修羅の贄 #2



身体の芯がぐらりと反転するような気配を覚えた。
「黒足」と呼ばれた青年の意識が、かすかに浮上する。
『抱え上げられるのか?』
だが続いて身体の下に硬いものを感じて、その逆だと気付いた。
抱えられた状態から、どこかに降ろされたのだ。

寒ィ…。

肩にあたる硬いものから冷えが上がってくる。
いまだ瞼は開かないが、鼻腔には土とむしろの匂いが届いてきた。
やはり地面に転がされたのだ。
ぼんやりと瞼が開くがあたりは暗い。
霞んだ視界ではなおさら何も見えなかった。

だが、耳に聞こえる喧騒は、やや離れたところに大勢の男たちがいることを伝えてくる。
木材が爆ぜる音も聞こえる。
白っぽく見えるのは幔幕(まんまく)のようだ。
『ここは敵方の本陣か?』
うまく働かない頭でそこまで考えたところで、誰かが近づく気配がした。何者かは薄暗がりで判明しない。
さっと身体を緊張させて、その時、気付いた。身体が縛られている。
『どういうことだ? 密かに取引を持ちかけたことが、かえって災いとなったのだろうか?』

近づいてきた気配が、もっと奥の暗がりにいる者と何か言葉を交わす。
奥の暗がりからは時折自分のほうへ視線が送られてきた。視界が悪くてもわかる、強い視線だ。
やがて手前にいた者が近づいてきた。
顔を覗きこまれて、ようやく顔が判別できた。
「てめ…っ!」
開いた口をすかさず手で塞がれ、かわりに水の入った椀が口元に宛がわれた。
「黒足殿、お声をお控えください。騒ぎを起こすようなら、ここでお命頂戴致します」
静かに、しかし有無を言わせぬ口調でそう言う男は、玻璃城の潮見櫓で会った顔色の悪い男だった。
「どういうことだ? ジジィはどうした? 殺したんじゃねェだろうな!?」
告げられた声のひそやかさに応じて、声を殺して尋ねれば、今は言えませぬと返ってきた。
「数日の道中になりますれば、まずはこの水を飲んで、渇きに備えてください」
「てめェ、名前は?」
「ギン、と申します」

半身を抱き起こされて、戒められたまま、どうにか水を飲み干す。
その後、布を噛ませられ、頭からすっぽりと粗末な麻布を被せられた。
どうも扱われ方がおかしい。
だが、抗おうとすると再び「お静かに!」と諌められた。
「玻璃城をお救いになりたいのでしょう?」
脅し文句のようにそう言われて、麻布ごと、長持ちのような箱に閉じ込められた。



それからどれだけの時間がたったのだろう。
数日の道中というのは嘘ではないらしい。
どこかへ運ばれているのはわかるが、いったいどこへ行くというのか。

時折、揺れが止んで箱が地に下ろされる。
そのつど、長持ちの蓋がそっと開けられて、ギンが様子を見る。
そして水分を多く含んだ果実のかけらが、噛ませられた布の隙間から口に押し込められる。
水分補給なのだとはわかるが、礼を言う気にもなれない。第一、しゃべるのも億劫だ。
箱の外の気配に神経を立ててこの状況が意味するものを様々に考えることができたのは、最初のうちだけだった。
縛られた身体は次第に強張り、空腹は体力を減退させ、思考は次第にまとまらなくなっていく。
時間の感覚もわからない暗闇で、朦朧としていく意識に、もはや成すすべもなかった。







「黒足殿…」
ギンが呼んでいる。
人間の五感の中で、死に際に一番最後まで残る感覚は聴覚だと言う。
反対に、喪心状態から一番最初に働き出すのも聴覚らしい。
瞼も開かず、身体も動かせないが、自分が呼ばれているのはわかる。

「黒足殿、お意識は確かでいらっしゃいますか?」
問われて、かすかに口元を動かした。返事をしたつもりだ。
「少々荒っぽいですが、ご勘弁ください」
言われるや否や、身体が急激に傾き、耳元でばたんと大きな音がした。
同時に肩を激しく打ち付けて、痛みで目が開いた。
やはり暗くてあたりがよく見えない。
だが、長持ちが横倒しにされて、中の自分の身体が半分出かかっているのはわかる。

『荒っぽいと言うのはこのことか…』
狭い長持ちから自分を持ち上げるのは確かに難儀だろう。
自分では身体を起こせないのだ。
血流が悪くなった身体は凍えたように冷たくなって動かせない。
現に今も、こうして半身を長持ちの外に投げ出されても、身動きできない。
息をするのも苦しいのだ。

引きずるように長持ちから完全に出されたが、やはり意識は朦朧としたままで、再び瞼が落ちてきた。
口に噛ませた布を取られ、果実を押し込めれても、咀嚼する気力も無い。
口内に果実の欠片を含んだまま、身体がぐたりと弛緩した。

だが、意識を失うことは許されなかった。
「黒足殿、失礼致します」
ギンとは違う、柔らかな女性の声がした。
白装束の衿がぐいっと握られ、次の瞬間、左右に割られた。
細い指が胸元をまさぐっていく。
裾からも手が忍び込んできた。
冷えて動かなかった身体が、ひくんと跳ねる。
「な…にをするっ…」
強張った口元から果実の欠片が零れ落ちて、絞り出すように叫んだ。
「我が殿が、あなたの身体を改めるようにとおっしゃって…」
たおやかな手の持ち主はそう答えた。

和解に来たと見せかけて隠し持った短刀で急所をひと突き、という戦法も確かに有りうる。
だから身体検査、というわけだ。
身体のあちこちに忍び込む手は、手足の縄は解かずに着物を開いていく。
身を捩じらせるうちに、意識がはっきりとしてきた。
瞼をこじ開けて驚いた。
胸元がはだけられ、帯まで解かれようとしている。

「はうっ…」
下穿きの上から、異物が無いか確かめられて、さすがに狼狽した声が出た。
「武器は持ってねェ。だから…離してくれ…」
懇願するように言った。
「そのようですね」
ふっと笑われたような気がしたのは錯覚か。
凍えた身体が羞恥で熱くなったような気がした。
だが手の持ち主は、静かな表情のまま奥へ進み、襖(ふすま)の向こうへ声を掛けた。
「持っていたのは、遺書だけです」
その言葉で、はっきりと目が覚めた。

『この命と引き換えに、城主・家臣・領民の無事を願う』
そういう取引を持ちかける密書を送ったあと、遺書をすぐに書いた。
取引が成立したら、城主のゼフに送ってもらいたいと思っていた。
誰だかわからない者の手に渡したくはない。

襖をきっと睨みつけると、応えるように襖がすっと開いた。
東国の魔獣と呼ばれる、若い武将がそこに立っていた。











「てめェの命ひとつで、城も城主も家臣も民も、みな救えというのは、虫が良すぎる話だとは思わねェか?」
東国の魔獣、ロロノアが、着物をはだけられて足元に転がっている男を見下げて言うと、即座に返事が返ってきた。
「わかっている。だが、あいつらを生かしときゃ、あの北海灘を手中に入れられるんだ。そう悪い話じゃねェだろう?」

確かに北海灘は潮流の複雑な海だ。
年にわずかの穏やかな時期を除いては、玻璃城に集った者たちにしか渡れない。
あの海を渡るには、いったん玻璃城領内の港に船をつけ、あの海を渡れる船頭を雇うのだ。
北海灘を越えたら、そこにある島(これも玻璃城の領地だ)に船頭を降ろす。
船頭たちは逆方向に進みたい船の船頭を請け負って、元の港へ帰ってくる。
殆どの船頭が、ゼフに心酔して集まった、海の荒くれ男だ。
ゼフが死に、玻璃城が破壊されたら、彼らはきっと北海灘から離れていく。
そうなると、あの海は、ゼフが玻璃城を安全航海のための城にする以前の、危険な海に逆戻りする。

―――だから、ゼフは生かしておけ。領内も荒らさずに領民を生かしておけ。
戦勝の証には、俺の首をやる。
俺が死ねば、北海の血は絶えるし、玻璃城は戦わないことを誓った城だから、俺の遺書に納得すれば叛乱も無いはずだ―――

そう取引を持ちかけてきた男は、なるほど大した策士だ。
ロロノアが、外国の文化にかぶれている殿上人を後ろ盾にしていることまで計算している。
外国からの交易船も、島で船頭を雇って北海灘を渡ってきているのだ。

ロロノアは遺書をばさりと開いた。
そこには、ゼフへの感謝と家臣への労いがつづられ、自分の死を嘆かず誇りに思ってほしい旨がしたためられていた。

『玻璃城は戦わないことを誓った城だ。
それを忘れず、玻璃城が目指した道を外さず、海の平穏のために生きてくれ。
怨みに思わず、戦を起こさず、復讐を思わず、ただ海守(わたもり)であってくれ。
―――○○守○○黒足之サンジ』

遺書はそう結ばれていた。

この遺書に、ロロノアは苦々しい思いがした。
自分はいまだに、我が姉くいなを見殺しにしたベラミーへの怨みの気持ちが治まらない。
あの時から北海国への復讐を誓い、この戦を着々と準備してきた。
そのために、今もっとも権力を持っている殿上人の駒として働くことも厭わなかった。
北海国が殿上人の栄華の妨げになるだろうと、たびたび彼らに訴えて、この戦の許可を取ったのだ。
だが、こうして今ベラミーを討ち取っても、怨恨の気持ちは消えてはくれない。

なのに、この男は残る者に怨むなという。
ただ海守であれ、という。
そうして自分も、死にゆく運命を怨んでいないかのようだ。

忌々しい。
どうしてそんなに簡単に、この理不尽な運命に自分の命を捧げられるのだ。
俺は、怨みを晴らさずには死に切れないと思った。
くいなの魂が浮かばれるまでは、どれだけ自分の手が汚れても狡猾になっても生きてやると思った。
怨みというものを、この男にも植え付けてやりたい。
そうしてこのすっきりと悟ったような表情を歪ませて、このままでは死に切れぬと、この世にしがみつくがいい。

復讐とも執着とも言える冥(くら)い火が、心の中でぐずりと燻(くすぶ)る。
「わかった。てめェの提案は了解した。ゼフ殿とその家臣・領民には手を出さねェ。そして取引どおり、黒足殿には死んでいただこう」

ロロノアはすらりと刀を抜いた。
サンジの足を縛っている縄がぶつりと切れる。
強力な殺傷能力を持っている足だが、冷えて強張った身体はまだ身じろぐのが精一杯だ。
その足をすいっと刃が滑る。
遅れて細い血の筋が赤く浮き上がってくる。
「…っ? 自分で死ねるっ! 最期をきっちり務めさせてくれ!」
覚悟してきたのだ。ちゃんと自害させてくれ。
その想いを、ロロノアは次の言葉で無慈悲に切って捨てた。
「足を開かせろ」

「っ!!」
動かぬ身体は、成されるがままに仰向けにされて足を開かされた。
「血を残す可能性のある男は、生かさない。それが戦場の掟だ。
黒足という男には、今ここで死んでもらう」
布越しの男の証にぴたりと刀が当てられた。
「ま…さか…」
サンジは信じられない気持ちでロロノアを見た。
「言っただろう。黒足という『男』には死んでもらう、と」
「やめろっ! なんのためにそんなことをする! 俺を男じゃ無くしてどうしようってんだ!」
「敗けた城の女の運命は決まっているさ」

絶望と悔しさに、金の髪が打ち震えた。
そこへさらに追い討ちがかかる。
「てめェは城のために領民のために、この身を捨てる気ではなかったのか?
一度捨てた身ならば、何をされようとも文句は言えねェはずだ。
自害させてもらえねェなら、この取引は無しだとでも言うのかよ?」

サンジは唇を噛み締めた。
逃れられないと悟ったのだ。

「わかった…。黒足という『男』は、ここで死ぬ。だが頼む。取っちまうのだけは勘弁してくれ」
「残したまま、『女』になる気か? それのほうが辛ェぞ」
「辛ェと思うなら、いっそきっちり殺してくれ」
蒼い目が翳(かげ)りを帯びて伏せられた。

それを見ていると、ロロノアの心の奥に、また、苦々しい気持ちが湧いてくる。
その苦さを打ち消すように、ロロノアは冷淡な声で命じた。
「ギン、こいつの『男』を括って漏らせないようにしろ」



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