修羅の贄 #1
城の三方を囲む松明(たいまつ)の数が増えた。
怒声はますますうねりをあげ、噴火の瞬間を待つマグマのように膨れ上がっている。
だが城内は、驚くほど静かだった。
3日前、この北海国(きたみのくに)の根城である杢丹城が落ちたと伝令が来た。
その時に、北海国の出城であり沿岸海域を取り仕切る目的で築かれたこの城…玻璃城は、杢丹城とともに滅びる運命(さだめ)と決まったのだ。
運命を受け入れ、玻璃城城主はすでに白装束である。
豊かな髭を蓄えた城主は、海の蛮族であったという北海国の先祖の血を濃く引いて、若年の頃からその勇猛果敢さが恐れられた豪将だった。
彼が長子に生まれていれば、この国の未来は違っていたかもしれない。
だが歴史はそうは転ばなかった。
家督は順当に彼の腹違いの兄が継ぎ、次いでその家の次男に生まれたベラミーへと引き継がれた。
ベラミーの冷酷な性格は早くからその言動に表れていたが、長兄を殺害して城主の座を得てから一層傲慢な支配者へとなっていく。
同盟を無視した傍若無人な侵略で近隣諸国を乗っ取り、国土は急速に広がった。
だが急進勢力は目をつけられやすい。人心を読めぬ冷たい性格はそれがわからなかった。
国力に綻びが見え始めた今、ベラミーを国主とする北海国は列強の報復を一気に受け、その歴史を閉じようとしていた。
『仕方が無い…栄枯盛衰もまた運命。この玻璃城は戦と無縁であろうとしたが、盛衰の流れには逆らえまい…』
すでに老年の域に差し掛かった玻璃城城主は盃をぐいと煽ろうとした。
それをやんわりと制した手がある。
「ジジィ、そのくらいにしとけ。腹切る手が酒で震えちゃお笑い種だ。ま、俺以外、見てる者はいねェけどな」
城主は声の主を見上げた。
確か今年で齢(よわい)十九になったはずだ。
だが、見た目はもっと若く見える。
肌理の細かい白い肌。金の髪。いかつさのない風貌。
髭を生やさぬ武将は男気の弱い腰抜けと見なされるため、必死で顎髭を生やしてはいるが、どうもしょぼい。
それでも女性的には見えないのは、口調と所作と、海を写したような碧い瞳の強さに所以する。
玻璃城の落城を覚悟した城主にとって、ただひとつの心残りはこの青年だった。
「チビナス…」
「チビナス言うな! …ったく、この期に及んで子供扱いされちゃたまんねェぜ。…んだよ、俺がちゃんと腹を切れないとでも思ってんじゃねェだろうな? ばかにすんな!」
青年は、城主ゼフの手から盃をひったくって、一気に飲み干した。
どかっとあぐらをかこうとして、さすがにそれはやめた。着物が乱れる。
乱れた着物は、自刃への覚悟が甘かったことの証だ。
できるだけ着物を乱さずに自害せしめるのが武将の最期。
そう、この青年もすでに白装束だった。
乱暴に盃を煽ったくせに、きっちり居ずまいを正して背筋を伸ばした青年を城主はやはり痛ましく思った。
青年はすでに一度、落城を経験している。
この玻璃城より西へ十数里行くと、朱川と呼ばれる大河の河口がある。
それを南へ辿っていったところに、かつて城があった。
それが青年の父…ゼフの息子の居城だった。
ゼフが海から離れたがらないのを知っていた息子は、ゼフが隠居して家督を自分に譲った時に、それまで居城としていた玻璃城をゼフの隠居の城として沿岸域を預け、自分は朱川沿いに城を建てた。
朱川はさらに南へ下れば都に通じ、領内の山からは貴石が採掘された。
そこへ正室として迎えられたのがベラミーの腹違いの妹である。
従兄弟同士の婚姻だが当時は珍しいことではなく、ベラミーのたっての希望で結ばれた政略結婚だ。
だが夫婦仲は円満で、貴石を産出する山と、都へ繋がる大河を領地に抱え、小さい領地でも豊かで幸せな生活だった。
その幸福が一瞬で崩れたのが十年前。
富を生む山と都への水路に目がくらんだベラミーの裏切りに遭った。
妹の命も同盟もベラミーには関係無かった。
ゼフは、いまや落城せんと炎に包まれた城を見た時、臣下に命ずることも忘れて自分が城へと飛び込んだ。
孫の命と引き換えに片足を失うことになったが、悔いたことは一度も無い。
だが今、悔いている。
もっと早くこの青年を外へと追い出すのだった。
若かりし自分が魂をかけた大海へ、さっさと送り出せば良かったのだ。
十年前にかろうじて永らえた命は、またも本人が参戦したわけでもない闘いにまきこまれて消えようとしている。
『いざとなったらジジィの介錯は俺がするからよ、てめェらはさっさと海へ逃げろよ』
杢丹城が落ちたとき、青年は臣下たちにそう言った。
玻璃城は北側が海に面した海城だ。堀には海水が流れ込み、海から堀へ直接船が入り込めるようになっている。要するに逆もしかり。
堀から海へ出航することも出来るのだ。
『チビナス、てめェも行け。おいぼれに付き合って死ぬ必要は無ェ』
『やだね、俺はここに残る。この城は乱世にあって戦うことを放棄した最初の城だ。ジジィは最強の水軍を指揮してたくせに、俺のせいでそれを放棄して、以来、この城を、渦の逆巻く北海灘の安全航海のための拠点とした。この城は、ジジィに共感した、乱海流を船頭できる猛者たちがこぞって集まったジジィの第2の夢の城だ。俺は死に急いでるわけじゃねぇよ。ジジィの第2の夢の行く先を知りたいだけだ』
『戦う気か?』
『いいや。戦わないのがこの玻璃城だろ』
青年はにっと笑った。
そして今、白装束で城主の傍らに立つ。
『松明(たいまつ)の輪が狭まってきやがった…』
青年は潮見櫓(しおみやぐら)の窓から外を眺めた。
この玻璃城に天守は無い。
天守は戦時においては最後の砦、平時においては国主の威光を表わすもの。
だが息子夫婦の城が落城し自らも片足を失ったゼフは『そんなもん、もう俺には要らねェもんだ』と言って取り壊させたのだ。
玻璃城を、戦でなく、海の安全のためだけに使うと決めた、最初の行動だった。
今二人は、この城で天守の次に高層だった潮見櫓にいる。
櫓(やぐら)の北側の窓から見える海は、家臣たちが無事出航したあと、陸の緊迫を感じ取ったかのように荒れ始め、陸地側の東西南の三方を囲んだ松明の輪は、徐々にその輪を狭めてきている。
『もはやこれまでか…』
青年はゼフに知られないようにそっと息を吐いた。
戦わないのが玻璃城だ。
だが、一秒でも長く玻璃城が玻璃城であるために…
青年はゼフには秘密裏に、城を包囲する軍の将に、取引をもちかける文書を忍ばせた密偵を送った。
その返事が来ない。
やはり城主でもない自分の命ひとつではなんの役にも立たないのかもしれない。
『ジジィ、すまねェ。俺はアンタに何も返せねェ…』
青年は悔しさにぐっと唇を噛んだ。
と、その時、櫓を駆け上がってくる足音が聞こえた。
敵の侵入か、それとも待ち望んだ返事か…。
青年は片足をわずかに引いて身構えた。
櫓の急階段を登って掲げ行灯(あんどん)の灯りとともにひらりと現れたのは、こちらから送った密偵ではなく、見知らぬ顔だった。顔色が悪く、目の下にくっきりと隈が現れている。
『ろくなもん食ってねェんだろうか? こんな時じゃ無ければ食わせてやるのに』と青年はひどく場違いなことを思った。
その間に城主ゼフが突然の侵入者に声を掛けようとしたので慌てて遮って、青年は言った。
「俺に用だろ? 違うのか?」
松明でなくて掲げ行灯を持っているあたり、雑兵(ぞうひょう)ではないと青年は見て取ったのだ。
すると侵入者は青年の前でさっと膝まづいた。
「黒足殿でございますな?」
掲げられた行灯が眩しい…。
そう思いながら「いかにも」と頷いたとたん、腹に衝撃を受けた。
逆光の眩しさも手伝って、男の動きはまったく見えなかった。
『…んなことしなくても、抵抗する気は無ェってのに…』
青年の意識はずるりと闇へ沈んだ。
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