ドアボーイが重いドアを開ける。そのドアの中に入ったとたん待ちかねたように支配人が寄ってきた。ブラックスーツの上下は最近太ってきた彼には少々きついようだ。蝶ネクタイもわずかにゆがんでいる。目を合わせようとするとそらすように下を向き、
「妙な客が来ておりまして…」
と口にした。

時刻は夜の11時を回っている。高級クラブではこれから客が増える時間だ。しかし今日は12月24日。宗教色の強いこの地の人々は、クリスマスの朝を家族で迎えるために今夜は早めに家へ帰る。それが、いつもはこの高級クラブで上等のホステスを両脇にはべらせている者であっても、マフィアの一員であってもだ。
ゾロシアは先をうながすように支配人を見た。この支配人が、高級クラブの若きオーナーである自分に話しかける言葉は、毎度毎度「おかげさまで繁盛しております」という言葉だった。そうでないのは今日が初めてではないだろうか。
支配人はゾロシアの視線に益々下を向きながら話し始めた。
「最初に見たことのない客だと思ったのはドアボーイでして…」

若いドアボーイは、その男が大理石の階段を上ってクラブのドアに近づいてきた時から気になって眺めていた。常連客ならちょうど良いタイミングでドアを開けるのだが、一瞬遅れたのはこの男を通してよいのだろうかという迷いが生じたからだ。
結局ドアを開けたのは、男の身なりが非常に良かったからである。肩まである栗色の髪はゆるやかなウェーブをえがいて整えられており、ブラックスーツの上下は布地も仕立ても申し分なく、男の身体を品良く包んでいる。白の手袋は上等の革で、靴はピカピカに磨き上げられている。そのうえドアに近づいた彼からはなんとも芳しい香りがしたのだ。安物の香水ではありえない。どんな車で来たのかは見なかったが、充分にこのクラブの客にふさわしい。そう判断してドアボーイはドアを開けた。

「もちろん私どもはご紹介者のお名前を伺ったのですよ…」
支配人が汗をふきふき言う。いくら身なりが良くても、物騒な客はお断りするのが高級クラブの鉄則だ。そのため、初めて訪れた客の場合は紹介状を提示していただく。
「こちらがお客様が提示した紹介状です」
フロントマンがうやうやしく差し出したカードにはロビータの名前があった。なるほどこれでは店内に入れないわけにはいかないだろう。身なりは上等、紹介者はロビータ、ということなら客としては完璧だ。

「今までの説明だとどこにも妙なところはないな。いったいその男のどこが妙だと言うのだ？　ボディチェックだってしたんだろう？」
「えぇ、ボディチェックをしたからこそ妙だと思うのです。初回の方は紹介状を持っていらしても小切手やカードでなくキャッシュでお支払いただくとお伝えしたのですが、高級な酒を何本も開けさせ、ホステスに大盤振る舞いしておるのです」
つまりボディチェックした時には、それほどのキャッシュがポケットに入っているようでは無かったと支配人は言いたいのだ。
「散在するような成金（なりきん）にも見えませんでしたし、ロビータ様のご紹介状も持っていらっしゃいましたので店内にご案内したのですが…」
妙だと思って注意し始めるとゲストブックに記帳した名前も疑わしいと言う。
「なんて名だ？…」
ゾロシアの問いかけに、支配人はゲストブックを開いて見せた。ゲストブックには『ジョバンニ・テノーリオ』と走り書きがあった。
ゾロシアは眉間にしわを寄せた。ジョバンニ・テノーリオをスペイン風に直せば「ファン・テノーリオ」、つまり伝説の女たらし「ドンファン」と同名だ。
胸がざわついた。こんな偽名を使う人物に心当たりがある。

ゾロシアはモニタールームへは行かずにフロアの端から店内を覗いた。初めての客や怪しい客は店の中央のテーブルに通すのがこのクラブの決まりだった。店内のどこからでも様子が見える。
男は上等のホステスを4人もはべらせてカードゲームに興じている。優雅にカードをシャッフルして皆に配り、手札の中から何枚かを捨て、順に隣の人のカードを引く。時々引いたカードと手札をペアにして捨てている。どうやら『ル・プイユー（ババ抜きに似たゲーム）』をやっているようだ。こういう場では頭を使うゲームより簡単なゲームのほうが盛り上がる。実際テーブルでは楽しそうな笑い声が上がっていた。

ランクと色がそろったカードをテーブル中央に捨てて３人のホステスが次々に上がった。残ったのは男と、店のナンバー2のホステスだ。ウェーブがかかった黒髪と漆黒の瞳が美しく、自分のチャームポイントを引き立たせるパールピンクのドレスを着ている。ホステスが2枚、男が1枚カードを持っていた。
男がホステスのカードを引いた。どうやらスペードのジャックを引いたようだ（『ル・プイユー』ではスペードのジャックがババに当たる）。ちょっと待ってと言うようにウィンクして、持っている２枚のカードをシャッフルする。男の指先であるのに妙に艶めかしい。用意ができたとばかりに2枚のカードをホステスの前に差し出す仕草で栗色の髪がさらりと流れ、横顔がよく見えた。光度を落としたシャンデリアの下でも、男の肌が女たちよりもそれよりも薄い色をしているのがわかる。
差し出された2枚のカードから1枚をホステスが引いた。そのとたん「私の勝ちね！」ホステスは嬉しそうに宣言して手の中のカードを捨てた。とたんにほかのホステスたちも一緒に歓声を上げる。
「あなたが負けたらこの店で一番上等のシャンパンを開けていいって言ったわよね、ジョバンニ」
「キスもくれるって言ったわ」
「嘘じゃないわよね？」
ホステスたちが口々に言う。
「嘘なんかつくものか。シャンパンもキスもあげるよ」
男は笑いながらボーイにシャンパンを注文し、ホステスらの唇にキスを落とす…
と見せかけて、頬や額や耳にキスをした。
「あらズルいわ！　こんな子供だましのキス！」
「大人のキスはベッドに行ってからさ」
そう言いながら男はテーブルの下でホステスの足に自分の足を絡めた。

なるほど名前だけでなく行動もドンファン気取りってわけだ。
ゾロシアが少し眉を吊り上げて男を見つめると、ふっと男が振り向いた。
そしてちらっとゾロシアの方へ視線を流して、ほんの少し口角を上げた。
――あんの野郎…
ゾロシアは舌打ちした。
あの野郎、確信犯だ。俺が見ていると分かっててやってやがる…。
ゾロシアは即座に支配人に合図をした。



「お客様、お楽しみのところ失礼ですが、そろそろチェックをお願い致します」
支配人が男にそう告げた。
「チェック？　また12時前だぜ？　夜はこれからだろう？」
「お客様は初めてのお越しですので。今後ごひいきにしていただけました時には、一層のお楽しみをなさってください」
こういう店が一見（いちげん）の客に冷たいのは当たり前のことだと言わんばかりに、支配人はすました顔で言ってのけた。
「こちらがご請求になります」
と示した金額はひと桁まちがっているんじゃないかと思うほど高い。
男はスーツのポケットから札束を取り出し、ポンと支配人に投げた。だが支配人は顔をしかめた。
「これでは３分の１にも足りません」
「それ以上は無ェ」
「なんですと？」
「それで全部だ」
「ここで散々高級酒の栓を開けさせ、ウチのホステスを４人も呼びつけておきながら、金が無いで済むとお思いですか？」
「無いもんは無ェ」
しれっと言いながら男はシガーの火を点けようとする。そばにいたホステスが、いつものくせでライターの火を起こした。
「ありがとうエルヴィーラ」
男は極上の笑みでホステスに感謝の言葉を述べて、シガーをうまそうに吸った。
その様子を見た支配人が青筋を立てた。こんなふうに客になめられたら支配人としては失格だ。しかもオーナーゾロシアが来ているというのに！
「ふざけるんじゃねェぞ」
ゾロシアの前で恥をかかされた支配人は、怒りを込めて言うや、さっと手を上げた。とたんに屈強な男たちがやってきて、栗色の髪の男の両脇を抱えあげる。
「そいつを倉庫にぶちこんどけ、あとでたっぷりかわいがってやる」
「どうせかわいがってもらうなら、そっちの男がいいな」
両腕を取られた男は怯えるでもなく、店の端にいたゾロシアを顎で差し示した。
「調子に乗るじゃねぇ！」
腹に据えかねた支配人が、男のみぞおちに鋭く重いこぶしを入れた。
グ…とくぐもったうめき声が漏れたかと思うと、男の身体ががくりと崩れた。
そのままずるずると引きずられていくをみたゾロシアはため息をついて言った。
「その男の始末は俺がつける」
「そんな！　坊ちゃんの…いえゾロシア様の手をわずらわせることはありませんよ」
「そうか？　そいつはロビータの紹介状を持っていたんだろ？　もしその紹介状がホンモノだったらどうする？」
支配人の顔がサッと蒼ざめた。彼らはロビータのことを闇の女と呼んでいる。数々の暗殺はすべて彼女の指揮で行われたという噂を信じているのだ。


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