うみへ #2



『宝箱話の爺さん』のマリーナは防風林の切れ目にひっそりとあった。
陸(おか)側からそこを訪れると腰の高さの門扉があった。侵入者を拒む門ではなくて、そこから爺さんの土地だと区切りをつけるための門扉だ。
観音開きのそれを通過してすぐの左手には馬が引くタイプの荷車が2台、野ざらしで置き捨てられている。母屋は庭の奥にあり、クリーム色の壁には縦に引き上げる窓が並んでいる。白い窓枠の内側に明るい配色のカーテンがかかっているのが見える。
鍵が掛かっていて中には入れないので壁沿いに沿って巡ると、建物の脇からゆるやかな下り坂が伸びているのが見えた。
S字状に伸びたその坂を下ると海岸で、こじんまりとした船が浜に引き上げられている。どれもキャビンのないディンギータイプのヨットだ。全長4メートルほどのものが2艇、それよりひとまわり大きいものが1艇、子ども用と見られる全長3メートルほどしかない水色の船艇ものが1艇。

母屋は陸側から見ると2階建てだが、海側から見ると1階の真下にガレージがある構造だ。ガレージにはロープや浮き輪、ビニールプールなどが綺麗に並び、柱の間に張られたロープには救命胴着や麻のシャツやが干されたまま残っていた。
浜に引き上げられていた船もガレージ内の備品も丁寧に保管されていた。
爺さんが元気だったころはきっと、居心地よく親しみやすいマリーナだったに違いない。

「ゾロがいるから、大きめの船で行こうか」
サンジは4メートルサイズのディンギーを指差す。
係留時に船に掛けておくビニール製の覆いをはがして、横たえられた組み立て式のマストをサンジは引っ張り出した。それを波打ち際に寝かせ、組み立ててからセイルを装着する。
途中、ゾロが手を貸そうとしたが「自分でやる。元々は独りで行くつもりだったんだ」と頑なに拒絶された。しかし、マストを船に装着する作業になって、サンジはしばらく思案した後、しぶしぶといった口調で頼んできた。
「ゾロ、マスト立ててくれる?」
あからさまに「頼むのは本当は不本意です」という表情をするサンジを、ゾロは好ましいと思った。悔しいという気持ちも負けたくないという気持ちも、悪いものではないとゾロは思っている。むしろそれがあるから、強くなれる。

マストは重量もそこそこだが、セイルが風の抵抗を受けてバタつくので踏ん張る必要がある。マストを起こして船のマストホールに差し込みながら、これは確かにリハビリ中のサンジには難しい作業だろうとゾロは思った。
ちょっとからかってやるつもりで言ってみた。
「おまえ、独りで行くって言ってたけど、独りじゃマスト立てられなかったんじゃねェか?」

じろりとゾロを一瞥してサンジはふんと鼻であしらうように言い返した。
「あっちの船で行くつもりだったんだ」
サンジは、今出港準備をしている船よりも小ぶりの、水色のディンギーを顎で指し示した。
「あの船ならマストも短いしセイルも小さい。俺だけでもマストを立てられるさ。子どもやレディが扱えるように作られたディンギーだからな。でもあの船は重量制限70kgくらいなんだ。ふたりで乗ったら70kg越えちゃうだろ? 水も積むんだし。」
言いながら、小さな手が、操船に必要なロープを手際よくとりつけていく。

「本当におまえ、独りでも行くつもりだったんだな。それほど宝が欲しいのか?」
「欲しい」
サンジは即答した。どうして、と聞くまえにサンジが「準備できた!」と立ち上がった。

浜から海へと木枠を平行に並べる。浜から海の中へ線路ができる。その木枠線路に船を乗せる。船体をゆっくりと押すと船は、海へとすべっていく。ざぶんと軽い水音を立てて船が着水した。
「「よし!!」」
思わずふたりでハイタッチした。サンジはガレージから救命胴着を持ち出して着込んだ。桟橋はないので、船まではざぶざぶと歩かばならないのだ。ゾロには膝上の水位だが、小さいサンジでは腰まで水に浸かってしまうだろう。
ゾロは救命胴着を着たサンジをひょいと抱き上げた。
「何すんだ!! 降ろせよ!」
腕の中でジタバタとサンジが暴れる。
抱いたままざぶざぶと海に入っていくゾロにサンジはいっそうわめいた。
「自分で行けるって! 泳いだっていいんだし! バカにしてんのか?」
サンジは、見下されたという悲しみと怒りとで目を潤ませている。
「バカにしてるんじゃねェ。おまえがひとりでも船に乗り込めるのはちゃんとわかっている。でもな、身体を濡らさねェほうがいい。濡れたら冷える。冷えたらよけいに足が動かしづらくなるんじゃねェか?」
ゾロの言葉にサンジは暴れるのをやめた。表情は憮然としたままだったが。

暴れる身体を押さえる必要が無くなってみると、あらためてサンジの身体がとても軽いことに気づかされて胸が衝かれた。そんな自分に驚く。いちいち同情していては人は斬れない。そんな自分でもまだ、かぼそい身体に動揺するような心があったのだ。
ゾロは小動物を抱えるようにそっとサンジを運んだ。
「あ、ありがと…」
船に降ろされたサンジが消え入るような声で言う。照れくさいのかそっぽを向いている。
――変わんねェな、こういうところ。頬や耳が紅潮しているところも一緒だ。
ゾロは大人の「クソコック」を思い出して自然と笑みがこぼれた。

船尾の舵を水中へ降ろし、センターボードを差し込むといよいよ出航だ。
サンジが風上側に座った。一方の手にセイルの角度を制御するロープ、もう一方の手に舵のハンドルとなる棒を手にしている。
ロープを緩めるとセイルを大きく真横に開いた。それから少しずつロープを引いていくと、セイルがバタつき始めた。さらに引き込んでいくと徐々にバタつきがおさまってくる。そうやってセイルの角度を少しずつ変えていく。ある角度に来た時、まるで解き放たれたかのように、船がすうっと走り出した。
船は横風を受けて推進力を高め、真っ白い帆が風をはらんで大きく膨らむ。『宝箱話の爺さん』のマリーナがあっという間に後方へ遠ざかる。風はとりたてて強いわけではない。水面は静かでときおり波頭が白く泡立つ程度だ。それっぽっちの動力なのに、こんなにも、と思うほど船はぐんぐんと速度を上げ、低い波をリズミカルに乗り越えていく。体重の軽いサンジの腰がそのたびに跳ねる。それでもサンジはバランスを崩さずにうまく船を操っていた。

変化が出たのは風向きが変わったときだ。風がやや前方からの角度にかわって船体が大きく傾き始めた。サンジが座っている風上側が高く持ち上がり、反対にゾロが座っている風下側は下がって水面すれすれを舐めはじめた。
「ゾロ!! 船の中央に座って! マストの船首側!」
サンジが叫びながら慌てて、セイルの角度を制御するロープを緩めるが、間に合わなかった。
「うわっ!!」
座る位置を変えるより早く、傾斜にこらえきれなくてゾロが派手な水音を立てて海中へ落ちた。岸から離れてそう時間が経っていないが、当然もう足などつかない。
背中を下にして落ちたせいで鼻に水が入った。ツーンとした痺れが頭に上ってくる。落ちた拍子にできた水泡が上へ上へと流れていく。
――沈み込む勢いに抗っても体力を消耗するだけだからいったん落ちるところまで落ちろと言ったのは確かクソコックだったよな。
上から見た海は灰色とも薄緑とも言える濁った色をしていたが、こうして海中に入ってみると意外と透明だった。

プハッっと息を吐きながら水面に顔を出すと、船はゾロの位置とはけっこう離れたところにあった。戻ってくる気配はない。
「マジかよ…。船まで泳いで来いってか?」
しかたなく泳いで船にたどりつくと、小さいサンジが脱力して座っていた。
「どうした?」
「あ、おかえりゾロ」
「おかえりじゃねぇよ。迎えにこいよ」
「ごめん。ゾロの分の重さが急に無くなったから船が跳ね上がって俺も船から落っこちそうになるし、落っこちそうになったからロープを引いちゃって余計な風量受けちゃってバランス崩しちゃうし。船がひっくり返らないようにするだけで精一杯だったんだ。まだ心臓ばくばく言ってるよ」
サンジは手を自分の胸に当てて、はははと苦笑いした。
――うっすい胸しやがって…
服の上からでもわかる。あばらのうえに皮膚が乗っただけの平らな胸だった。
ゾロが知っているサンジの胸は、滑らかであるけれど皮膚の下には強靭な筋肉がついている。胸だけではない。重い蹴りを生み出すために不可欠な、肩から背中への筋肉、腸腰筋、仙骨…。どれもしなやかで強い。
目の前の子どものそれは貧弱で薄くて、片手で壊せそうだ。この子どもがあのクソコックになるんだろうか。さきほど子どもの表情にクソコックの片りんを見出したばかりなのに、ゾロは不思議に思った。

転覆しないようにするだけで必死だったと言うとおり、船の位置は予定より大幅にずれている。船は、島のちょうど風下側に来てしまっていた。風上にある島へたどりつくためにタッキングを繰り返す。
島が近づいてきた。遠目で見るよりも高さがある。海面に垂直に切り立っているように見えた北側は、海面近くが浸食されて上部のほうがせり出していることがわかる。南側は波打ち際まで木々が茂り、森が広がっている。南側の岸に沿って船をゆっくり進ませると上陸できそうな入り江が見つかった。
オールで水深を計りながらゆっくり進んだ。やがて薄緑の海の底に貝が見えてきた。船尾の舵とセンターボードが水底に引っかからないようにひっぱりあげる。
「おまえはそのまま乗ってろ」
サンジに座っているように告げて、ゾロは船から飛び降りた。船を引きながら太腿の水位の海水をざぶざぶと蹴るように進む。
そのまま、らくらくと船を浜に引き揚げてしまったゾロをサンジは呆気に取られたように見つめていた。



ゾロが海風で斜めに傾いた木のひとつに船をもやっているあいだ、サンジは船から降りるとサンジはまっさきに小川のところへ行った。その水を少し口に含む。
「うん、飲めそうだな。セリのような香草も生えているし、ゾロの足元にある貝も食えるやつだし、森に入ればもっと食べられるものが見つかりそうだな!」
「いったい何日留まるつもりだよ、おまえ。シスターに迷惑かけたくないとか言ったくせに、何日も帰らなかったら心配かけることになんだろうが?」
「そうじゃなくて! 俺独りで行くつもりだったから…ゾロがついてくるとは思わなくて…」
「あ? 俺の分を心配してんのか? 俺は数日くらい食わなくても大丈夫だぞ。おまえが用意したものはおまえが食えばいい」
「だめだ! この島には食えるものがあるんだから! だから…だから俺だけ食えなんて、そんなこと言うな!」
ゾロは自分の失言に心の中で舌打ちした。「わかった」という代わりに、安心させるように小さな肩をぽんぽんと叩いた。

サンジは水の入ったブリキ缶と菓子箱のような四角い缶を船から降ろした。それらを背に担ぐのはゾロだ。
ここを隠れ家にしていたという連中が作ったのか、森の中を上へのぼっていく道が出来ている。幾年かの年月の間に草木が茂り道を覆ってはいたが、起伏がある地面のところどころに板が埋め込まれて階段状になっている。
傍らを流れる小川が軽快な水音を立てる。どこからか鳥のさえずりが聞こえる。名前のわからない小さな白い花が甘い香を放っている。木々の間から光が束になって差してきて、森の中は思いのほか明るい。宝をめぐって殺し合いがあったとは思えない、のどかな風景だ。
ゾロはサンジの歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
サンジは木の根や石につまづかないように細い足を慎重に運んでいる。ゾロの助けを借りずに自力で上ろうと懸命だった。
そのくせ途中にある野イチゴや山芋、きのこなどを見つけると、あとで取りに来るつもりなのか周りの木にナイフで印をつけたりするので、なかなか進まない。

そろそろひとやすみしたほうが良さそうだと思ったとたん、布がはためくような大きな羽音が、重なって響いた。はっと見ると、幾多の鳥が一斉に舞い上がっている。その方向へ向かってみると突然森が開けた。さえぎるものなく注いでくる陽光のまぶしさに思わず目を細める。
左手のほうに崩れた鳥小屋があった。壁の網はくずれて隙間だらけだ。屋根の板も傾いている。
かつては鶏かチャボなどが飼われていたのだろう。今では野鳥の格好のすみかというわけだ。
しかしゾロたちの注意をひきつけたのはそれではない。その奥にある建物だ。どっしりとした黒煉瓦の建物はギルドで栄えた古い町の建物を思わせた。
しかし建物の一部にはツタがからみつき、割れた窓から内部へと侵入している。廃墟と言う言葉がふさわしい。
「入ってみるか?」
ゾロの問いかけに、めずらしくサンジが躊躇している。
「どうした?」
「さっきの鳥みたいに、なんかの獣が住みかにしてたりしないかな?」
なるほど確かに獰猛な獣がいたら、サンジをまっさきに襲ってくるだろう。
島の規模から考えればクマやイノシシはいないだろうが、野犬なら有りうる。人が犬を連れてこの島に入る場合もあるし、流されてたどりつく場合もある。大人のサンジなら野犬など敵ではないが、ここにいるのはリハビリ中の子供だ。思うように走れないサンジは逃げ切れない。自分でそれが分かっているから慎重になる。
「大丈夫だ。生き物はいねェ」
「なんでそんなこと分かるの?」
「気配がしねェからな」
「すげェなゾロ! なんかゾロって野性的っていうか…動物みてェだよな」
――あぁよく言われてるよ、ケモノだってな。ちっと別の意味だが…。
「俺も言ってみてェな〜『もう敵の気配は無ェな…』とかさ!」
獣はいないと聞いてほっとしたのか、サンジがはしゃぐ。
「言うようになるさ」
「そうかな」
「あぁ、必ず」



建物の内部はしんと静まり返っていた。玄関ホールは広く、床には大理石が敷き詰められている。かつてはつややかに磨かれて光沢を放っていたのであろう。しかし今ではすっかり砂とほこりに覆われていた。正面のマントルピースも左側の階段も同様だ。階段わきのドアの前には、極彩色のつぼがくだけて陶片が散乱していた。
サンジはそれを避けて、その奥のドアを開けた。マホガニーでできた、大きくどっしりとしたライティングデスクとキャビネット、螺鈿で飾られたチェスト…。ビロード張りのカウチのヘッド飾りには宝石でもついていたのか、えぐりとられたあとがある。そして壁面の棚からたくさんの本がこぼれ落ちている。おそらくこの部屋は書斎だったのろう。
「そう言えば、ならず者の隠れ家になる前は貴族だかお金持ちだかの別荘だったって聞いたことがあるよ」
「そうかもしれねェな。マフィアや海賊がこんなに本を揃えるとはおもえねェ」

書斎のとなりの部屋はダイニングルームだった。
中央にはパールホワイトに塗られた大きな食卓。テーブルと揃いのチェアは、背もたれにリボンと花の彫刻をあしらっている。サイドボードには彫金がほどこされ、床の絨毯は色あせているがアラベスク模様だ。壁際には艶消しのゴールドに塗られた円形のテーブルもある。深いロイヤルブルーの布張りのチェアは玉座のように装飾された背もたれと肘掛けがついていた。
「厨房はこっちかな?」
サンジは次の部屋のドアを開けた。
そこは厨房ではなく小ぶりのサロンで、やはり大きな家具が残されていた。ローズウッドのサイドテーブル、天板に大理石が使われたコンソール、革張りのソファ…。富を見せつけるかのように高級な家具が並んでいる。

サンジは厨房を探して廊下を進み、またほかの部屋のドアノブに手をかけた。
アラベスク模様が刻まれた真鍮のドアノブを動かし、重い木のドアを力を込めて押す。ギ…と鈍い音がした。
内側へ大きくドアが開いたとたん、サンジがひゅっと喉を鳴らして硬直した。
目に飛び込んできたのは白骨化した死体と黒い染みが広がったソファ。しかも死体はひとつではなかった。横倒しになったルーレットテーブルの向こう側、銃撃で穴があいたワゴンの横、中庭に通じるテラスへのガラスドアを突き抜けているものなど、不自然な格好であちこちに白骨が転がっている。
白骨のまわりのぼろぼろに風化した布きれはかつて衣服だったものだ。殺し合いがあったのは本当だったのだ。



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(2023.03)