うみへ #6
「ゾロー、なぁ、いつまで寝てんだよ、起きてよ」
甲高い声で目覚めた。
夢だったのか…
いや、あれは現実にあったことだ。いつのことだっただろう。最近ではない。それはわかる。けれど、どうも感覚がおかしい。ここに居るのが夢なのか?
「ゾロ、目開いたまま寝てんのか?」
再び高い声が耳元で響いてはっと我に返った。
あたりはすっかりと明るい。天井近くの小さな窓から光の筋が差し込んで、塵がきらきらと光っている。
窓が大きい隣の客間に言ってみれば、空は明るく晴れ渡っていた。しかし昨晩の嵐が嘘ではなかった証拠に、風は依然として強い。空の低いところにある雲は薄墨色の濃淡の層を作り、川のように躍動しながら流れていく。高いところにある雲は白くてふわふわした雲だったが、これも千切れては合体し、また千切れては流れていく。流れの速さが高いところと低いところで違うのは、海と一緒だ。
「風が強ェな。船を出すのはもう少し風が収まってからだな」
「船が無事だったらいいんだけど…」
そうだった。昨日、入り江に行った時に、マストを外して船を陸揚げしておくべきだった。だがあの時は、チビサンジの安否で頭がいっぱいで船の事にまで頭が回らなかった。
「見るまではなんとも言えねェな」
船は奇跡的に船体が無事だった。しかしマストは半分くらいのところでぼっきり折れていた。
「しょうがねェ。折れてるなら、つなぐまでだ」
とはいえ接続するための板などないのマストと元の長さと同じくらいの枝を、残ったマストにぐるぐると縛り付けて新しいマストとした。
風が収まるまで特にやることも無かったので、結局ふたりとも宝箱らしきものが無いかと目を配りながらあちこちをぶらつく。とうとう、ぬかるんだ土でふたりは泥だらけになった。
井戸の水で頭からかぶって、頭をぶんと振ると髪から水滴が飛んでいく。嵐のあとの抜けるような青空に、水滴がきらきらと輝いた。ただそれだけのことに、ちっこいサンジは屈託無く笑う。
ゾロは苦笑いをした。チビサンジが屈託無く笑えば笑うほど、胸の奥がきゅうっと痛む。
理由はわかっている。昨晩から、恋しさが我慢できなくなっている。
ゾロは空を見上げた。上空をよぎる鳥の影を追う。
――どこにいるんだ、アホコック…。鳥になって空から探せればいいのに…。
今この島で仲間から離れて一人でいるのは自分のほうなのに、どういうわけか自覚がないままゾロはそう思った。
昼が過ぎて日が傾き始めると、強かった風が収まってきた。
「風も静かになってきたし、そろそろ帰るぞ」
「うん…」
宝箱はとうとう諦めたのか、チビサンジが素直にゾロに従った。持ってきた食料も尽きてきたし仕方がないと思ったのかもしれない。
船にサンジを乗せ、ゾロはゆっくりと船体を押し出す。海に入って船体を後ろから押し、水位が腰上のあたりになったところでゾロは船べりに手をかけて船に乗り込んだ。
風は微風だったが、サンジが船の向きと帆の向きを調整するとぐんぐんと速度を上げた。一枚帆のディンギーの場合、横風を受けるようにすると微軽風でもかなり速度が出るのだ。
途中までは順調だった。数日前にこの島へ来た時と違ってサンジのおしゃべりは鳴りを潜めていたが、落胆というよりは何か考えているような少し大人びた顔つきで、風を感じ帆を操ることに集中していた。
ところが、島を離れ陸へ向かって、航路の中盤あたりに差し掛かったとき、風がぱたりと止んだ。
「くそ、夕凪か…。うかつだったぜ…」
風が収まってきたのは、嵐が過ぎ去ったからではなかったのだ。
「仕方がねぇ。漕ぐか…」
風が無ければどれだけ船体や帆の向きを調整してもディンギーは走らない。ディンギーはオイルも電気も使わず風力だけで走る。省エネで動力コストもまったくかからない船だけれども、そのぶん風力が無くなったら、どうにもならない。だから無風の時に備えて必ずオールを積んでいる。
ゾロとサンジで一本ずつオールを持って船の両側で漕いだ。手漕ぎボートより幅の広いディンギーは、ゾロが中央に座ると船のへりに手が届かない。
そんなわけでひとりずつがオールを持ったのだが、効率が良いとはまったく言えなかった。大人と子供では漕ぐ力が違う。ましてやゾロの腕力と同じ身長の子どもよりも細身のチビサンジだ。
ゾロが手加減しサンジが精いっぱいで力を入れるということをしても力のバランスがまったく合わず、ボートはくるくると円を描いてしまう。ちっとも陸には近づかない。
結局ふたりは漕ぐ舷側を頻繁に取り替えなければならなかった。
「全然ダメだ。無駄に体力削られるだけだな。こいつぁ風が吹き始めるのを待ったほうがいいかもしれねェ…」
「でも暗くなると船を係留できる場所がわからなくなっちゃうかも」
「そうか、なら漕ぐしかねェな」
麦わらの一味と航海している時でも、ゾロは船の走行に関しては、ナミかサンジの判断に従う。目の前のチビサンジの経験値と自分の経験値ではどちらが豊富かわからないが、ゾロは海のことは海で育った者にゆだねればいいと思っている。
「ゾロ、海って思うようにはやっぱ、ならねェもんだな」
上空から見たら船首が左右に揺れているだけかもしれない船でオールを使いながらサンジがふいに言った。
妙に大人びた口調はまるで大人のサンジのようで、ゾロはぎょっとした。ゾロの吃驚に気づかないのか、サンジが続けて言う。
「目的の島は、ちゃんと見えているのにたどりつけねぇ。手を伸ばせば届きそうなのに、この海を越えられねェ」
「おまえ、誰だ?」
ゾロは思わず問うた。姿かたちはチビサンジなのに、口調はあのクソコックだ。
「コック?」
呼んだとたんに視界がズルリとぼけ、チビサンジとクソコックが重なる。
「?!」
ゾロは思わず抜刀した。キラリと光る刃先が得体のしれない人物に向けられる。
夕日がジリジリとゾロを焼いた。
「ゾロ? どうしたの?」
甲高い声にはっと我に返ると、チビサンジをさすようにオールを突き出している自分の姿に気づいた。
チビサンジはあっけにとられた表情で自分を見ている。
なんだ、今のは? 白昼夢? 幻影? 何がどうなっている?
疑問が次々と押し寄せた。
このチビは誰だ? コックとはどういう関係だ? この世界は現実か? 俺の刀は?
いったん疑い始めるとキリが無かった。
険しい顔をして自分を見つめるゾロにサンジが困惑した声をかけた。
「ねぇ、ゾロ、いったん休もうか」
首をすくめてしおらしい表情でサンジが言う。
そうだ、今はとりあえず陸にたどりつくことが先決だ。
ゾロは刀をくるりと回して腰の鞘に収めようとした。持っているのは刀でなくオールだということを忘れて。
手首を回したとたん、柄のないオールはゾロの手を離れてするりとすっぽ抜けた。ぽちゃんと軽い音が立つ。
一瞬何が起こったのかと二人の動きが止まったその間に、オールは、するすると船の後方へ離れていく。凪の合間に気まぐれのように吹く微風が、タイミング悪く船を前進させたのだ。
ゆっくりのようでいて確実に離れていくオールを追って、ゾロは海へ飛び込んだ。
「ゾロ! もう1本在るからなんとかなるよ!」
「あったほうがいいだろ」
「いいから戻って! ここは潮の流れが複雑なんだ!」
オールへ向かって泳いでいくゾロの背に、サンジの声が投げかけられたが、ゾロはオールを諦めようとはしなかった。
だってオールは目の前だ。
それなのに、手を伸ばすと、オールはひょいと流れて捕まらない。何度もそれが繰り返される
とうとうゾロは波を強引にかきわけるようにして一気にオールへ向かって泳いだ。
よし今度こそ逃さない、そう思ってオールを掴んだとたん、ぐいっと身体が引っ張られた。
しまった!――
早い流れの潮に身体が捕まった。
風が無いのにオールがひょいひょいと流れていったのは、この潮流のせいだったのだ。
抗おうととしても、ものすごい力で身体が絡め取られる。ゾロはただひたすら手足をばたつかせるが、水の力は、ゾロを離そうとはしなかった。
「ゾロっ!」
叫ぶ声のほうを見ると、船がどんどん離れていく。船の方は別の潮流につかまったようで、二人の距離は瞬く間に広がっていく。
小さな体でサンジが必至で操船しようとしているが、風が無いので帆を動かすのでは意味がなく、オール頼みだ。子どもの力で潮流に逆らうなど無理がある。
船は数日前に出発した島の方へ流れていく。
そのあいだもゾロの身体は翻弄され、海の底へとあらぬ方向へ引っ張られる。
『海を侮るな。引きずり込まれるその時ってのは一瞬だぞ』
誰かの声が頭の中にこだまする。
チビサンジの乗った船が視界のどちらにあるのか、もうわからない。声が届くかどうかもわからない。
それでもゾロは必至で叫んだ
「サンジ、先に島へ行ってろ! あとから必ず俺も行くか…ら…!」
『ばーか、それは俺のセリフだ。てめぇ、先に島へ戻っていろ! 島に着いたら移動するなよ! 待ってればきっとナミさんが見つけてくれるから!』
よく知る声が聞こえた。少し掠れたような甘さと渋さを含んだ大人の男の声。
「クソコック?」
とたんに渦に飲まれ身体がぐるんと回転した。
ぐるん、ぐわんと頭も視界も回転して、身体が翻弄された。自分がどこにいるのかわからない。水中なのか空中なのか…
どうなってんだ? 今の声はなんだ? クソコック! どこにいる?
はっと気づくと自分が小舟の上にいた。
がばりと身体を起こしてあたりを見回す。
船の上には自分ひとりきりだ。あわてて海面を見渡すと、波間に金色が浮き沈みしている。
あれは、どっちのサンジだ?
「おい!」
ゾロの叫びに答えるように手が上がった。その手は白さやの刀をつかんでいる。
思い出した。思い出した。思い出した。
海に落ちたのはオールでなく、俺の刀だ。
海に飛び込んだのは、俺でなくサンジだ。
「潮の流れに逆らわずにそのまま船に乗っていれば島につく! あとから必ず俺も……」
その先の言葉は波音にまぎれて消えたのだ。
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(2023.03サン誕によせて)