゾロはここにいる!!!!」
たまらずゾロは叫んだ。その一声で、その場がざぁっと凍りついた。
すぐそばにゾロの姿を認めた海兵たちが、パニックを起こした。
「うわぁああああ!!!」
逃げようとする者、銃を向けてくる者、腰を抜かして動けない者…。
いずれも恐怖の声を上げ、その恐怖があっという間に海兵全体に伝染していく。
よく訓練されて統率がとれているとは言え、やはり田舎なだけに実戦経験値が少ない。その弱みがこういう場で出てくる。冷静さを欠いた集団には司令官の声など届かない。

だが、銃を持ってる限り、厄介だった。パニックを起こした者が操る銃は、狙い先がむしろ読めない。ゾロに向けなくてはならない筈の銃を、身体の硬直を解けないまま手先だけは弾込めを繰り返して、最初の照準方向の小屋に向かってひたすら撃ち続ける者も少なくなかった。
「やめろっ!!!!」
ゾロは一気に司令官に近づいた。こういう時は、一番力のある者を斬るのが有効だ。リーダーがいる限り、パニックを起こしつつも、兵はどうにかその場に踏みとどまる。だが、リーダーが倒れれば、残りは烏合の衆となり、我先にと逃げ出すのが常なのだ。

案の定、血飛沫をあげて司令官が倒れると、隊は一気に崩れた。ひとりが逃げ出すと、あっという間に残りの者が続いた。銃を放り出していく者までいる。だが、ゾロは、そんな下っ端には用がない。
(アイツは、生きてんのか!?)
小屋に駆け寄ろうとしたとたん、銃弾と砲弾にさらされた小屋が、自重に耐え切れなくなって、ついにガラガラガラと崩れ落ちた。
目の前で一瞬で材木と瓦礫の山と化した小屋を呆然と見たゾロは、次の瞬間、叫んだ。
「おいっ!!! 生きてんのかっ! てめェ、返事しろっ!!」
返事は無い。
「おいっ!! 金髪!」
瓦礫をひとつひとつ除けながら、ゾロは叫ぶ。
「黒スーツのてめェっ!!」

こんなことだったら、なにがなんでも名前を聞き出しておくんだったとゾロは思う。
金髪! 黒ずくめ! 優男! 蹴り脚! 船乗り!
思いつくままに次々呼ぶ。どれもしっくり収まらなくて次々呼び名を変えて叫ぶ。
ホモ野郎…はさすがにやめた。
「いるんなら、返事しろ、コック!!!」
瞬間、『あぁ、これだ』と思った。

「コック! どこだ、コック!!」

彼の身体の一部すら見えてこない。不安がどんどん増してきた。
アイツはコックだから、キッチンのそばにいて、屋根まで積みあがった煉瓦の下敷きになったのかもしれない。
ゾロは瓦礫の山を手で掻きながら呼びかける。
「てめェの飯食うから出て来い、コック!」
あぁ、そうだ、アイツの飯、まだ食ってねェ。
「コックの野郎、見つけたらただじゃおかねェ。こんな気にさせやがって…クソコック…」



「クソはてめェだ」
ふいに耳に入った声に、はっと振り向いた。
瓦礫の下にいるはずの男が、そこに立っていた。
「てめ…」
「うるせーんだよ、コック、コックって。そんなに必死で俺を探すくれェなら最初から置いていくな」
ぷいと横を向いたその表情は、感情を抑えたあの静かな表情ではなくて、明らかに照れ隠しだとわかる表情だった。
それをゾロは、がっしりと抱きしめた。
「てめェ、小屋にいなかったんだな」
「あぁ、変な気配がしたから、さっさと反対の窓からとんずらした。なのに、小屋のほうからてめェの殺気が流れてくるしよ…てめェがコックコックって呼んでるしよ…」
「そうか…。無事で良かった…」
うっわーーー、とサンジは思った。記憶が無いからなのか、ゾロが直球だ。どうしよう。喧嘩腰と対抗意識でのコミュニケーションなら得意だが、こういう直球はどう対応していいかわからない。
「おい…そろそろ離せよ…」
そんな言葉しか出てこない。

「飯、食わせてくれるか?」
「え?」
「運動したら、腹減った。腹減ってる奴には、食わしてくれるんだろ?」
サンジに回した手を解きながらにやりと笑ったその顔は、サンジのよく知るゾロの表情で、それはサンジを安堵させた。そうだ、こうでなくちゃ調子が出ねぇ。
サンジは煙草を取り出して、深く吸い込み、それから紫煙をふうーーーと長く吐き出して答えた。
「いいのかよ、俺の作るもん食っちまって? 判断力が衰えてる時は自分で狩ったものか作ったもの以外は食うな、って、誰かにそう言われたんじゃなかったのか?」

言ったサンジの表情は穏やかで、どこか楽しんでいるようで、決して喧嘩を売ってるようなものでもゾロを試すようなものでもなく。
ゾロは唐突に理解した。その言葉を言った主と、その者の心を。 
思い出したのではない。直感だ。
こんな言葉は、食べることにこだわり、且つ、安全なものを食べさせたいと心底願う者にしか言えない言葉だ。そしてゾロの生き様を認める者にしか言えない言葉だ。

「ん? どした? 考えてんのか? 俺の作ったもんを食うか食わねェか?」
ゾロの顔の前でサンジがひらひらと手をふった。
「考えてねェ。答えなんざ決まってる」
ゾロは腹巻から布袋を取り出して、サンジに渡した。
条件反射で受け取ってしまったそれの中には、昨日掘った芋の残りが入っている。
「なんだよ、これ?」
首をかしげたサンジにゾロが言う。
「俺ァ、煮っ転がしが食いてェ」

任せろ、と笑ったサンジの頭上遥かで、チチチチと鳥が鳴いた。
森に平穏が戻ってきた。



(了)

→後日談「近月点ヴェエメンテ」



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