修羅の贄 #24




遠くで波しぶきが上がった音を感じてゾロは目覚めた。
隣を手でまさぐって、慌てて飛び起きた。あるはずの身体が無い。素っ裸のまま粗末な木の扉をバッと開けてあたりを見回す。
と、足元で声がした。
「下帯くらい付けろ、バカ!」
扉を出たすぐに壁にサンジが寄りかかって海を眺めていた。
「驚かすんじゃねぇよ!」
安堵から悪態をつくと、サンジがふふんと笑った。
「驚かせた覚えは無ェな。いったい何に驚いたんだよ。逃げられたとか思ったわけ?」
「うるせぇ!」
ゾロは下帯を付けるためいったん小屋に戻り、それから再び出てきて、小屋の外壁に寄りかかるサンジの隣に立った。

入り江は、漁船が出港を終えていて静かだった。ゾロが目を覚ますきっかけになった波音は、出港時に船がざぶんと海へ繰り出す音だったようだ。
海は朝日を受けて輝き、まもなく見えなくなるだろう星々が最後の瞬きを放っている。
朝日の輝きを受けたサンジの顔は、しかし、晴れやかというよりも、複雑な表情だった。逡巡と決意が交差している。
晩秋の冷たい海風に髪を揺らしながらサンジは言った。

「まぁ、逃げても良かったんだけどよ…逃げても、てめェはまた追ってくるだろ? だから、ちゃんと話をつけねぇとな」
「なに?」
問いかけてからゾロは、サンジの話が「逃げられたかと思った?」という先ほどのセリフに繋がっていることに気づいた。

「俺から逃げるって、なんだ? おまえは俺と霜月に帰るために、あいつらから逃げたんだろ?」
「帰る? 何言ってんだ、てめェ。俺はてめェと戻るつもりはねェぞ」
「もしかして俺がまたおまえを縛って虐げると思ってるのか? あんなことはもうしない。俺がおまえにした仕打ちには間違っていた。本当にすまなかった。謝るだけじゃ気がすまないなら、なんでも言ってくれ。一生掛けて償う」

サンジは、海の色が映る瞳を見開いた。
「縛る? いや、そんなことを思ってるわけじゃねぇ! いや、あの仕打ちは、十分に謝ってもらうし、慰謝料もたんまりと欲しいけどよ! クソ、思い出すだけでも腹立ってきた!! って、そうじゃなくて、俺が霜月に戻れるはずがねぇだろ!」
「どうして? うるさがたは、俺が黙らせる」
「違ェよ! 俺が霜月にいたら、俺を殿上人の行列からかっさらったのはてめェだって言ってるようなもんだろ!」
「俺は顔を見られてないはずだ」

サンジが困ったように息を吐き、諭すような静かな声で言った。
「実行犯が誰かは関係ねェ。指示したのは誰か、だろ。いや、たとえてめェが指示も実行もしてなかったとしても、俺が霜月にいたら、霜月国は俺を匿(かくま)ったと見なされて重罪確定だろ」
「だったら、霜月に戻らなくてもいい」
「…………」

沈黙が波音に溶け、ゾロはサンジの左側に座ったことを後悔した。長い前髪に隠れて、彼の表情が見えない。ゾロは言い募った。
「このまま、二人でどこかへ行けばいい。海でも山でも、おまえとならどこでも生きていける」

サンジはふっと笑った。
「盛大な求愛をありがとうよ。だが、てめェが霜月からいなくなったら、なおさらてめェが俺をさらった犯人だと認めることになるだろ」
「犯人で上等だ。俺はもうコーザに言ってきてある。俺が戻らなかったら、あとを頼むと。あいつのほうが俺よりずっと国主に向いている」
「バカ、たとえ国主じゃなくなっても、てめェのような危険な猛者を奴らが放っておくはずはねぇ。それに俺のことも奴らは追うだろう。悔しいことにてめェのように脅威としてじゃなくて、利用価値の高さゆえだろうけどな。そんなてめェと俺じゃ、安住の地なんて無ェだろ」
「安住の地なんて無くてもいいだろ、おまえと俺なら、向かうところ敵無しだ」
「やめてくれ。国主をコーザに譲るのは百歩譲ってよいとしても、てめェが将としての力を発揮することもなく認められることもなく、こそこそした逃亡生活を送るだなんて…。俺はそんなのは絶対嫌だ!」

論理や理屈ではなく、感情で「それはイヤだ」と言われてしまえば、覆すのは至難の業だ。もともと口論ではサンジに叶うはずもない。

「なぁ、ゾロ……アイツらはこの機会に霜月を潰そうとしている。そして俺の玻璃国からは、搾取しようとしている。そして俺は、悔しいことに、そのどちらの口実にも、格好の餌なんだ。でも俺は、奴らに利用されるなんてまっぴらだ。…だから……俺は姿を消す」
「なんでおまえだけ!」
激するゾロをなだめるようにサンジは、ゾロの肩にコトンと自分の頭を預けた。
「…てめェ、俺にした仕打ちを償うってさっき言ったよな。だったら、俺を解放しろ。俺を追うな。それが俺への償いだと思え。な? 落とし前をつけてくれるよな、ゾロ?」

言うや否や、サンジはゾロをぎゅうっと強く抱きしめた。
そしてゾロが抱き返そうとサンジの身体に手を回す前に、飛びのくように身体を離した。
「ゾロ、お天道様は空高く上がったぜ。漁船が戻ってくるのは時間の問題だ」



空を仰ぎ、海を見、サンジは海の方へ歩き始めた。
「見ろよ、ゾロ。海だ、海…。……俺…、もう見ることは叶わないと思っていたのに…海だよ、海……」
サンジの瞳から、おさえようもなく涙がこぼれた。
「ゾロ、俺を海に返してくれるよな? 俺はまた船に乗りてェ。交易で玻璃をもっと豊かにして、その利益でてめぇの霜月国を支えてェ。船に乗ることが、俺の戦い方なんだ」












◇ ◇ ◇



春先とはいえ夜風はまだ冷たい。ロビンは旅支度の上にもう一枚着物を重ねて外へ出た。
「どこへ行く?」
目の前に男が立ちふさがった。霜月の国主の片腕となった銀髪の男が立っている。
そして背後の気配にロビンはゆっくりと振り向いた。緑髪の国主が立っている。
前を後ろを封じられた。逃さないということか?

「……殿…、わかっていらっしゃるでしょう? 私たちがしたことを?」
霜月の国主は肯定も否定もしなかった。
「おまえたちがしたことなど知らぬな。知っているのは殿上人の死の知らせだけだ」



ゾロが霜月に戻ってきてからすぐに、ぞっとするような噂が流れた。
殿上人の隊列から行方不明になった姫君は、山賊たちの慰み者になってさんざん嬲られた後に殺され捨てられ野犬に食われたと。実際、姫君が来ていた衣装がボロボロになって山麓で見つかった。

この噂に震えあがった殿上人は、道中に山賊に襲撃されぬよう、避寒地からなかなか帰って来なかった。
かろうじて要職にある殿上人だけがものものしい警備と共に帰ってきた。
チャルロスはこの事件の責任は鳩たちにあるとして彼らを追放した。
そして鳩たちの警備がなくなったチャルロスが暗殺されたのは、事件から数か月後の冬の終わりの時期だった。



ロビンはゾロが掲げる灯の火が映る瞳をゆっくりと伏せた。そして言った。
「そう、霜月とは関係なく、これは私たち二人の私怨です。ですから行かせてください。やがて、裏社会の者が、手口や情報の仕入れ先などから私たちの仕業だと勘づく前に」

その晩、霜月から、黒髪の女と縄使いの男の姿が消えた。












◇ ◇ ◇



荒海で有名な海が、その日は荒れずに柔らかい朝日に輝いている。
「良い出港ね」
ロビンは出港の指揮を執るサンジに声をかけた。
「穏やかすぎて物足りねェくれェだ」
サンジは笑った。
「あら、サンジは慣れていても、私は初めての船出なのよ。穏やかに越したことはないわ」
「そうだった。ではロビンちゃん、改めて伺います。俺と一緒に海へ出てくださいますか?」
ロビンは微笑んだ。
「もちろん。私の知恵が役に立つなら、どこへでも。そして私の知恵が及ばない世界を見に行くためにも、どこへでも」

そこへギンが現れ「俺には聞いてくれないんですかい? 俺も初めての船出ですが」
「野郎を気遣う心は持ち合わせて無ェ」
「あぁ、ほんとに、霜月の殿様はなんだって、こんな人を女性に仕立てようとしたんだろな」
三人は大笑いした。

そこへゼフが現れ、船に近づいてきた。彼はいつも通り強面だったが、つきあいの長い側近には、苦難を乗り越え帰ってきた養子を誇らしく思っていることがよくわかった。
「行ってこい! 世界は広い。世界の海を見てこい」

サンジは頷き、胸元に下げた笛を咥えた。
春の海に、高らかに出港の笛の音が響いた。








◇ ◇ ◇



―――― むかし、霜月の国にロロノアという国主がいました。
ロロノア様は交易と海運で栄えていた「玻璃」という国を手に入れました。
玻璃はたいそうお金持ちの国でした。そして荒海を乗りこなす船乗りがたくさんいる国でした。
ロロノア様は、この玻璃が交易で得た利益と船乗りたちを使って、霜月で林業を始めたのです。
ロロノア様はひたすら霜月国の発展に力を注ぎ、生涯、誰も娶りませんでした。
こんにち霜月が栄えているのは、ロロノア様のおかげです。――――



「ロビンちゃん、何それ?」
「うふふ、霜月の百年後にこういう言い伝えが残るといいなと思って考えてみたの」
「えーー、あいつには勿体なさすぎる良い話だろ、そんなの。それに誰も娶らないってお家騒動にならねぇの? ま、いいけどよ。それより俺のは? あいつのなんてどうでもいいから、俺の言い伝えは?」
「そうね……」



―――― むかし、玻璃の国にサンジというお世継ぎがいました。
サンジ様は玻璃の国が危機に見舞われたとき、その身を投げ出して玻璃を救おうとなさいました。
そして山奥の国や都などを渡り、玻璃を救ったのです。
しかしサンジ様はたいそう奔放な方でいらしたので、その後、玻璃のお世継ぎの座に戻ることなく船乗りになりました。そして外海の国との交易を始め、玻璃をいっそう発展させました。
こんにち玻璃が栄えているのは、サンジ様のおかげです。――――



「いいね、いいね。でも俺の奥方の話がないよ。麗しいロビンちゃんを娶り…って部分が無いよ」
「それは事実と違うわね。それにそんな話を入れたら、嫌がる人がいるでしょう?」
「いないよ、いないよ」
「いるでしょう、お山のお城のお殿様が」
「あんなのは嫌がらせておけばいいの。俺にさんざん無体なことをしたんだから」
そうね、とロビンは思う。あの仕打ちは見ていて辛かったものね。少しお灸をすえられるのも仕方がない。

あの逃亡劇のあとゾロはサンジを伴わずに霜月へ帰ってきた。落胆するロビンにゾロは重たい口を開いた。『追うなと言われた』
それをゾロは律義に守っている。サンジのほうから霜月へ来るのを待っている。それほど負い目があるのだ、サンジに与えた屈辱に対して。
でも今回はだいぶ長く霜月へ帰っていない。前回霜月に帰ってから二年近く経っている。ゾロはさぞ待ち焦がれていることだろう
だが、それはそれで信頼関係ができてるのよね、とロビンは思う。
自分以外に心を奪われずに帰ってくるだろうと信じて待っているゾロと、自分以外に余所見をせずに待っているだろうと信じて待たせておくサンジと。
うふふ、とロビンは微笑んだ。



潮風が頬をはたく。大きくはらんだ帆が明るい光をはじいている。青い空と青い海。良く晴れている。
しかし外海の波は高く、船首が空を突き上げたかと思うと、次には海底に墜落するかのように前掲する。
それでも怖くはない、とロビンは思った。優秀な船乗りと一緒だから。



【本編完結】




長々とお付き合いありがとうございました! これにて本編完結です。ご感想などいただけると励みになります。ぜひ右のサンちゃんからお寄せください。後日談をUPするか迷っています。読みたい方は拍手や日記などから「希望」とお知らせくださいませ。(web拍手)