不斬之剣 ー壱ー
霜撞(しもつき)なる地は連山の麓にあった。武芸に秀でた者数多く、中でも字(あざな)は索隆という男は剣捌において突出した才を現し、若年にして霜撞に索隆の剣敵無しと呼ばるるに至る。だが、身の丈約六尺(約180cm)、剣を振るうことで鍛えられた精悍な肉体は、小さな村での最強の地位には満足しない。
かくして索隆は、天下最強の剣を志し、当時名剣士と評高かった水鶏を我が師と頼むことにした。
連山の更に奥に分け入り、はるばる水鶏を訪ねた索隆は驚いた。水鶏は女傑であった。
だが驚くことは更にあった。索隆の剣が掠りもしないのである。
索隆は剣を放り、頭を低くして入門を請う。
性の別を侮らず、強者を志す者にありがちな尊大さを持たない索隆を水鶏は気に入り、門下に受け入れた。
先ず水鶏はこの新弟子に、物を視よと言った。
言われるままに索隆は独り、視ることの修行を重ねた。剣を振るわず、ただ現象を視る。動かぬ物も動く物も。石楼が佇む様、花弁が地に落ちる様、水の流れる様…。
やがて草野の微かなざわめきに風の通りが視えるようになった。
次に水鶏は、生きたものを視よと言った。
そこで索隆は視ることの修行を更に重ねた。地に這う虫を視、天翔ける鳥を視、叢中に隠れる鼠を視、人の所作を追い、己が手足の動きを視た。
やがて動きの全てに必然があることに気づいた。たとえそれが頑なに動かぬものの場合でも、動く本体が気づいていなくとも、そこには必然があるのだった。
最後に水鶏は、見ずして視よと言った。
少なからず剣の立つ索隆にあっては、気配を読むことには長けている自信があった。それでこの時索隆は、気配を読めということですね、と師匠に返した。水鶏の答えは、否、であった。
では何ぞという索隆の問いに水鶏は答えを与えなかった。わからぬならそれまでぞ、と答えたのみであった。
やがて索隆は、気配というのは動きであり揺れであり、それを視破るのは容易く、見ずして視よとは、有体ままの呼吸を視よ、ということであると体得した。
しかしてようやく索隆は剣を手にすることを許された。索隆が水鶏の許を訪ねて以来、ゆうに四年の月日が経っていた。が、その後の索隆の上達はめざましい。
水鶏が伝授する技をたちどころに吾がものとし、一を伝えれば十を知るが如く奥儀を吸収した。
小さな虻(あぶ)を斬ることなど朝飯前。蜘蛛の糸を唯一本斬ることも容易い。気づかれぬうちに相手の口髭を数本斬ることさえ出来た。
そればかりではない。刃では到底切れぬ筈の鋼さえも索隆は斬れるようになった。
最早(もはや)索隆にとって斬れぬものなど無いかと思われた。
そこまで達して、ついに索隆は師である水鶏と真剣に勝負したいと願うようになった。教えを請うための手合わせではなく、師を越えたかどうかを知るための手合わせを望むようになった。
来る日も来る日も、水鶏の不意を襲ってみたい衝動に駆られる。
師である水鶏は索隆の気持ちに気づいていた。今までも同じような輩は大勢いたのだ。ましてや索隆が目指すは天下一。先達を倒していく道行きなれば、師とて倒さねばならぬ。
だが索隆が水鶏を我が手で倒すことは、ついに叶わなかった。索隆が水鶏を襲う前に、あっけなく水鶏が死んだのだ。剣に倒れたのではなく、不慮の事故だった。
総統府御前試合に招かれた水鶏は、その帰り、駕籠(かご)を用意された。最初のうち鄭重に断り、自らの脚で帰ることを主張した水鶏だが、総統府の御厚意を無にするべからずという周囲の説得に渋々駕籠に乗った。
水鶏を乗せた駕籠は山に入り百段の階段に差し掛かり、あと数歩で登りきるというところで駕篭担ぎの一人が朽ちたきざはしを踏み抜いた。そのまま衡平を崩して駕籠諸共に転がり落ちた。
索隆が飛報を受けて水鶏の許へ駈け付けた時には既に水鶏は彼岸に旅立とうとしていたが、辛うじて索隆に告げた。
我が授けるべきの全ては授けた、このうえ天下を極めるを望むならば我が師、康識に会え、と。
索隆は水鶏の喪が明けるや否や、康識に逢うべく下山した。名士水鶏をしのぐ師となれば、仙人のような人物かと思えば、康識は都に住むという。
俗世に暮していながら剣の道を窮めるとは大層興味深く、索隆の足は自然と急いた。
果たして康識は、柔和に微笑む好々爺であり、索隆は少なからず落胆した。
水鶏の門を叩いた時よりも更にひと回り逞しい肉体となった索隆から見れば、康識は随分と華奢でひ弱に見えた。しかも勝負事に関わるとは到底思えぬほど柔和な雰囲気を纏っている。
しかしながら索隆は気を取り直して、己が剣を披露した。
索隆の剛強にして鋭利正確な剣捌を見ても、康識老は終始笑みを絶やさない。索隆の裡に、ふと、康識老を試そうという気持ちが起こった。
突然に康識老の懐深くに飛び込んで喉笛に狙いを定めた。しかし康識老は微動だにしなかった。
刃を喉に突きつけられたまま、康識老は言う。確かに剣筋は水鶏を越えておりますね、と。
直後、索隆の胸に悔恥の思いが広がった。真剣試合を申し込むなら良し。師の師を試すとは礼を尽くさぬ奢れる心なり。
許しを請うて教えを求めようとした索隆に、しかし康識老は言った。
貴公、斬之剣なら既に極めり、未だ知らずは不斬之剣…。
『不斬之剣』…未だかつて索隆は、そのようなことを聞いたことが無かった。
最強の剣とは、全てを斬る剣ではない。斬りたいものを斬り、斬りたくないものを斬らずに守る、それが最強の剣だと康識老は言う。
やはり索隆にはわからなかった。斬らずして何が剣であるか、と思う。斬りたくないものならば最初から剣など向けない。
そして斬りたくないものなど索隆には無かった。山であろうと川であろうと大地であろうと斬ってみたかった。
それでも索隆は、ならばその不斬之剣を我に教え給えと康識老に求めた。それが天下最強のために必要ならば、会得するまでだと思ったのだ。
康識老は笑った。これは教えられるものではない、自ら得るしかないのだと索隆に告げた。
かくして索隆は都を去り、再び山野を巡る旅に出た。天下最強を得るために日々剣を振るい、野生の自然の中で神経を研ぎ澄まし、先達に挑む。
天を突くが如くにそびえる山も、地の底に届くが如くに深い谷も、索隆には障害ではなかった。
草を食い、木の実を食い、川の水を飲み、時には山賊を狩った褒美の金で穀物と酒を得た。
ただ己の目指す高みのみを見据え、他には何も欲しなかった。索隆の心を捕らえているものは、強さのみだった。
旅に暮らして五年六年と歳月は流れ、索隆はある時、山を抜け森を抜け、広がる丘の眼下に蒼色を見た。空の青とも瑠璃の藍とも異なる、深く澄んだ蒼が大きく広がっていた。海、である。
海より遥か遠方の連山の麓に生まれ育った索隆は、かつて海を見たことが無かった。
それが今、話に聞くだけだった海なるものが見える。物珍しさと訳知らずの高揚感を伴って索隆は丘を下り、海を目指した。
だが地の利に暗い索隆が漸う海縁に到着した時には、とうに陽は落ち、漆黒の宵闇が海面を覆っていた。索隆は術無く夜明けを待った。
数刻後、残月皓皓(こうこう)、冷気一段と険しく、黎明を迎えた。東雲が色付き、海の彼方が白んでくるや、海面は刻々色を変えた。索隆はその色が蒼になるのを今か今かと待ち構えた。
やがて陽光高く、海の色が変化を見せずに落ち着いた時、丘から見えた澄んだ蒼色が見えないことに索隆は失望した。
海岸近くの浅瀬は、蒼というより浅葱の色だった。
深さがあって初めて海が蒼く見えるということを、索隆は知らぬ。
このようなものに気を取られ、強さ以外のものに心が動いたことがいけなかったのだと索隆は己を戒め、くるりと海へ背を向けた。
直後、煌煌と光を反射する眩しいものが目を焼いた。
それは黄金(こがね)の色をした髪だった。浜の松の元にぽつりと在る粗末な小屋から出てきたのであろう。墨染めの衣を纏い、海からの風に金糸の髪をねぶらせながら、男がすくりと立っていた。身の丈は索隆と同じく六尺程。だが体積が大きく違う。索隆の半分程の細身で雪のように白い肌だった。
海に気をとられていたとはいえ気配に気づかぬとは何事ぞ。そして気づかせなかった此奴(こやつ)は何者なるか…。己を責めると同時に不信と殺気を漲(みなぎ)らせて索隆は男に近づいた。
が、金髪はそれに気づかぬのか動じないのか、ふわりと表情を綻ばせて言う。
「てめェも待ってんだろ?」
はて、と索隆は首を傾げた。我は何かを待っていただろうか。否。
「俺は待ったりしねェ。欲しけりゃ自分で獲りに行く」
索隆のその答えに、男は大きく瞠目し、そして慈しむように言う。
「てめェは生れ落ちたばかりの赤子なんだな」
索隆には意味がわからなかった。それよりも衝撃だったのは…
――蒼だ!
瞠目した彼の瞳が蒼だった。見たいと思った蒼の海だった。
刹那、索隆の裡にこれまでに無い欲望が生まれた。強さにしか執着を示さなかった男がこの蒼の海を欲しいと思った。
『欲しけりゃ自分で獲りに行く』
その言葉を寸分もたがえず、索隆は出逢ったばかりの男を襲った。
無論男は激しく抵抗した。御されることを嫌う暴れ馬の如く索隆を拒絶し、細躯に似合わぬ重たい蹴りを繰り出し、綻ばせた表情が嘘のように修羅の形相で罵詈を吐いた。拮抗する闘いは一昼夜に及んだが、ついに索隆が男を組み敷いた。
強いられた苦行に、男の瞳には自然、水の膜が張った。その水膜がふつふつと盛り上がり、瞳の蒼色が滲んで広がる。まさに丘から見えた海だった。丘から海を見た時同様、索隆は高揚し満足した。
が、高揚は長くは続かなかった。男が喪心し、黄金の髪を乱して木偶(でく)の如くに崩れ落ちた時、索隆は海上から異様な気配を感じた。殺気とは異なる。だが強者が纏う気配だ。
果たしてその気配の中心に、南蛮風の装いの長身の男がいた。小船に乗って現れた長身男は己の身の丈程もある長刀を翳し、炯炯とした眼で索隆に問うた。海を荒らしたのはお前かと。
確かに海は昨晩から荒れ狂っていた。だが、さすがの索隆とて己に自然を支配する力があるとは思えぬ。戯言を言う男だ、と索隆は長身男を睥睨(へいげい)した。対して長身は言う。海の蒼を荒らしたのではないのかと。
蒼、と称されたものに心当たりを覚えたが索隆は咄嗟(とっさ)に、知らぬと答えた。
予兆もなく突然に海が荒れ、その凶荒の中心をこの付近と見た故に貴様に問うのだ。
船の上から再びそう威圧的に言われて索隆は最早意地になって、知らぬと答えた。
長身の男は疑うように目を細めたが、直に長刀を納め、まあ良い、と小船の進路を沖へと変えた。その背に索隆は声を掛けた。
貴公、並々ならぬ剣士と見た。いざ我と勝負を。我は最強を目指す者なり。
長身の男は、索隆を相手にしようとしなかったが、索隆は更に言い募る。
我に剣を翳しておきながら受けて立たぬ気か。
索隆の言葉に、長身の男は終に刀を抜いた。その身へ索隆が躍りかかる。
勝負は一瞬だった。どう、と倒れた索隆の身体を、海の潮が受け止める。薄れる意識に長身の男の声が届いた。
「未熟なる者よ、強さの果てに何を望む」
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