不斬之剣 ー参ー


すでに周囲は漆黒の闇。海がどちらにあるかも判らぬから、せめて方向だけでも判るようにと背負ってきた孤児が、索隆の肩口から灯りを翳すが、それもゆらゆらと揺れて足元は危険極まりない。
寄せ来る波頭を側面にして只管に走っていたが、ついに足を捕られてどうと転倒した。
子供も背から落ちて一緒に転がる。灯りも消えてあたりは闇に包まれた。

じっと目を凝らしていると、突如子供が、あ、と声を上げた。
小さな手の指差すほうを見れば、海へと迫り出した岩が黒く浮かび上がっている。
灯りが無くなったことで目が暗さに慣れ、遠くの景色が朧(おぼろ)ながらも見えてきた。

あの岩かと尋ねれば、童子は大きく頷いた。
だが海は既に潮位を限界近くまで上げている。索隆は思わず香吉士の名を叫んだ。
荒れる海の轟音で人の声など届く筈も無かった。しかし、その声を香吉士は捕らえ、半ば海に浸かった頭(こうべ)をついと上げた。
漆黒の闇で香吉士のわずかな動きなど見える筈も無かった。しかし、どうした訳か索隆の眸も、その香吉士の姿を捕らえたのだ。

だが香吉士を見つけた喜びに浸る間もなく索隆は絶望に打ちのめされた。
ざぶりと波が岩を打ち付ける度に香吉士の姿も水に呑まれる。波が僅かに引く一瞬だけ、かろうじて海面の上に顔を出せるに過ぎない。
今から海岸線を回ってあの岩へ走ったとて間に合わぬのは明白だった。

この海を切り裂くことが出来たなら…と索隆は己の修行の怠慢を痛悔した。
異国では海を割って海を渡った賢人がいたと聞く。人が成したことならば、自分も出来ない筈はない。海を割ってまっすぐにあの岩へと駆ければ香吉士を救うことが出来るのだ。なのに今の己の剣はそれが出来ぬ。
自信と希望に満ち、敗北さえも前を向いて受け止めてきた索隆が、己の無力さを初めて感じた。
なんの手立ても無く歯軋りをする索隆の前で、海は無情にも刻々と満ちていく。
そして遂に香吉士は海中に没した。

海はその後も一向に収まらず、却って激しさを増した。怒り狂った手を陸の奥にまで伸ばさんが如く繰り返し大津波が浜を襲う。
それから十日余りも経て、海はようやく静穏の態を取り戻した。
漁村はすでに壊滅し人の姿は無く、海面は陸への侵略を諦念したかの如くの静寂。
浜には唯、亡羊とした浅葱色だけが広がっていた。

索隆の姿も既にそこには無い。海を去ったのだ。
あの日、己が無体を働かずに穏穏といたならば、香吉士は自分の傍から離れず、暴徒の手に落ちることもなかったのではないかと思うと、悔恨の念に絶叫しそうになる。海を斬れなかった己が剣にも憤悶は募る。
索隆は山に篭り、煢煢として人を寄せ付けず、形を為さぬ水や風を斬る修行に明け暮れた。



 ◇ ◇ ◇

日が昇り日が沈み、ある時索隆は不思議な湖の話を耳にした。その湖は、淡水に棲む生物と海水に棲む生物が共に泳ぐ湖なのだと言う。詳しく聞けば、話は次の通りだった。

全てのものには表裏が在り善悪が在る。水に棲む龍神に対して龍鬼が在る。
その龍鬼が海の珠を手に入れた。珠を取られまいとして海神が遣わした追手の将達を龍鬼は無慚に打ち滅ぼし、更なる追撃が届かぬように川を遡って高嶺の湖に潜んだ。
その湖は、海の珠を手にした龍鬼が潜んだせいで、淡水に棲む生物と海水に棲む生物が共に泳ぐ不可思議な湖となったという…』

その話は索隆を大きく動揺させた。
湖の不可思議さよりも龍鬼の強さよりも、何より索隆の心を捕らえたのは海の珠にまつわる部分だった。
その珠は、海の蒼を写し取ったかのような格別美しい蒼色を閉じ込めており、海の珠を持っていた元の持ち主は盲目となって龍鬼の手下たちに夜毎食われているのだと、その話は語る。

――海の蒼…。盗られた持ち主は盲目に…。
索隆はその珠が、香吉士の瞳に思えてならなかった。



行脚の果てに龍鬼が潜むという湖を探し当てた索隆は湖面に向かって剣を振るった。
修行の成果は然と現れ、湖水は割れ、龍鬼の潜む岩窟へ通じた。
岩窟の奥は、空間が歪んでいるのか、ぽっかりと広い。
血気満々で乗り込めば、確かにそこに、索隆の三倍はあろう体躯の龍鬼がいた。
そして盲(めしい)となった香吉士の気配もまた、そこにあった。

やはり海の珠とは香吉士の瞳であると確信を得た索隆は、醜悪巨大な龍鬼を前に一歩も怯まず、蒼を返せ、と咆哮した。
侵入者がただの人間であることに気づいた龍鬼が鼻で嗤う。
「捕れるものなら捕るが良い」
大きく両手を広げた龍鬼に索隆は、う、と歯噛みをした。龍鬼の心の臓の真上に、蒼き珠が埋め込まれている。

龍の悪鬼だけあって、龍鬼の身体は硬い鱗に覆われている。
鋼を斬れる索隆であっても、鱗の重なった頸(くび)は見るからに太く頑強で、刎首せんと薙ぎ払っても一撃では絶命に至らぬと思われた。
となると狙うは心の臓のほか無い。
しかし、取り戻すべき蒼が、その心の臓の盾にされているのだ。

むうと唸る索隆を前に、龍鬼の手が風を切って動く。
一見、蝿を追い払うような動きだが、指先の長く鋭い爪は確実に索隆を狙ったものだ。
咄嗟にそれをかわした索隆に対し、龍鬼は今度こそはっきりと索隆に向かって攻撃を飛ばした。
右に左にと飛んでくる鋭利な爪が索隆に伸び、遂に鋭い爪が索隆の身体を掠め、索隆の左肩から血飛沫(ちしぶき)が上がる。
踏みとどまって構えを正した索隆は、覆い被さるように迫ってきた龍鬼に対し、身体を沈めて下から刀を薙ぎ上げる。
皮膚を裂いた感触があった。
勢いに乗って、次には刀を振り下ろそうと索隆は飛んだ。
が、上段から振り下ろそうとした先に、蒼の珠があるのに気づいた。
この剣筋では蒼の珠をも斬ってしまう。

その躊躇が索隆を窮地に陥れた。
迷いを含んだ剣は龍鬼に易々とかわされ、索隆の背後を取った巨体が体当たりを食らわす。
索隆は石壁にしたたかに打ちつけられ、あばらは砕け、肩の刃創益々開いて流血に塗れた。
その後も索隆の剣は龍鬼に挑むが、急所を思い切って狙えぬことが大きな枷となって、形勢は明らかに不利だ。その間にも失血で全身に倦怠が広がってくる。
索隆は己の敗北を悟った。
そんな索隆を見下しながら、龍鬼は何事かを手下の鬼に合図した。そして嘲って言った。
「良いものを見せてやろう」

龍鬼は残忍な鬼だった。
あの日龍鬼は、海に呑まれようとしていた香吉士を攫(さら)い、眼窪から蒼い眸珠を抉り出して、残った身体は用無しとばかりに手下の鬼に投げ与えた。
が、蒼を奪ってしまえば興味など無いその盲目の身体は、手下の鬼たちに組み伏されるのを嫌って、思いの外激しい抵抗を見せた。
鬼に屈せず抗い闘うその姿と、抵抗に比例して残酷さを増す鬼達の狂気に、龍鬼は愉しみを見出した。
やがてそれは夜毎に繰り返される遊戯となる。
日没とともに遊戯は開始され、鬼が盲の痩身に群がると、盲がこれを蹴り飛ばす。盲とは思えぬ動きで忽(たちま)ち瀕死の鬼が積み上がる。
だが鬼達は不死身に近い。息の根を止めない限り、人間の幾千倍もの早さで傷は閉塞し、骨は接合され、再起して盲を襲う。
尽きぬ襲撃にやがて疲労した盲は鬼達の汚辱に沈む。
毎夜それの繰り返しだ。

「良いもの」として索隆が見せられたのも、それだった。
盲の金髪が引き出され、鬼達相手の孤立無援の奮戦が繰り広げられた。やがて盲は力尽き、石の卓上で脚を開かされ、人の字型に戒められて貪られる。
その光景に索隆の心は乱された。
乱れた心のままに今一度龍鬼に飛び掛るが、乱れた剣筋が龍鬼に届くわけもない。
地に叩きつけられ、ぴくりとも動かなくなった索隆の身体は湖の岸へと投げ捨てられた。
だが索隆は並々ならぬ剣士である。常人ならとうに命を失っているところだが、数刻の後、索隆は軋む身体を動かし、がばりと血を吐きながらも気丈に立ち上がって下山した。



龍鬼は倒さねばならぬ。だがあの珠は斬ってはならぬ。
斬りたくないものを初めて具体的に意識した索隆は、まだ存命であった康識老を訪れた。
康識老は以前と変わらず柔和に微笑みながら索隆に尋ねた。斬りたくないと思う心はなんなのですか、と。
アレが欲しい、と即答すれば、康識老は笑って言う。
「欲しければ力ずくで奪えばよいではないですか。鉤爪の武器を貸してしんぜましょう。その鉤爪を珠に食い込ませて魔物の腹から抉り出せばよいのです」
違う。そうではないのだ。索隆は訴えた。あの蒼を傷つけたくはないのだ。
康識老は微笑みながら言った。
「珠が欲しいのか、珠を護りたいのか、どちらなのです?」

かつて水鶏の元に弟子入りした時、剣術を習得する以前に必須として、先ず言われた。物を視よ、生きたものを視よ、見ずして視よと。
そして今、水鶏の師が言う。心を視よ、と。

真っ更(さら)な心に戻って索隆は考える。自分はアレをただ欲しいだけなのか、アレを護りたいのか。その答えこそが、斬りたくないと思う心なのではないか。
索隆はかつて香吉士に幼子だと言われたことを思い出した。天下一の剣士に強さの果てに何を望むかと言われたことを思い出した。
強くなりたいから、強者の地位を望む。その「強くなりたい」という気持ちがそもそもなんなのか、何故強くなることを欲するのか、その深層の意味に気づくべきだったのだ。

人を薙ぎ払って殺戮して支配するために俺は強くなりたいのか…。否。
欲しいものを…例えばあの蒼を…簡単に掌中にせんがために強くなりたいのか…。否。
俺はそういうものから自由になりたいのだ。殺されず支配されず奪われずにいたいのだ。そしてあの蒼も、殺されず支配されず奪われずに在ってほしいのだ。己と己の大切なものに降りかかる暴力に屈しないために強くありたいのだ。

大切なもの――そこに至って索隆はようやく合点した。己がいかに幼子だったかを。
あの男に出逢った点に仕掛けたの暴挙は、輝くものへの単純な憧憬が、手中にしたいという衝動に瞬時に代わっただけのものだった。
だがその後の己の心に再三再四甦るのは、あの鮮やかな蒼色だけではない。
黄金の髪を風に弄らせながら海を眺める表情、煙管の吸い始めに目を細める癖、粥を作る後姿、軟膏を掬う指先、墨染めの衣から覗く足首、柔らかな声…そうした所作や表情のひとつひとつを俺は蒼色よりも頻繁に思い出してはいなかったか。
思い出すということは、己がそれを目で追っていたからにほかならない。記憶に刻み、頻繁に思い出すほど目で追っていたのだ。
香吉士はそれに気づいていた。だが索隆自身は当時それに気づきもしなかった。



心を視ることを学んだ索隆は、今まで半信半疑だった不斬之剣の存在と意義を正しく理解した。
しかし理解したからといって、それがすぐさま剣に現れるものではない。観念をどう剣に吹き込み具現とするか、そこが問題である。
そんな途方も無いものを体得しようとしているにも関わらず、索隆は腐ることなく日々修行に励む。
現在の自分の未熟さに絶望しても、己が剣の可能性には決して絶望しない。それは索隆を類無き剣士たらしめる天分のひとつであった。

やがて索隆が康識老の元を去り再び龍鬼の棲む湖を目指した時、その勇侠の姿が決して徒(いたず)らな気負いでないことを人々は感じたという。


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