修羅の贄 #6



都からの使者…それはたとえ使者であってもぞんざいな扱いは出来ない。しかも今回の使者は、ただの伝令ではなく、殿上人が懇意にしている諸侯である。用件は、聞くまでもなく上洛せよとの命と知れた。
だがこの前ロロノアが都に上ったのは、玻璃城を落とした直後だ。それからたった4ヶ月。再び上洛を促すには異例の早さだ。
それだけロロノアを大事にしているのだというのが使者の諸侯の話であるが、実際は警戒しているということだろう。勢いに乗ったロロノアが自分に反旗を翻さないか牽制しているのだ。
都へ行くとなれば、ロロノアは自分の領を離れる。貢物もいる。霜月の城から指導者と資金を奪おうというわけだ。
それにおそらく…サンジのことを聞きつけて問い質す気でもあるのだろう。



城内は、使者をもてなす饗宴とロロノア上洛の準備に追われた。離れの食事や庶務に携わる者も、本城の手伝いにかり出されて、もともと人の気配が薄い離れは、更にひっそりとした。
それでも御殿のほうの慌しさは伝わってくる。その対比は、この離れが、いかに表舞台から切り離された日陰の存在であるかを知らしめるようだった。



5日間の饗宴の後、使者は帰っていった。
それから間を置かずにロロノアも都へ旅立った。
それをサンジは思わぬ形で知った。

山中にあるせいか、城には時々朝靄がかかる。その日の明け方も、濃い朝靄に覆われていた。
サンジはまだ眠っていた。この離れに幽閉されて以来、否が応にも遅寝の生活に慣らされた身体にとってはまだ「夜」だった。

それでも、近づいてきた険しい気に、サンジは覚醒した。武人としての感覚はまだ残っているらしい。

夜具の上から躍りかかるように襲ってきた気配に、さっと飛びのく。
「誰だ!」
サンジは目を凝らした。
だが渡り廊下をぐるりと取り囲む跳ね上げ式の格子はまだ開けられておらず、室内は闇に包まれている。
サンジは息を殺して、少しずつ横へ移動した。視界が利かないのは相手にとっても同条件なのに、先ほど声を出したことで、かえって自分の位置を知らせてしまったようなものだからだ。

闇の中で感じる気配は自分以外にひとつ。単独で挑んでくるからには余程の使い手なのか、サンジを女と思って軽く見たのか。

前者だな、とサンジは思った。軽く見ているなら、すぐにまた襲ってくるはずだ。
しかしこの相手は、こちらの動きを慎重に量っている。脅すような声も出さない。

それにしても、加勢が無い。ギンもロビンもこの気配に気付いてないのだろうか。それとも先に、この侵入者にやられたのだろうか。

サンジは両手をそっと、斜め前方へ伸ばした。間合いをはかるためだ。
押し殺すような沈黙が続く。
先に動いたのは相手のほうだった。
パンッっと乾いた音がして、サンジの脇を何かが掠める。
身を翻してそれをかわして、足を振り上げる。
相手の身体の一部に当たった感触があった。
だが、それくらいでは相手は退散しない。
視界が利かないはずの狭い部屋の中を器用に動いて、サンジの背後へ回り込むと、再び何かを振り回した。
ピュンと空気を切るそれを横飛びでかわす。
崩れた体制を立て直すため、横へ飛んだ勢いのまま床をころりと転がろうとして、身体ががくんと引きとめられた。
足技を繰り返すうちに乱れ広がった女物の夜着の裾が、床に縫いとめられたのだと理解する前に、首に何かが巻きついた。

「ゥグッ…」
蛙が潰れたような音が咽喉から出た。首に食い込む縄を引き剥がそうとするが、指の入る間もなくそれはぎりぎりと食い込んでいく。

立った体勢で襲われたのなら、背後の賊に反撃のしようもあった。だが、床に腰をつけたまま背を賊に預けるようにのけぞった体勢ではもがくのが精一杯だ。
苦しさは刻々募る。サンジは手足をばたつかせて背後の賊を払いのけようとした。
と、賊が口を開いた。

「橘殿、もう足掻かないで下さい、余計に苦しくなる。すぐに楽にして差し上げますから…」
「ッッ…!」

よく知った声だった。
なんでギンが、という思いとともに、賊が彼であったことには納得した。
狭い部屋の中で、壁にも柱にもぶつからない巧みな身のこなしに、夜目が利くのかと思っていた。
サンジ以上にこの離れに詳しいギンなら、部屋の広さも柱の位置も身体にしみこんでいるだろう。
だが、この凶行は解せない。ギンが独断でサンジを殺そうとするとは思えない。

『俺を殺せと命じたのは誰だ? ゾロか?』

だが気道を塞がれた咽喉は、もはや声を形成しない。
目の前が真っ赤に染まる中、後頭部に衝撃を感じてサンジの意識は途絶えた。







『…う…痛い……チクチクする……細い針のようなものでつつかれているような…』

神経を逆撫でするような不快感に、サンジは半覚醒のまま身じろぐ。
混濁した意識では身体のどこが痛むのかわからない。
だが一度意識してしまうと、ちくちくざわざわとした感覚が、じんましんが広がるように身体のあちこちへ広がっていく。頭にもその感覚が這い登ってくる。
痛がゆいその不快感を振り払うように、サンジは夢うつつのまま、激しく頭を振った。
とたんに首がずきんと痛んだ。咽喉のあたりと顎の下が特に痛い。

『そうだ…、首を絞められたのだった…』
そう意識したとたん、泥の中のような暗い意識は、霧が晴れていくようにクリアになった。
『俺、死んだんじゃねェのか…?』

重たい瞼を上げると、辺りは明るくなっている。場所はいつもの離れの奥の間だ。
その奥の間の柱のそばで、サンジは縛られて横倒しにされていた。ゆるんだ縄が柱を巻くように落ちていて、いかにもそれは、最初は柱に寄りかかるように座らされていたが身体が横に崩れ落ちた、と見える状態だ。

両腕を後ろに回されて、着崩れた夜着の上から胸縄が掛けられている。はだけ気味の夜着のあわせからは、夜着の下…つまり素肌にも縄が掛けられているのが見て取れる。
腰周りは夜着に覆われているが、裾は乱れて、すらりと伸びた膝下が覗いている。その脚には、蹴りを封じ込めるように幾重にも縄が回されている。

その縄が、いつもの紐でなくて荒縄であるのにサンジは気付いた。
荒縄の硬いケバが肌を刺して、チクチクした不快感をサンジに与えていたのだ。
すでに縄に擦られて、サンジの白い肌を蹂躙するように赤い筋が浮き出ていた。

『なんだ、これは?』

サンジは事態が飲み込めなかった。
自分の首を絞めたのは確かにギンだった。だが、この縄を掛けたのはギンに相違あるまい。
ギンの縛りは決して血管を圧迫しない。血の流れを止めるほど強くは縛らない。
それなのに動きは封じられる。人間が動く時、どう重心を移動させるか、どこの関節を動かすのか、よくわかっているのだ。
そして、縄抜けしようともがくと逆に紐の輪が締まってくる。
そういう巧みさが、この荒縄の縛りにも感じられる。

首を絞めたのもギン。
縄を掛けたのもギン。

『どういうことだ?』

その時、新たな足音が聞こえてきた。
その足音は瞬く間に大きくなり、がたっと音を立てて離れの東回廊の襖が開かれた気配がした。
複数の人間が何か言い争う声が聞こえる。その合間に、はっきりとギンの声が聞こえた。
「ロロノア殿が留守の間に、勝手に入ってこられますな!」

『留守? いつの間に発ったんだ?…』

考えかけたところで、奥の間の引き戸が、がらりと開けられた。
朝靄はとうに晴れて、明るい春の陽射しが室内に差し込む。
眩しさに目がくらむ。
思わずきゅと目を閉じたサンジを見下ろすように数人の男が近づいてきた。
「ふん、これが黒足か…」
低い声だ。
だが、表情は逆光でサンジには見えない。

「いつも、こうか?」
ひとりがロビンに、いつもこのように縄が掛けられているかと問うた。

「いつもという訳ではありません。先日我が殿がこの者の暴言に大層ご立腹されて、しばらく縛っておけと仰せになったのです」
『え?』
そんなこと、あっただろうか? 記憶に無いが、サンジがロロノアに、立場をわきまえない物言いをするのは珍しくない。ロビンがそう言うなら、そういうことがあったのだろう。
それより、ロビンの表情のほうがサンジは気になった。ロビンの顔にはいつもの慈愛の表情が無かった。感情を落っことしたような冷えびえとした視線でサンジを見下ろしていた。

「ふむ…」
男がサンジの身体に足を掛けた。
横向きの身体を足でぐいっと仰向けに転がされる。
抗う間もなく、正面を向かされた。

縄に括られた肌が、光の下で一層白く見えた。同時に、縄目の赤い擦過傷や首にぐるりと回った鬱血の痛々しさが、否応にも目に入る。
髪は乱れ、顔色は青い。布をかまされた口元には血が滲んでいる。
眼孔はげっそりと落ち窪み、頬は反対にむくんだように腫れている。
眼だけが足蹴にされた怒りをたたえてギラギラと光っているのが、かえって、傷つきやつれた手負いの獣が執念だけで生きているという印象を男たちに与えた。

「黒足が生きていると聞いた時には、てっきり俺たちは、殿が黒足にたらしこまれて匿っているのかと思っていたが…」
「復讐のために殺さず責め嬲っているというのは本当だったようだな…」
男たちはサンジを値踏みするように見つめながら口々に言い合う。

「ロロノア殿はこれくらいでは姉姫様の怨みは晴れないとおっしゃっておいでです」
男たちの言葉を後押しするようにロビンが言う。
その言葉に男たちは頷いた。
「うむ。くいな様のことを思うと、やすやすと死なせるわけにはいかんな」



納得した彼らのに、今度は苛虐の気持ちが芽生えてきたらしい。
中のひとりがにやにやとサンジに近づいてきた。

「黒足殿、生き恥を曝すお気持ちはいかがなものですかな?」

言いながら手が伸びて、サンジの腿を夜着の上からまさぐるように撫でた。
びくっと震えた身体に、どっと嘲笑が起こる。
女物の夜着をまとったサンジがロロノアに何を強いられているのか容易に察しがつくのだ。
笑い声を立てながら引き上げていく男たちの背を、サンジは羞恥と怒りで睨みつけた。







足音が遠ざかるにつれ、サンジの緊張が解けていく。
同時に身体も心もひどく疲れていることを自覚した。

『生き恥か…』

それはサンジ自身が痛いほど感じている。
死ぬ覚悟を踏みにじられた悔しさとその後の屈辱の日々が、サンジの中にふつふつと甦る。
それでもその日々は閉ざされた空間での出来事だ。
耐え難いのは、自分の存在を知られた今後だろう。
離れの中の秘密は城内へ伝わり、さらに城外へ洩れていく。
そのうち誰かが俺を引き出して、好奇と蔑みの視線に曝すだろう。
自分はそれに耐えられるだろうか。

「橘どの…水です…」
思いつめていたサンジに戸惑いがちに声が掛かった。
はっと顔を上げると、数時間前、自分の首を絞めた男が、サンジの猿轡をすばやく解いて椀を差し出している。
「どういうつもりだ? 殺し損ねた男に情けか? それともこの水は毒入りか?」
問うと、ギンは苦渋の表情を浮かべながら、ただの水です、と答えた。
それでも警戒心を解かないサンジの様子に諦めたように椀を下げると、今度はサンジの縄に手をかけた。
一層警戒心を強め、身体を固くしたサンジに、ギンがなだめるように言った。
「縄を解きます。力を抜いてください」

飲まされようとした水が、ただの水なのか毒水なのか。
縄にかけられた手が、解こうと動くのか、それとも再びこの縄で首をしめようとするのか。
いずれにせよ、縛られて抵抗もできない今のサンジの命は、ギンの手の内にある。

いっそギンに絞殺されたほうが、楽なのかもしれない。
身体を弄ばれて、汚辱に悶える日しか自分に与えられないのなら…。
いや それでも、まだ死ねない…。
それだけ蔑まれようとも、玻璃の立場を不安定なままにして、死ぬわけにはいかねェ…。
あぁ、そうだ。
「俺はまだ…てめェに殺されるわけにはいかねェ。死ぬわけにはいかねェ…生き恥と言われようとも…」



「私は…」
あなたを殺す気は無いと言おうとして、ギンは言葉に詰まった。
首を絞めた事実を前にして、今さら何を言えるというのだろう。
白い首に残ったどす黒い鬱血痕が、己の所業を糾弾しているかのようだ。

ギンは歯を食いしばって、サンジの視線から逃れるように俯いた。
そして黙ったまま慎重に縄を解き始めた。着物の上の縄を解き、肌の上の縄を解く。
解き終わると懐から蛤の貝を取り出して、傍らに置かれたままの椀の隣に並べると、深々とお辞儀をして去っていった。

蛤の貝と言えば、中味は軟膏か紅と決まっている。
それに違わず、貝の中は清涼な香りのする軟膏が入っていた。
荒縄のケバで赤く腫れた肌に塗れということだろう。
疑い出せば、これも毒薬で、塗ったとたんに苦しみもがいて死ぬとも考えられるが、サンジにはもう、そんなふうには思えなかった。
殺そうと思うなら、縄を解く必要など無いのだ。

サンジは水の入った椀を手にとった。少しだけ口に含んでみて、あ、と声を上げた。
『甘い…』

水よりも、ほんのりと甘い。おそらく水飴を溶かしてあるのだろう。
サンジは、自分が気遣われていることを感じた。

『あぁ、そうか…』

多分ロビンもギンも、ゾロがいなくなった途端に、側近たちがここへ押しかけるだろうと予測していたのだ。
先ほど来襲した男たちが城内で地位の高い役職にいることは、その服装からわかっていた。
一兵卒ならともかく、城内で地位のある武将が一番に大切にするものは、国の存続であって城主ではない。
城主が自分たちの国を任せられる人物だと思えば喜んで従い積極的に働くが、任せられないと思えばその城主を失墜させて新しい城主を立てることなど当然なことだった。

彼らはサンジの生存だけを確かめに来たのではない。己の城主の審判に来たのだ。
生かしておくべきでない血筋の男子を生かすという禁を犯したロロノアの審判に来たのだ。

ロビンとギンは、ロロノアの弁護のためにも、サンジが生かされている理由を示し、ロロノアの行為が意味あるものであると、側近等に納得させなければならなかったのだ。
首の鬱血も擦過傷も、普段と違う荒縄も、ゾロがサンジをどれだけ酷く扱っているかの演出だ。
そして弁護団の企みは成功したらしい。
だが…。

『俺の存在は、この国とロロノアの立場を危うくしている…』

それに思い当たると、生き恥を曝すことには覚悟を決めた心が、キリリと痛んだ。











サンジの覚悟とは裏腹に、離れには平穏が訪れ、半月が過ぎた。
ロロノア不在のまま季節は初夏を迎え、近隣の山々では瑞々しい緑と花々が競っている。
自然の生命力に溢れる景色の中、サンジの首に今だ残る鬱血の痕だけが痛々しかった。

「ギンはどうしてる?」
サンジは、床の間に飾られた山ツツジを見ながらロビンに聞いた。
あの事件以来、ギンはサンジに会おうとしない。
会おうとしないが、ギンがこの離れをしっかりと守っていることはひしと感じる。
眠る時は寝所の隣の小部屋に控えているし、庭を眺める時には格子の影にいる。
時折、サンジの様子を好奇心から覗きに来る側近の連中を追い払っているのも知っている。
だが、海の荒くれ達に囲まれて育ったサンジは、こんな真綿にそっと包まれているような扱いは、こそばゆい。
あの時差し出してくれた水を毒入りかと疑ったのも謝りたい。

「俺、ギンに嫌われちまったのかな」
「どうしてそう思うの?」
「俺、恩を仇で返すようなことした。この国にもロロノアにも害にしかならねェ俺を助けようとしてくれたのに」
「ギンも、あなたに嫌われたと思っているわよ」
「だったら、なおさら会って誤解を解きてェよ…」
助け舟を求めるような青い目に、ロビンは結局ほだされた。

翌々日、サンジは湯浴みに行くと見せかけて、そっと奥の間に戻った。
奥の間に活けられている花は、大抵サンジが湯浴みをしている間に取り替えられている。
山ツツジは萎れるのが早いから、多分今日にはギンが花を取り替えに来るはずだ。
気配を殺してじっと待っていると、ほどなく、奥の間の並びにあって護衛の者が待機する小部屋の戸がすっと引かれた。花を手にしたギンが入ってくる。
床の間へ進みかけて、サンジに気付いてはっとした。
「…失礼致しました。湯浴みに行かれたものだとばかり…」

急いで下がろうとするギンをサンジは慌てて引き止めた。
「待てよ、ギン! 疑って悪かった。酷い事言って、悪かった。待ち伏せしたのは、それを言いたくて…」
「ちょっと待ってください、橘どの。何を謝っているんです? 酷い事をしたのは俺のほうでしょう? あなたを殺そうとしたんですよ」
「それについてはロビンちゃんから聞いてる。首を締める必要があるのか尋ねたロビンちゃんに、虐げられている者の目としては俺の目は柔かすぎるって答えたんだってな。俺、てめェに感謝してるよ。だからてめェも自分を責める必要なんか無ェ。こそこそ隠れてなくていい」

ギンは当惑した目でサンジを見つめた。
「橘どの、確かに俺は、本当にあなたの首を絞める必要があったんだろうかと、ずっと自問自答しています。でも、あなたに会わないのは、自責の念で顔を合わせられないというような理由じゃねェんです」
「じゃ、なんでだ?」
理由を聞かないと納得しないという表情のサンジにギンは困ったように息を吐いた。

「橘どの、お忘れのようですが、俺は縄師なんです。あなたの前に出る時は、あなたに縄を掛けるとき。縄が恋しいのでないなら、こんなふうに俺に会おうとしてはいけません」

ギンはサンジをじっと見た。その瞳に情念が映っている。
この瞳は何度も見た。離れを守る隠密ギンの瞳でなく、肌と縄とが作り出す世界に魅入られた縄師ギンの瞳だ。
その瞳に見つめられ、サンジの頭の中に冬の日々が甦る。
――燈明の炎がゆらめく闇で、ギンの巧みな手がサンジの肌を戒めていく。腰巻だけの淫らな姿にされて、手首に、腕に、胸に紐がかかり、脚を開かされて、男の器官を封じられ…。そしてギンの傍らには、そんなサンジを見つめるゾロが――

そう思ったとたん、サンジの身体の奥が、カッと燃えた。



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