不斬之剣 ー弐ー


焼きごてを当てられたような痛みと喉の渇きに索隆が目覚めてみれば、己はどこぞに寝かされているらしい。だが身体は動かず僅かに動くは、頸(くび)と目玉のみ。
それらを使って辺りを伺うが人影は無い。
痛みと苦しさに自然と唇が、水、と容(かたち)作るが、声は掠れ、呻くようなその音を聞き止める者も無い。

索隆は再び喪心した。濁とした意識の中で冷ややかな感触を唇に得る。何者かが濡れた布のようなもので索隆の唇をそっと湿らせているのだ。
次には胸部から腹部にかけて冷たい何かが塗付される。薄荷(はっか)のような薬草のような清涼な香りがする。その芳香と柔かい感触に索隆の気持ちは静穏へ導かれ、索隆は全身の力を抜いた。

次に索隆が覚醒した時には、腕一本動かずにいた身体は幾分回復していた。
だが起き上がろうとすると、大きく袈裟懸けに斬られた腹の傷に激痛が走る。
それでも索隆は己の気力を振り絞って床から出ようと試みた。

「信じらんねェ。もう起きようとしてやがる」
呆れたような声がした。
顔を上げると、声の主は黄金(こがね)の髪と海の瞳を持つ、例の男である。
「てめェが俺を助けたのか?」
索隆は信じられない気持ちで聞いた。過日は夢中で男を奪ったが、省みれば恨まれて然るべきの所業であった。

「眼の前の浜で倒れていられちゃ仕方無ェだろ。放って怨死されてもおぞましいからな。もう歩けるんならとっとと去れ」
そうは言うものの索隆の腹の虫がぐうと鳴くと、金髪は舌打ちしながら粥(かゆ)を作り索隆に差し出した。差し出しながら金髪は訊ねた。その傷は誰にやられたのか、己の知らぬ間に何があったのか。

索隆が事の顛末を語ると、金髪は間髪入れずに「莫迦か、てめェは」と言い放つ。
聞き捨てならぬとばかりに索隆が訳を問うと、あの長身は天下一の剣士、てめェが敵う相手に非ずと言われた。
そう言われると逆に索隆の心は俄然熱くなった。そうか、ではあれを倒せば俺が天下一だな。

天下一を目指す索隆に、己を一撃で打ち倒した男を追うという明確な目標がこうして出来た。
先ずは追跡の旅に見合う体力が戻るのを待つ。と言っても索隆の回復力を常人のそれと比較してはならない。加えて金髪が施す食事と薬も索隆の回復に大きく作用した。

悪態をつきながらも金髪の男は索隆を追い出さずに食事を施す。朝晩に塗るようにと渡した軟膏を索隆がちっとも傷口に塗付しないのを見咎めて、仕舞いには一度渡した軟膏を奪い戻して索隆の傷口に塗り込むことまでする。

ふと索隆は、己の胸に軟膏を塗りこめる指先を見ながら、あの天下一の長剣の剣士が何故この海ヘ来たのか不思議に思った。その疑問をそのまま口に乗せた。
「アイツはなんでここに来たんだ。海が荒れたとかなんとか言って俺に難癖をつけてきやがった」
「てめェはホントに海のことはなんにも知らねェんだな。あの男は海の七武将の一人だ。海が関わる災厄を収める将だ」
「それとてめェは、どんな関わりがある?」
「俺? 俺は関係無ェよ」
「虚言だな。アイツはてめェを知ってるふうだった。アイツが海の七武将なら、てめェはなんだ?」
「さぁなぁ。嫌われ者であることは確かだな」
金髪は指先の軟膏を布巾のような小さな布で拭い取ると、慣れた所作で煙管を吸いだした。
吐かれた紫煙の向こうに揺れる金髪を見ながら索隆は思った。
確かにこの容貌では生き難かろう。黄金の髪に海の瞳に雪の肌…。稀有な姿だ。
「てめェ、名前は?」
問うと金髪は鼻で哂った。野郎に教えてなんの得がある、そう言う。
名前が無けりゃ呼びにくいと索隆が言うと金髪は仕方無さそうに、香吉士と名乗った。



索隆が再び刀を振るうようになるまでに必要な時はひと月にも満たない。
その間、索隆はひたすら回復に専念し、香吉士は索隆に宿と食事を提供し薬を塗る。二人共、大した会話は無い。
そんな素っ気無くも静淑な二十日余りの日々が、後に思えば二人の間で唯一度の幸慶の時であった。

虚空の亀裂の如くの三日月が徐々に肥えて丸みを帯びる頃、回復を見た索隆が長身を追っていざ海へ繰り出さんと、海を渡る運搬船に話をつけた。
しかしその頃から、海は索隆の追跡を阻むかのように荒れだした。
索隆は盛んに出航を促したが、海の怖さを熟知している船頭たちは決して「諾」と返さない。

そのまま五日六日と過ぎ、索隆は次第に苛立ってきた。海は黒い波を轟々と浜に打ちつける。索隆は、青色が水に溶ける美しさが見たいと無性に思った。
――これが本当に、あの丘の上から見た蒼いものと同じだろうか?
たかだかひと月足らずしか海を知らぬ索隆は、黒くうねる海を見ながら、己が騙されている気になってきた。
――これは海ではない。海はもっと蒼かった。もっと蒼くもっと美しく、深く強く心を捉まれるような、もっと切ないものだった…
その想いは、海へ出れぬ焦燥や憤慨と絡み合い、索隆の心の均衡を崩壊せしめる渦となった。香吉士に飛び掛り、濁流怒涛の暗黒の海でなく此の蒼の海を寄越せ、と彼を引き倒す。

一方香吉士は、爛爛たる狂気の双眸で己を奪い尽くそうとする索隆をどうしても蹴り飛ばせない。流血夥(おびただ)しく臓腑を見せてばっくりと肉が開いた身体を己の食事で癒し、己の指先でその傷が塞がるさまを感じてきたのだ。漸く塞がりかけたその傷を再び開くことが、どうして出来ようか。

その躊躇(ためら)いがちな抵抗は、一瞬索隆を戸惑わせた。
が、それも激情に飲み込まれる。
寒風吹き込む隙間だらけの粗末な小屋は、幾ばくも経たずに独特のすえた匂いに包まれた。
血液と汚濁の中に沈められた香吉士は、それでも一縷の望みを賭けて索隆に凶行の理由を問う。
索隆は、香吉士の小さき顎をがしりと掴み、潤んだ蒼眸を凝視して答えた。
「この蒼を寄越せ、俺が欲するのはこの蒼の海なり」と。

香吉士は失意をもって瞑目した。そして静かに嘆じた。
「同性のこの身に二度も仕掛けるに相応の訳があろうに、てめェは自覚無しなのだな。一度目の暴挙は己の心を知る間も無い衝動だったと言えもしようが、二度目はなんとする。せめて二度目の暴挙が一度目の衝動の意味を確かめんとする意なら赦してやろう。或いは二度目を仕掛けて漸く己の本意を掴んだと言うのなら、赦してやろう。しかし、同じ事を繰り返しながら、てめェは己の心に未だ気づかぬ。まるで、快と不快、欲と無欲の、単純な心しか持たない幼子(おさなご)だ。情の交わし方も女楽も、ろくに知らずに生きてきたんだろうが、仏の顔も三度と言うだろう? 俺は仏じゃねェからな、二度までで勘弁だ」
言い終えると香吉士はふらりと立ち上がった。片袖の取れた墨染めの着物を身体に引っ掛けて、小屋の引き戸をがらりと開けた。途端に飄風が吹き込む。
どこへ行く、と索隆がその背に問えば、さぁなぁだが今はてめェといたくねェ、と返された。
寒風にぶるりと震えたその肩がどこか寂しげで、索隆は香吉士を引きとめたいと思ったが、一緒に居たくないと言われては、掛ける言葉も無かった。

小屋に残された索隆は、たった今交わされた言葉を振り返った。
己の行動の理由を問われ、蒼が欲しいと答えた。それになんの間違いも偽りもない。
だが香吉士はそれを、幼子に等しいと言う。翻れば出逢った時も言われた。お前はまだ赤子だと。
俺は、菓子が欲しいと駄々をこねて奪おうとする子供と一緒だと言うことか…。
強くなることを欲する者にとって、強者の地位は奪うものだ。それひと筋に生きてきた索隆に、かつて誰も教えはしなかった。欲しいから奪うそれは幼稚な行為である、と。



どれ程の時が経っただろうか。荒天の暗い空は、昼と夜の境界さえ曖昧だ。
海が静まる気配はまったく無い。索隆が独り残った小屋の中にも、間近に瀑布があるような激しい波音が聞こえてくる。

その小屋に突如小さな影が三つ、飛び込んできた。香吉士が時折食べ物を与えていた孤児(みなしご)達だ。
子供達は仰臥の索隆に取り縋り嘆願する。死んじゃう死んじゃう、お願い助けて。
誰が死ぬのか訊ねれば、死ぬのは香吉士だと子供は言う。海神様の怒りを沈めるために人柱にされたのだと。
索隆は跳ね起きた。
小屋を出ていった香吉士の、覚束(おぼつか)無い足取りが頭をよぎる。
屈強な漁師達を相手にあの状態では、抵抗も虚しく封じられるだろうと想像に難くない。

果たして漁村の詰所に馳せ参じてみれば、漁村の衆が総出で集っているものの、すでに香吉士の姿は無い。
香吉士を海に沈めたとはまことかと索隆が詰問すれば即座に、否と返ってくる。
その答えに安堵したも束の間、続いて聞こえた言葉に索隆は息を呑んだ。
「沈めてはいない。だがもうすぐ沈む頃だろう」

どういうことだと詰め寄っても、助けるつもりならこの先は言わぬと口を引き結ばれ、索隆は遂に刀を抜いた。
刃で脅してようやく聞き出した香吉士の居所は、干潮なれば姿を現し、満潮なれば海に沈む岩肌で、そこに香吉士は磔(はりつけ)られていると言う。
「あやつは海を盗んだのだ。盗んで眸に閉じ込めたのだ。おまえも見ただろう。あんな蒼は人が持つものではない。海の蒼を、奴が瞳に写し取ったから海神様はお怒りなのだ。盗られた海を取り返そうと荒れているのだ。我等は海盗人に、その海を返させようとしただけだ」

莫迦な――! 怒号の叫びが索隆の咽喉を破って飛び出す。
香吉士がこの浜に来たのがいつかは知らぬ。だが、その時から海が平穏でない日が続いたとでも言うのか。十日も前の海は決して荒れてはいなかったでなないか。

だが索隆の言葉は誰にも届きはしなかった。
漁村にとって漁に出れぬは死活に関わる。これ以上海が荒れては困るのだ。
焦燥と不安が、毛色の違う者への攻撃に転じるのは世の常だ。
嫌われ者なのは確かだな、という香吉士の言葉が甦る。稀有な姿を疎まれて、唯それのみの理由であの男は命を奪われるのだ。

索隆は走った。香吉士が括られているという岩壁へ。
『今宵は大潮、助けようとしたらおまえが死ぬぞ』
詰所を飛び出した際、背に投げかけられたその言葉に、索隆の心が一層灼かれる。
山育ちの索隆に「大潮」の意は判らない。だが、危険な日だと言われたのは判る。
そんな日をわざわざ選んで香吉士をくくったのだ。



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