紙でできたお月様 #3
昨晩遅くサンジの部屋に女が入っていったのは知っている。
向かいの部屋でベッドに横たわりながらゾロは、今までは出費を惜しんでゾロと同じ部屋だったのに今回に限って別々の部屋を取ったのはそういうことかと、思った。
けれどサンジは大人の男だし、女好きだし、そういうこともあるだろう。
別にとやかく言うつもりはない。ひと晩限りの情事に口を挟むこともねェ。
ゾロは「ませガキ」らしく、そう思った。胸のあたりがしくしくするような気もするが気のせいにした。
女はサンジにエスコートされてやってきた。
はちきれんばかりに膨れた胸が、ひと足ごとにゆっさゆっさと揺れる。
ウエストはきゅっとくびれて、形の良い尻を見せつけるように、腰をくいくいっとひねって歩く。
二人の後ろからついてきた荷物持ちが、それに気を取られて危うく荷物を落としそうになる。
女の荷物がサンジの車に積み上げられてゾロは呆気に取られた。
(別れを惜しみに来たんじゃないのか? この車に乗るつもりか?)
一番上の箱からはみ出している、ふわふわした羽で縁取られた扇子をゾロは睨みつけた。
ショーの看板に描かれた踊り子が持っていた扇子よりも小さい。こんな小さな扇子で隠せる範囲なんてたかがしれている。そんな女の手をサンジはうやうやしく取っている。
「マデリーンさんだ。イーストへ行くというのでお送りすることにした」
サンジの言葉にゾロは思い切り眉を寄せた。
これが言葉通りにただ送るだけならゾロも強く反対はしない。しかし、女に弱い男と、性的魅力を振りまく女が一緒にいるのだ。ただ送るだけで済むはずが無い。
ひと晩限りの情事と思っていたのに、裏切られた気分だった。
その日から、やれ景色が素敵だの服が欲しいだので寄り道が増えた。
晩には豪奢なホテルに泊まるようになった。もちろん部屋はゾロとは別々だ。
ゾロの定位置だった助手席は、さっさとマデリーンに奪われて、ゾロは後部座席だ。
その隣に積まれた衣装箱はどんどん増えていく。貯まった金はどんどん少なくなる。
二人は何がおかしいのか、小さなことで笑い合って楽しそうだ。
ゾロはそれを見るたび、どうしてだかわからないけど、不愉快な気分になる。
またひとつ後部座席にマデリーンの衣装箱が増えた夕刻、ゾロは怒りを爆発させた。
「これ以上あの女のもん買ったら、俺の座るところが無ェ! あのメス牛がいなくなるまでは、俺はなんにも食わねェからな!」
ハンガーストライキだ。
サンジは自堕落な詐欺師のくせに、食べることに関しては、ずいぶんマメにゾロを気に掛ける。
『独りで食う飯は美味くないだろ?』と言って、マデリーンと熱い夜と過ごした翌朝も、ゾロと一緒に朝食のテーブルにつく。
もっとも髪はぼさぼさ、首筋にはキスマークと散々な格好な時などは、ゾロのほうが恥ずかしい。
それでも、朝食の時間は毎度サンジを占有できる時間だ。
その占有時間を失うのも、サンジの食事へのこだわりにつけこむのも気が引けるが、仕方がない。
ゾロのハンガーストライキ宣言は、狙い通りサンジを動揺させた。
マデリーンの前では平静を装っているが、いなくなると途端にゾロをなだめようとする。
「おまえが不満なのもわかるけどよ、俺はちょっと彼女を楽しませてやりてェだけなんだ。彼女、男運が悪くて、貢いでは捨てられてたらしい」
(あほらしい。どうみても貢いでるのはサンジのほうだ)
「金か? 金のこと怒ってるのか? 悪かったよ。金は無駄遣いしないようにするし、そのうち『商売』もするさ」
(そんなことじゃねェ)
「何が気に食わねェんだよ? 俺たち楽しくやってるじゃねェか。てめェに上等な服だって買ってやったし」
(女の服のついでにな)
「ベッドだって今までよりふかふかだ」
(俺だけ違う部屋だけどな)
サンジは気が長いほうではない。ついに怒鳴った。
「そうかよ、食いたくねェってんなら勝手にしろ!」
そう言いながら、結局は何も食べないゾロを放っておけない。翌日も盛んに機嫌を取ろうとしたり、説得しようとしたりする。食事がダメでも菓子ならどうだとばかりにティータイムに誘ったりする。だが、マデリーンと離れる気はないのだから、話は平行線だ。
「おい、特別にルームサービスだぜ。食えよ。てか、食ってくれ」
夕食をボイコットして部屋にこもったゾロのもとにサンジがやってきて、皿を差し出した。
皿には2種類のサンドイッチが乗っている。
「これ、アンタの…」
「あぁ。おまえがうまいって言ってくれたから」
サンジが困ったように笑う。
「あの女を放り出すことにしたのか?」
「いや、それはあんまり可哀想だろ。けど、出来るだけ早く送ってくから。な?」
ゾロはがっかりした。
ゾロだって、さっさとこのストライキを終わらせたい。お腹がすいているというだけではない。サンジのこんな困り顔は見たくないのだ。いつもこの時間は、バーカウンターかダンスホールであの女と過ごしているのに、今日は自分のために、サンドイッチを作ってくれた。その厚意にだって応えたいのだ。
ゾロのお腹がぐううと鳴った。それでもゾロは皿に手を伸ばそうとせず、口をへの字に曲げたままサンジのことをじっと睨みつけた。
サンジは深いため息をついた。もう心底お手上げだという顔をした。
ゾロの心が不穏に揺れた。
(俺、ヤな奴だよな。でも、ここで引いたら負けだよな? もうひと押しでサンジは折れるさ、きっと)
困惑した顔で煙草を吸いに出ていったサンジの後姿を見ながらゾロは自分に言い聞かせた。
サンジはなかなか戻ってこなかった。それがゾロを落ち着かなくさせた。今すぐにでもベッドを飛び出してサンジを追いかけたい気持ちが湧いてくる。
まさにベッドから出ようとした瞬間、部屋の扉が開いた。
「サンジ!」
思わず喜色の声を上げてしまったのに、そこにいたのはマデリーンだった。
舌打ちしたい気分だ。この女は何をしに来たんだろう。ゾロを嘲りに来たのだろうか。
ところがマデリーンは予想外のことを言った。
「ねえ、安心して。あたしもサンジも、アンタをのけ者にするつもりはないし、邪魔だとも思っていないわよ」
どきんと胸がなった。
女ってのは鋭い。理論にはからきし弱いくせに、感情には敏感だ。
認めたくなかった寂しさと不安を言い当てられてゾロは本能的にマデリーンを睨みつけた。
「そんな怖い眼をしないで。あの人を取るつもりもないから。ただちょっとだけ貸してほしいの。今まで出会った男はみんな身体狙いだった。セクシーだの腰つきがいいだのは言ってくれたけど、あたしみたいなのを天使だと言ってくれたのはあの人だけだったわ」
マデリーンははにかむような表情で言った。
それが演技だったのか、それともその時は確かに本心だったのか、わからない。
けれどゾロがその表情にほだされたのは本当だ。
独りでだって生きていけるとばかりに振る舞っているけれど、心のどこかが恋しがっている。
今のマデリーンはそんな自分と重なってみえた。
「わかった。休戦協定だ」
「ものわかりがいい子で良かったわ。それ、食べなさいね。いらないなら、あたしが食べちゃうわよ」「やるもんか!」
うふふと笑いながらマデリーンは出ていった。
残されたゾロはそおっとサンドイッチに手を伸ばした。
ひとつめはパストラミとクリームチーズとサラダ菜のサンドイッチ。チーズにナッツが入っているのがサンジ流だ。これをゾロが美味いと言ったことをサンジはちゃんと覚えていてくれたのだ。
もうひとつは、ピーナツバター&ジェリー。ゾロの母親が作るものよりくどくない。程よい甘味が空腹も心のトゲトゲも両方溶かしていく。
「珍しくもねェ定番のサンドイッチなのに、なんでアイツが作るもんは美味いんだろう…」
ゾロは思わずつぶやいた。
(マデリーンと休戦できてよかった。こんな美味いもん食い損ねるとこだった。もうサンジを困らせないで済むしな)
ゾロはそう思いながらサンドイッチをたいらげた。
しかし、休戦協定は良いことばかりではなかった。マデリーンの振る舞いがいっそう扇情的になったのだ。
ゆさゆさと揺れる豊満なバストや腰をくねらせる独特の歩き方は強調され、サンジの意識はどうしてもマデリーンに流れていく。もちろん意識だけでなく、洋服代だの宝石代だののお金も流れていく。
ゾロが抗議すると、あと少しの間なんだから大目にみてほしいわ、と開き直る。『休戦』をカサに、たっぷり楽しもうというわけだ。
3日目の宿泊先でゾロは決意した。
『ものわかりのいい子』は止めだ。休戦協定も終いだ。戦闘開始だ。サンジにもいいかげん目を覚ましてもらわないと、あの女に素寒貧にされてしまう。
ゾロは、「詐欺師に向いてる」と言われた頭脳をフル回転させて計略を練った。
翌朝ゾロはマデリーンに耳打ちした。
「昨日荷物を運んでくれたデカいポーターがいただろ。あいつがアンタに気があるみてェ。アンタってもてるんだな」
マデリーンにポーターのことを意識させたあと、ゾロはそのポーターになりすまして手紙を書いた。
あなたの魅力はずば抜けている、相場の3倍と言われても驚かないだろう、お部屋に尋ねてもよいのならドアノブにこのリボンをかけてほしいというような内容だ。
その手紙とリボンをサンジがいない時を見計らって部屋のドアの下からすべりこませる。
ゾロはマデリーンのような女が、どれだけ現実的かをよく知っていた。したたかで現実的な彼女たちは、束の間の甘い恋よりも金のほうが頼りになるという算段を下すのだ。
予想通り『相場の3倍』にマデリーンが飛びついた。頭痛がするから独りになりたいと言ってサンジが部屋に近づかないようにした。ドアノブにはしっかりリボンがついている。
あとはポーターをけしかければいい。このポーターはチェックインした時にマデリーンの身体を粘っこい眼で見つめていたから、すぐに話に乗ってくるはずだ。
チェックアウト客のラッシュが終わり、ポーターの仕事が手隙になった頃を見計らってゾロは声をかけた。
「マデリーンがアンタのこと魅力的だって言ってたよ。そそられるって」
「連れの男は恋人じゃないのか?」
ポーターは少し警戒して言った。だが、こんなことを尋ねるとは、返答によっては乗り気だということだ。ゾロは手ごたえを感じて続けた。
「そんなんじゃないよ、俺の父さんだ。マデリーンは駆け出しの女優で、父さんはマネージャー。だから大切に扱ってるだけさ。恋人でもなんでもないよ」
ゾロはなるべく普通の子供のような言葉使いでフロントマンに話した。
「アンタの魅力をもっと知りたいから部屋で待ってるってさ」
マデリーンからのことづけを預かったようなふりをしてゾロは畳み掛けた。
ポーターはそそくさと今日のスケジュールを見直して、ゾロに囁いた。
「15分後に行くと伝えてくれ」
30分後、つまりポーターがマデリーンの部屋に吸い込まれてから15分後、ゾロはサンジに言った。
「マデリーンがフロントで頭痛薬をもらって、部屋まで持ってきてほしいって言ってたぜ」
こう付け加えるのも忘れなかった。
「頭に響くからノックはせずに入ってきてってさ!」
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