修羅の贄 #21




ぽかぽかと暖かかった気候が八つ時を過ぎて急速に冷えてきた。あと半刻(約1時間)もすれば日没だ。黄色く色づいた葉をキラキラと黄金色に輝かせていた陽の力は弱まり、山全体が赤みを帯びてくる。
一行の前方に滝が見えてきた。落差、横幅ともに三十間(約55メートル)弱はあるという九龍之滝だ。黒光りする岩盤が滝つぼを取り囲むようにそそり立ち、その岩の天辺から轟音と共に水か勢いよく流れ落ちてくる。これでも雪解けの時期に比べれば水量は少ない。
夏ならば涼しくて良いだろうが、今は晩秋の夕刻だ。水飛沫がけぶるように満ちた空気に、誰もがぶるりと震え、やや歩行を早めた。

滝を通りすぎ、冷たい空気を吸い込まぬように固く閉じていた中御所がほっと息を吐いたその時だ。
沿道の森から何か黒っぽい塊が行列をめがけて降ってきた。ひとつではない、一抱えほどの塊がいくつも、変わった音を発しながら降ってきたのだ。
「なんだ!?」「なにごとだ!?」「猿です!」「猿が襲ってきました!」
一行は騒然となった。

駕籠と違って輿での移動は多くの人足を必要とする。駕籠は大国の国主が乗るものでも担ぎ手は4〜6人で済む。しかし輿の場合、サンジの乗る簡素な板輿でも8人の提げ役が必要だった。
中御所が乗っている豪勢な御簾輿では16人で輿を提げている。これでも実は少ないほうだ。平坦な場所用の輿は井桁に組んだ棒の上に輿が載っているからさらに人数が倍になるのだが、今日は山道用に、横棒がついていない輿に中御所は乗っている。そうは言っても16人もいるわけだから、一人がつまづいたりすると玉突き事故のようにほかの者も一斉に足をもつれさせることがある。
今回もそうだった。森側の一番前の担ぎ手が、向かってきた猿に驚愕して足を止めると、後ろの担ぎ手が一斉に前へつんのめって均衡を崩した輿が激しく揺れた。
「決して手を離すな!」
あわてて鳩が叫んだが、担ぎ手らは襲ってくる猿を交わすことのほうが目下の一大事だ。
あっという間もなく輿が地に転がる。一瞬遅れて前方の御簾から中御所が転がり落ちる。その中御所へも猿が急襲する。
「わぁああああ!!」
半ば狂乱状態の中御所が、頭を押さえてうずくまったまま奇声を上げる。
慌てて鳩が中御所へ駆け寄ろうとするが、同じように奇声を上げて右往左往する担ぎ手たちに阻まれる。
「静まれ! 静まれ!」
鳩が声を枯らして叫んでも、予測のつかない猿の動きに翻弄される人々の中で鳩は身動きとれず、もみくちゃにされる一方だ。



「いったい何が起こってるの?」
前方の騒ぎが聞こえてくるものの、状況が読めない羊が、随行者の中でもっとも背が高い牛に聞く。
「とんだことになった、加勢に行く」
「加勢って? まさか敵襲?」
「猿だ」
前方の事件を人の頭越しに見て取った牛は、そう言い残すと人足らを掻き分けるようにして鳩のもとへ急いでいった。

「猿?」
状況がわからないのは気がかりだが、隊列後部の人足たちが浮き足立っている。彼らも喧騒は聞こえるものの状況がわからないので不安に駆られているのだ。ここで羊までこの場を離れてしまっては余計に彼らは想像を悪いほうへ膨らませて、持ち場を離れて逃走しようとする者も出るかもしれない。
なんとか皆を落ち着かせなくては…。少し後退して、前の騒ぎが波及しないように距離を取ったほうが良いかもしれぬな。
羊は最後尾の警護者に後退命令を出そうと振り向いた。
そのとたん、ドンとみぞおちに打撃を受けた。しまったと思う間もなく羊はその場に崩れ落ちた。



時間をほんの少し巻き戻そう。猿の集団が隊列の集団を襲い始めるよりも少し前、サンジの乗った板輿がようやく滝の前の橋を渡りきった。
隊列の最前部が橋を渡ってから遅れること暫く。橋を渡りきったところで前方が騒がしくなり、隊列が止まった。
揺れなくなった輿に違和感を覚え、サンジはまどろみから目をさました。一瞬自分がどこにいるのかわからずに視線をきょろきょろと動かす。徐々に板に囲まれた状況を理解してがっかりした。
船に乗っていたと思ったのに…夢か…。波の音まで耳に残っている…。ほら今でも聞こえる…。
次第に人のざわめきが大きくなり、なにやら騒がしくなった。それでもその喧騒の合間合間に波音が聞こえるような気がする。水の気配も濃く感じる。
幻聴まで聞こえるようになっちまったのかな、やべぇな俺…。
すぐそばに滝があるとは知らないサンジは、ぼんやりとそんなことを思う。

「猿?」という羊の声が聞こえた。
猿?…サンジも頭の中で繰り返す。なんだ? なにか起こってる?
ぼんやりした思考が急に回りだした。輿の外の様子を拾おうと耳をそばだてた。そのとたん、乗っていた輿がグンと降下した。そのまま地面にぶつかる衝撃が、輿の中で横倒しになっているサンジの身体に激しく伝わってきて、息が詰まる。
痛いと言う間もなくガタンと大きな音が耳元で鳴り、側面の板が跳ね上げられた。夕暮れのにぶい光が板輿の中に差し込む。
そして、いかにも山賊風の男が、板輿の中にぬっと頭を突っ込んできた。ぼろぼろの衣服をまとい、ザンバラに乱れた髪も顔も、泥に汚れている。
驚愕して声を上げかけたサンジの口が大きな手ですかさず塞がれ…「俺だ」

耳元で発せられた声にサンジの目は大きくなった。
「ぞ…ろ…?」
うなづきながらロロノアはすばやくのサンジの縄を切っていく。上半身を開放し、着物の裾を捲り上げて足の縄を切る。
輿からサンジを引き出して「逃げるぞ」と立ち上がったところで、サンジが地面に横座りのままでいることに気づいた。何をぐずぐずしている?という顔のロロノアにサンジは力なく笑った。
「立てね…んだ…」
いまだ呂律が怪しい口でそう言ったとたんにロロノアが般若の形相になった。
あ、なんか勘違いしてる?
そう問う前にロロノアが傍にいた手下に押し付けるようにサンジを渡した。
「コイツを担いで先に戻れ。俺はあいつらをぶった切ってくる」
「違っ…立てね…のは薬の…せぃ…。抜け…たら…多分もとに戻……ッ!」
サンジは必死にロロノアの背に叫ぶが、やや痺れが残っていることと咽喉がカラカラに乾ききっていることで、うまく言葉が発せられない。
言っている間にも、手下はロロノアの命令を受けてサンジを担ぎ上げる。
「ロロ…を行かせる…な…呼びもどせ…」
手下の肩でサンジはあえぐように必死で訴えた。
「ゾロの仕業とばれ…たらまずぃ…から…賊に化けた…んだ…ろ?…」
サンジの言葉に手下ははっとした。橋の真ん中で後ろを振り返る。
隊列の前方に向かって猛進している主人の背中が見えた。後ろ姿であっても、ロロノアが相当頭に血が上っていることがわかる。手下は顔を青くしてつぶやいた。
「そうだ、殿の仕業とはわからぬように、物盗りの仕業と言い逃れできるように計画を練って周りの里を金で懐柔して…それなのに、あんたのせいだ…」
滝の音と喧騒で、手下のつぶやきがよく聞こえない。
それよりもサンジは早くゾロを止めてくれと気持ちが逸る。
そこへ、山間のほうからピーーッピーーッと高い笛の音がした。滝音をものともせずに響き渡る。「撤収せよ」という意味の海守りの笛だ。全体の様子を見ている味方が山間に控えているのだとわかってサンジはほっと胸をなでおろした。
海守りの笛を使うとは考えたな。あれ? アイツ、笛を聞き分けるようになったのか? いつのまに? まぁとにかく…「良かった…これでソロが戻ってくる…」
しかし手下は固まったまま動かず、つぶやきを続けている。
「殿は、あんたを連れて先に戻れって言った。俺もついさっきまではそのつもりだった。だがわかったよ。殿はあんたの一大事となれば国のことを忘れて動いちまう。殿がやったことだとわかったら、霜月はおしまいだ。たとえもし、この件が殿の仕業とばれずに済んで、今後あんたに一大事もなくて、霜月が安泰だったとしても、あんたがいれば殿はきっとほかの女に目がいかねぇ。シャルリア様にだってなびかなかったんだからな。そしたらお世継ぎが生まれねぇ。お世継ぎが生まれなかったら後継ぎ争いが起こって霜月は荒れる。結局あんたは、どう転んだって俺たちの国を危険にさらすんだ……」
手下のつぶやきは、やはり滝の音と人々の喧騒にかき消されてサンジの耳には届かない。が、なにか尋常でない気配を感じる
「おい? 大丈夫か?」
肩に担がれたままのサンジが手下の身体をゆすると、手下が思いつめた顔でサンジを見た。
「……すまねぇが…ここで死んでくれ」
言うなり男は、担いでいた身体を橋の欄干から川へと放り投げた。



ふわっと身体が浮いた。
落ちる?

とっさには自分の身に起こったことが理解できなかったが、身体が勝手に反応して受身の体勢になる。身体を丸めたためか水面にぶつかる衝撃は思ったほどではなかったが、身体はずぶずぶと水中へ深く沈んでいった。



川の水は、海の水よりも冷たい。昨日の雨のせいで、水は濁っており、水量も増えている。サンジは濁流の中でもがくが、着衣は水を吸って瞬く間に重たくなり、しびれた四肢は身体にまとわりつく衣服をはぎ取ることができない。
もがくサンジの耳にピーーーーーーーーッという、長く鋭くひときわ甲高い笛の音が聞こえた。サンジには耳慣れた笛の音。北海の荒海で船乗りたちが言葉の代わりに交わす笛の音は、波の音にも風の音にも消されないように工夫されていて、音色と拍子で意味を持つ信号を作る。いま聞こえた音は、海に人が落ちた、という合図だ。
再度、同じ調子の笛の音が響いた。その音は、サンジを一瞬で海の男に呼び戻し、慌てふためき混乱していたサンジの頭を冷静にさせた。
あの笛の音は、誰かが海に落ちた合図…。誰だ?…落ちたのは誰だ?…、俺だ。そうだ、慌てるな。ここは川だが落ちた時にすることは海と同じ。やみくもに暴れてはいけない。ますます溺れるだけだ。身体の無駄な力を抜け。水流を感じ、浮上することをまず考えろ。

身体の力を抜き、濁流に逆らわずに身を任せる。と、ふわりとサンジの身体が水面に浮き出た。
ぷはッッと息をついた。が、のんびりはしてられない。流れの方向にひとかかえもありそうな大岩が川面から突き出ている。
このままでは衝突は避けられない。ええい、蹴り砕くまでだ!とそう思って身体を動かそうとして気づいた。肝心の脚が、薬のせいで痺れて動かないことを。
くそっ…避けられねぇ!
せめて正目衝突だけは避けようと、渾身の力で上半身をひねる。直後にゴンッといやな音が耳元で聞こえ、左肩から肩甲骨にかけて激しい衝撃を受けた。肺も肋骨もきしんで、サンジはガハッと息を吐いた。左手の力が急激に抜け、ブランと揺れる。岩にぶつけた衝撃で脱臼したのだ。
「問題ねぇ、頭や背骨を損傷するよりは良いじゃねぇか」
サンジは自分に言い聞かせるようにうそぶく。しかしこのまま岩にしがみついていられるのは時間の問題だということもわかっていた。
サンジは岩から五間足らず(9メートル)向こうにある石の河原を睨んだ。岩と河原の間には急速な濁流が流れている。いつものサンジであれば、うまくその流れに乗りながら岸にたやすくたどりつくだろう。
しかし、今のサンジには、その五間の距離がはてしなく遠く思える。水を蹴って進むはずの脚は動かない。水を掻くはずの手は、左は脱臼してまったく力が入らない。かろうじて動く右も薬で間断なくふるふると震えていた。


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