「ゾロ! 聞こえてる? ゾロ!」
頬が固いもので繰り返し叩かれる。
――痛ェな……。いいから寝かせろよ、チョッパー。



うみへ #1



ゾロは川沿いの土手を歩いていた。前方には河口があり、暖かい海風が吹いてくる。潮の香りを含んだその風が吹くと、川の表面の水が逆流して、川面にちりめんじわのような細かなさざ波が立つ。
川向うはなだらかな丘になっており、赤や薄桃色の花が見える。ときおり漂ってくる花の香は、それらの花なのだろうか。
少し霞んだような淡い青色の空にはとんびのような大きな鳥が大きな羽を広げて悠々と旋回している。
行き交う人の姿はなく、とても静かだ。
その中をゾロはただひとりずんずんと道を進んでいた。

ふいに前方に白っぽいものが見えてきた。
かくんかくんと、やや機械的に揺れるそれは、近づくにつれ人の後姿をかたちどり始めた。子どものようだ。
髪は象牙色にひとしずくの金を混ぜたかのようなごく淡いシャンパンゴールド。ちょうど耳にかかるあたりから、うなじに沿って切りそろえられている。
やや長めの白いパーカーが背中から腰、太ももの上部あたりまで覆っており、その下に濃紺の長ズボンが見える。
身体つきは骨ばっていて男児のそれだ。
ゾロが大股でずんずんと進むと、じきにその子どもに追いついた。

横に並んで初めて、その子どもが手押し車を押していることに気づく。椅子型をしていて腰掛の下に荷物を入れられる形をした、高齢者が使うことの多い手押し車だ。動きがかくんかくんと機械的に見えたのは、手押し車の車輪が道の小石を乗り越える動きだったのだ。
それにしても、手押し車を握る手のなんと細いことだろう。あまりの細さに驚いて、ゾロはつい声をかけてしまった。
「どこまで行くんだ?」
額に玉の汗を浮かべながら手押し車を押していた子どもが、ぴくんと反応する。淡い色の髪がゾロの肩の下で揺れ、振りむいてゾロを見上げた。手押し車を押すのに必死のあまり、ゾロが横を歩いていることに気づかなかったのだろう。丸く見開かれた瞳は、美しい青だ。その瞳がすぐに、探るような鋭い視線に変わる。

子どもが警戒しているのを感じてゾロは言い方を変えた。
「押してやろうか?」
それまでゾロをじっと検分していた子どもが即座に返事を返してきた。
「それ親切のつもりか? 気遣いはありがてェが、要らねェお世話だ」
しっしっとおいやるかのように手を振られた。
――俺は犬かよ
言葉も態度もかわいげがない男児の態度に、ゾロは鼻白んだ。
子どもはそんなゾロに取り合わず、また手押し車を押して進み始めた。
よちよちというかよたよたというか、要するにすんなり歩いているとは言えないその歩みがやはり気になって、ゾロはあとについて進もうとした。そのとたん。
「ついてくんな!」
子どもが振り返って叫ぶ。
ますますもってかわいくない。

さすがに興ざめしたゾロは、以前と変わらぬ歩調でずんずんと進んで、子どもと手押し車をゆうゆうと追い越してやった。大人げないと思いつつも、あの子どもにちょっとした悪戯心というか対抗心というか、張り合うような気持ちが生まれたのだ。
手押し車のガタガタいう音はすぐに背後に遠のいていく。
耳に入らなくなったのもつかの間、ドサッと、今までとは違う調子の音がした。振り返れば、さきほどの子どもが倒れている。
転ぶ拍子に押し出してしまったのか、手押し車が子どもの手を離れて動き出す。慌てて車輪をつかもうとする細い手はまったくの空振りで、悪いことに、車輪が路上の石に進路を曲げられて、土手から斜面を下りだした。
あっという間もなく手押し車はたちまちに土手を駆けくだり、河岸の土嚢にのめりこむようにぶつかって横倒しになってようやく止まった。その衝撃で、荷物入れ兼用の腰掛の蓋がパカッと開いて紙袋が転がり出た。

「大丈夫か?」
子どもに走り寄って手を差し出すと、その手をパンと払われた。
子どもは地面に這ったまま、上半身だけぐいと持ち上げて河岸を指差し叫んだ。
「俺よりカートだ、ばかやろう!」



ゾロは「かわいくねぇ…」を頻発しながら土手を下った。枯れた芝草のうえに転がった手押し車と紙袋を拾って土手にのぼる。子どもはゾロから手押し車をすばやく取り上げると立ち上がった。
「水筒はどこに行った?」
「知らねェよ。落ちてたのはコレだけだ」
紙袋を差し出したゾロをじっと見つめ、子どもはそれから腰掛の座席部分の板を持ち上げた。
「あ、良かった、あった」
心底ほっとした調子で言う。それから慌ててまた手押し車を押して進もうとする。必死の様子だ。 10メートルほど進んだところで子どもはふと立ち止まり、ズボンのポケットから懐中時計を出した。そして、はぁと肩を落とした。
「ダメだ。間に合わねェ…」
子どものつぶやきがゾロにも聞こえた。

子どもはもう一度ため息をつくと、荷物入れになっている腰掛の板を持ち上げ、水筒を取り出した。
コップ型のフタをきゅきゅっと音を立ててゆるめる。そしてフタに注がずにいきなりラッパ飲みをしだした。こくこくと喉を鳴らして水を飲む。ときどき身体がバランスを崩してゆらりと揺れる。そのたび細い手が手押し車のバーをぎゅっとにぎりしめる。
ゾロは気づいた。この手押し車がこの子どもの足腰を支えているのだということを。

ゾロの故郷には『カタカタ』と呼ばれている赤ちゃん用の押し車があった。つかまり立ちを始めた赤ちゃんの歩行を支え、前へ踏み出す感覚と筋肉を補助するそれは、車輪の回転に伴って木製のあひるがカタンカタンと上下に揺れた。この子どもにとって、この手押し車は単なる荷物カートではなく、カタカタでもあったのだ。
となれば、子どもの代わりにゾロが押してやろうという申し出は、確かにいらないお世話だったわけだ。

そこまでをじっと見ていたゾロは、これ以上することもないだろうと立ち去りかけた。
その背に声が掛かる。
「飲む?」
子どもが水筒を突き出している。白い頬には、転んだときについた土がついたままだ。
「いやいい。あとに取っておけ」
どこへ行くのか知らないが、歩行に不自由している者こそ手元に水を持っているべきだろう。
「じゃあ、これは? さっき地面に落ちちゃったけど袋から飛び出たわけじゃねぇから…」
今度は紙袋を差し出してきた。
先ほど『ついてくんな』と叫んだくせにずいぶんと扱いが違う。子どもなりに礼をしようとしているのだろうか。
紙袋を開けてみるとサンドイッチが入っていた。落ちた拍子にひしゃげてはいるが、薄切りの黒パンに、チーズとベーコンとリーフレタスが挟んである。
ゾロの腹がぐうと鳴った。タイミングが良すぎる。
子どもは、ケラケラと明るい笑い声を立てた。

2人で分け合ったサンドイッチはうまかった。
「うめぇ」と言うと「当たり前だろ、俺はコックの卵なんだから」と得意げな表情で答えが返ってきた。
だが手押し車に支えられてようやく歩行しているこの子の足で、立ちっぱなしの厨房の仕事ができるとは、信じられない。
「コックの卵? おまえが? どこの店だ?」
「店はこれから作るんだ。海上レストランだぜ。すげェだろ?」
蒼い瞳がキラキラと輝いている。
海上レストランだったら、なおさら波の揺れに負けない足腰が無いとマズイだろう。
「うん、だから俺は今、リハビリ頑張ってんだ」

警戒心がなくなったのか、子どもはよくしゃべった。リハビリしているのは、海で遭難して約3ヵ月に及ぶ飢餓を経験したかららしい。救助されてからしばらくは寝たきりだったそうだ。筋肉がすべて削げ落ちて、最初は上半身を起こすこともできなかったらしい。
「ひでェんだぜ、無理やり立たせられてベルトみてェなので柱に縛り付けられるんだ。でも足も膝も全然力がはいらねぇから、身体がどんどん下へ下がっていくだろ。そうすると縛ってるベルトに身体が食い込んでいくんだよ。すげぇ痛くてさ、歩けるようになったら真っ先に施設の医者を殴ってやろうと思ってた。はははは」

横になっていると人間の筋肉はどんどん落ちていく。だから無理やり立った状態を作るのだ。
理屈はわかっているが、今よりもっと細かったに違いない子どもが、縛られながらむりやり立位姿勢をとらされているところを想像するのは胸が痛んだ。
笑い話にできるほど回復するのにどれだけかかったのだろう。
ひととおり自分のことを話したあと、子どもはあどけない顔で問うてきた。
「おまえは、何をしてる人?」
「俺は剣士だ」
そう言ってから気づく。今、とりたてて意識せずに「剣士」と答えたが、剣士であるならなぜ刀を持っていないんだ? ここはどこだ? 俺はどうやって此処へ来た? 俺の仲間はどこにいる? 

急速に視界がぼやけていく。世界がふにゃりとゆがんだ。








「あ、まぶたが動いた!」
「ゾロ、聞こえる? ゾロ?」
周りがうるさい。
――聞こえてるよ、うるせぇなあ…。静かに寝かせろってんだ。
顔をしかめると。
「ほらまたまぶたがピクって動いたろ。もうすぐ意識が戻ると思うぞ」
「ゾロ、さっさと起きなさいよ!」
命令口調の声はナミだ。
「サンジ君がまだ見つからないの!」
――クソコックならさっき、土手で手押し車押してたぞ。
まだ覚醒しきっていない脳内でそう思いながら、何かがおかしいと気づく。
ゾロが知っているコックは、自分と同い年のはずだ。土手で会った人物は、どれだけ大目に見積もっても10歳前後に見えた。けれどあれはクソコックだった。
眉毛が巻いていたかは覚えていないし名前を聞いたわけでもない。少年のころのコックの顔など知らない。だが、あの目、あの口調、海上レストランの話…。あれはコックだ。
夢だったのだろうか。
それにしてはずいぶんとリアルな夢だった。自分の存在は中途半端なものだったが、風景はもちろん、あの子どもの表情も声も、サンドイッチの味も、夢とは思えないほど鮮明だった。









「ゾロ、そっちじゃねェよ!」
子どもの声で呼び止められてゾロは瞠目した。また川沿いの道を歩いている。風景は少し違っていて、前方に見えるのは水門だ。
例の子どもが、川沿いの道から左にそれる道の入口にいた。
「まっすぐ行ったら水門に突き当たって行き止まりだ。こっちだよ」
こっちこっちと手招きする子どもをゾロはしげしげと見た。あ、と声を上げそうになった。眉毛が巻いていない。

「おまえ、なんて名だ?」
思い切って聞いてみる。子どもはポカンとゾロを見つめたあと、深刻そうな顔をした。
「なぁおまえ、やっぱり記憶障害がなにかなのか? 自分がどうやってこの島に来たかも覚えてねェし、今度は俺の名前忘れてるし。最初に会った時に教えたんだぜ」
「そうだったか? 悪ィ」
細い手が伸びてゾロの頬を両手で包んだ。
「しょうがねェなぁ。もっかい教えてやる。俺はサンジ」
「今、サンジっつったか?」
「そうだよ。忘れんなよ」
――サンジってことは、こりゃやっぱりクソコックだろ…。

そもそも幼いサンジに出会っているところからしておかしいのだから、眉毛が巻いてないなどの多少の差異はあるのだろう。勝手に結論付けてゾロは納得した。細かいことは気にしないのがゾロだ。
そういえば今、サンジは「最初に会った時」に名前を教えたと言っていた。その時から日にちが経過しているのだろうか。よく見れば海風に髪をねぶらせながら、すっくと立っている。手押し車を押してはいるが、すがって立ってはいない。まぁいい。支えなしに立てるならそのほうが良い。細かいことは…以下略。

サンジはガタガタと手押し車を押しながら左の道を取った。ゾロもどこへいくというあてがないので、そのあとをついていく。
木々の下を通って3~4分歩くと、視界がいっきに開けた。海だ。目の前に海が広がっている。
波打ち際まではせいぜい100メートルほどしかない。波は穏やかで暖かい風が吹いてくる。
海沿いの道はしだいに勾配がついてきて、やや下りになった。手押し車が下っていくスピードにサンジの筋力のない足ではついていけないのではないかと思ったが、杞憂に終わった。「最初に会った時」からやはりしばらく日にちが立っているのだろう。サンジは手押し車が勝手に下って行かないよう、しっかり制御した。

ところが道が上りになったところでは苦戦した。懸命に押すが手押し車が上がっていかない。とうとうゾロが手を貸そうと申し出た。
「なんだこりゃ、ずいぶん重いじゃねェか! 何が入ってんだ?」
「水」
「あ?」
「水だよ。海に出るには必要だろ」
「なんだって?」
――海に出る?
ゾロは驚いて、並んで手押し車のバーを握っている子どもをまじまじと見つめた。
「あの島へ行くんだ」
サンジが指差した方向には確かに島影がある。馬蹄型の入り江から抜けた先で、向かって右側は斜めに勾配がついているが、反対側は切り落とされたように水面に垂直だった。90度の角を左下に置いた三角定規のようだ。

「あの島は今は誰も住んでいないけど、何十年か前までマフィアだか海賊だかの隠れ家があったんだって。強奪した宝をあそこの島に隠したんだ。沈没船から引き上げられた金貨なんかもごっそり奪って隠したらしい。でも、分け前をめぐって殺し合いになって、みんな死んじゃったんだって」
「そのあとは誰も住んでないのか?」
「そう無人島。そして宝が眠る島」
にやっとサンジが笑う。
ゾロはサンジの表情を見てピンと来た。
「で、おまえはその宝を探そうってわけか」
「そう」
はぁとゾロはため息をついた。
――なんだかんだ言ってもガキだな
ありがちなお宝伝説だ。本当にお宝があったのだとしても、とっくに見つけられてほかの誰かが奪っているだろう。
「もう無ェんじゃねェか? おまえみたいに宝探しをしようって奴がいただろうよ」
「うん、宝を探しに行った人は幾人もいた。でも誰も見つけられなかったんだよ」
「考えてみろ。もしおまえが宝を見つけたら、見つけたことをみんなに言うか?」
うーんとサンジは考えた。首をかしげ、右のてのひらに頬を預けて思案する。真剣に考えている本人には悪いが、その思案顔は、かえってひどく子どもっぽい。

「そうだなぁ…」
しばらく考えたあとサンジが話し出した。「俺だったら…俺が宝を見つけたら…見つけたなんて言わねェかも…」
「だろ。そういうことだ」
「でもなゾロ! 俺がリハビリしてる施設に入院してた爺さんが、こっそり教えてくれたんだ。もともとは渡し守だっ爺さんで、このへんの海とか操船のこととかに詳しいんだ。歯が抜けてて何言ってるか聞き取りづれェからみんな相手にしなかったんだが、俺が根気よく聞いてやると俺にはよくしゃべるようになってさ。あるとき秘密の宝のことを教えてくれたんだ。宝箱は屋敷の中にあるんじゃなくて、裏の畑にあるミモザの下に埋まってるって」
――裏の畑って……ホントかよ? そもそも海賊が畑作って野良仕事なんてするか?…
口に出して言ったわけではないが、その思いは顔に出ていたのだろう。サンジは言った。
「信じなくていいよ。俺だって100%信じてるわけじゃねぇ。でも行ってみなくちゃわかんねェ。俺、ずっと船を出すのにちょうどよい風の日を待っていた。今日の風は絶好なんだ」
「そうかもしれねェが…」
リハビリはうまくいっているようだが、自在に動けているようには見えない。そんな身体で船に乗ろうということがゾロには驚きだ。
だがサンジの青い目に強い意志がにじんでいる。

「ゾロ、なんか誤解してるようだけど、俺は、ついてこいって言ってるわけじゃないんだ。ただ、これから俺のすることを誰にも言わないでくれるか? 俺は怒られるのには慣れてるけどさ、施設のシスターに迷惑がかかったら申し訳ないから」
「ひとりでも行くって言うのか?」
「うん。もともとそのつもりだったから、この話は誰にも言っていない。言ったのはゾロだけだ」
――俺だけ特別ってか? クソコックめ。ガキのくせに殺し文句を言うじゃねェか。
「わかったよ。誰にも言わねェ。その代わり、俺も連れていけ」
「え? 一緒に行ってくれるの?」
「乗りかかった船だ。で、おまえの船はどこにあるんだ?」
「俺の船なんかないよ」
「はぁあ? 今おまえ、船を出すために風を待ってたって言わなかったか?」
「船はこの先にあるマリーナのをもらうんだ」
サンジは、獲物を見つけた肉食獣のようにきらりと目を光らせた。
「もらう?」
「宝の話をしてくれた爺さんは小さなマリーナを持ってたんだ。でも爺さんは先月死んじまって、爺さんのマリーナは、遺族の誰ひとり欲しがらなかったから潰しちゃうんだって。だったら、古い船をひとつくらいもらったっていいだろ?」
ゾロはあんぐりと口を開けた。
「そりゃおまえ、もらうってんじゃなくて、かっぱらうってんだ」
「どっちにしろ、廃棄される運命の船を有効活用してやろうってんだぜ、良い行いだと思わねェ?」
ふふふと笑うサンジにゾロはもういちどあんぐりと口を開けた。



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すみません、この期に及んで連載なんぞ始めてしまいまして…。それほど長い話ではなく、5~6話で終わると思います。
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(2023.03)